第四十八話 惨劇の夜

 夜の庭に、ひゅう、と風が吹き抜けた。

 枝が鳴り、枯れ葉がかさりと転がる。


 月明かりが白く差し込む庭の端に、ひとつの背中が立っていた。

 それを見た瞬間、胸の奥がざわついた。

 薄い皮膚の下を、ぬるりと這うような違和感——冷たいものが心をなぞっていく。


「……なぁ」


 ぽつりと声をかけると、ゆっくりと振り返った。

 その顔には、何もなかった。感情も、色も。

 まるで、面を被っているかのような無表情だった。


「……なんですか」


 声もまた、死んだようだった。


「宵香と……一緒にいたな。見たぞ」


 沈黙。

 その間さえ、どこか遠くのもののように感じられた。


「それが、どうかしましたか?」


 無機質な言葉が返ってくる。

 まるで、意味を持たない会話をなぞるように——。


「……本気なのか。飛琴のことは、どうするんだ」


「何を勘違いされてるのか知りませんが、私と飛琴さんの間に、そういう関係はありません」


 その言葉に、何かがすとんと崩れた気がした。


「……本気で言ってるのか。飛琴は、おまえを……」


 言いかけて、口が止まる。

 言葉は形を失い、冷たい夜気のなかに消えていく。


 信じていた。

 秋房なら、そんなことはしないと思っていた。


「じゃあ……今度は宵香か? あっちの方が、都合がいいのか」


 言った瞬間、喉の奥がひどく冷えた。

 自分の声なのに、別人が囁いたような感覚。


「……そうかもしれませんね」


 感情のない声。けれど、拳がほんのわずかに震えていた。


「……どうしたんだ、おまえ。おまえらしくもない」


「らしくない……?」


 秋房が、笑った。

 それは、壊れかけた人形がぎし、と軋むような音に似ていた。


「……もういいでしょう。部屋に戻ります」


「待てよ」


「話したところで、どうせ——」


「話せよ!! 話さなきゃ、分かるわけないだろ!!」


 声が、夜を裂いた。

 それでも秋房は、何の色もない目でこちらを見ていた。


「……おまえが、大事だから言ってるんだ……」


「だったら、黙っててくださいよ……!」


「おまえは……っ」


「勝手に、決めつけないでくれ!」


 冷たく響く声。

 痛みが、言葉の刃となって突き刺さる。


「……ふざけるなよ」


 気づけば、襟を掴んでいた。

 その奥に隠している何かを、引きずり出さずにはいられなかった。


「……ほんとに、それで終わらせる気かよ……!」


 秋房は一瞬だけ目を伏せ、すぐに静かに言った。


「離してください」


「だったら……言えよ……! 言えないなら——」


「離せって言ってるだろ!!」


 その瞬間——


 秋房が、力任せに腕を振り払った。


 次の瞬間、音がした。


 ——ぐきり。


 骨の軋む音。それに続く、不自然な沈黙。


 秋房の身体が、夜気に引かれるように傾く。

 庭石にかかとを取られたその瞬間、まるで何かが吸い込んだように彼の身体が宙に浮いた。


 ——べちゃ。


 いやに生々しい、濡れた破裂音。

 彼の後頭部が石にぶつかり、皮膚が裂け、何かが溢れた音だった。


 そのまま、ゆっくりと地面に崩れ落ちる。


「……っ……!」


 震える手を伸ばす。だが、遅い。届かない。

 視界の中で、彼の身体が無抵抗に倒れ伏した。


 首が、曲がっていた。

 明らかに、人の骨が取り得る角度ではなかった。


 目は、開いていた。こちらを、見ていた。

 けれどその奥には、もう“秋房”の気配はなかった。


 風が、木々を鳴らす。

 虫の音すら止まった夜に、その音だけが妙に響いていた。


 彼は、もう——動かない。


 


……気がつけば、俺は膝をついていた。


 あの庭は、もうどこにもなかった。


 ここは、紅暮荘の裏手。古びた駐車場。

 けれど、土に触れた感覚と、あの夜気の息苦しさだけが、まだ皮膚の奥に残っている。


「……やっぱり……あれは……」


 呟いた声は、喉の奥でかすれていた。


 夢じゃない。幻でもない。

 あれは、確かに起きたことだ。俺の中に——焼きついている。


 ——どうして、こんなことに。


 問いは誰にも届かない。風すらも、その声を避けるように、静かだった。


 そのとき。


 気配を感じて、顔を上げる。


 駐車場の奥。

 街灯の光が届かない暗がりに、“それ”はいた。


 人影。

 いや、《影》。


 輪郭はぼやけ、黒に溶け込みながら、ただこちらを見ている。

 何も語らず、もう何も映さない。


 けれど、それでも——十分だった。


(……なら、今度は、俺が言う番だ)


 ゆっくりと、立ち上がる。

 夜風がシャツの裾を揺らし、頬を冷たく撫でた。


「……あなたは、冬陽を……恨んでるわけじゃない」


 影は動かない。


「信じてほしかった。なのに、信じてもらえなかった。それが——苦しかったんだ」


 沈黙のままの影に、なおも言葉を重ねる。

 この確信だけは、手放してはいけない。


「冬陽は、あなたを誤解していた。……それが——どれほど辛かったか」


 息を吸い込む。肺の奥が痛むほど、深く。


「……それが、あなたが伝えたかったこと。違いますか」


 言い終えたとき、空気が、わずかに揺れた気がした。

 風の音が止んでいた。木々も虫も、沈黙していた。


 影は、ただそこにいる。

 動かず、語らず——ただ、こちらを見ている。


(……届いた、のか?)


 心の奥で、誰かが囁くようだった。


 だが、影は何も応えない。

 ただ、その場に、じっと佇む。


 その沈黙が、あまりにも静かで、あまりにも重かった。


 まるで、すべてを肯定しているようにも。

 あるいは——何も届いていないかのようにも。


 月明かりの下、闇は深く、影は揺れなかった。

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