第四十壱話 開かずの間
朝食を終え、道具を手にした俺と美燈は、ふたたび二階へと向かった。
軋む階段を踏みしめるたび、木造の骨がわずかに震える。
手にしたバールの冷たさが、指先に重く沈んでいた。
廊下に出た瞬間、息を飲む。
(……あの気配が、ない)
昨日まで確かにそこにあった、背筋を撫でるような悪寒。
誰かに見られているような、吐息すら詰まる感覚。
それらが、まるで嘘のように消えていた。
けれど、不思議と“静けさ”のほうが怖かった。
嵐の前の沈黙。
あるいは、こちらが“視界の外に出ただけ”なのかもしれない。
「……やっぱり、静かだね」
美燈が、小さな声で呟いた。
俺は無言で頷く。
開かずの間の前に立つ。
襖は、昨日と同じように閉ざされていた。
指をそっと触れると、湿った木の冷たさが皮膚を伝ってくる。
「いくよ」
バールを両手で握り直し、襖と柱の隙間へと差し込む。
静かに、ゆっくりと力を込めた。
ぎ……ぎぃぃ……
木が軋む音が、廊下に長く滲んだ。
美燈が、ぴたりと息を止める。
歪んだ敷居が軋みを上げ、やがて襖がわずかにずれる。
さらに力を込めると——
バンッ!
襖が内側へと倒れ、長く閉ざされていた部屋の空気があふれ出す。
同時に、埃がふわりと舞い上がった。
その瞬間、空気が変わる。
風の通りもないのに、頬を撫でる冷気。
体温を削るような静寂。
何かが、“動いたあと”のような気配だけが、そこにあった。
「……開いた、ね」
俺は一歩、足を踏み入れる。
背後から、美燈も静かに続いた。
部屋は薄暗く、ほかの部屋と同じ造りのはずなのに、空気だけがまったく異なっていた。
時間がそこだけ止まっているような感覚。
いや——沈んでいる。
畳の上には、白く褪せた布団の跡。
誰かが、ずっとそこに横たわっていたような、沈みきった痕。
壁際には、文机と低い本棚。
その奥には、背の高い箪笥が無言のまま佇んでいる。
「……ここに、何があるのか」
独り言のように呟いた声が、吸い込まれるように部屋に溶けていく。
誰かの視線が、背後から静かに伸びてくるような錯覚。
けれど、もう引き返せない。
「行こう、美燈」
「……うん」
俺たちは、時間が動きを止めたままの空間へと踏み込んだ。
空気は重く湿っていて、ひと呼吸ごとに肺が鈍く満たされていく。
何かを押し込めるような、閉ざされた空気。
障子は閉まり、小窓から落ちる光だけが、この部屋の唯一の外界。
その光に照らされ、舞い上がった埃がゆっくりと揺れていた。
まるで、空気そのものが、水に沈んでいるように。
文机の上には、硯箱と毛筆。
そして、折り重なるように積まれた原稿用紙。
朱のインクがにじみ、乾ききらない筆跡が紙面を濡らしていた。
本棚には数冊の本。すべて背表紙は日焼けし、文字は判別できない。
だがその中に、一冊だけ妙に新しい革表紙のノートがあった。
まるで、“最近”置かれたかのように。
その横、壁に吊るされた一枚の紙。
……いや、絵だった。
墨で描かれた、一人の男。
細身の体で、こちらを振り返るように立っている。
描かれているはずのない“目線”が、なぜか胸を深く貫いてくる。
視線を逸らし、再び戻す。
——絵の中の男の角度が、微かに変わったように見えた。
「……ここだけ、時間が止まってるみたいだね……」
美燈が、静かに呟く。
その声さえ、畳に吸い込まれていくようだった。
彼女の視線は、布団の跡に向けられていた。
そこに、誰かが本当に“いた”と、無言で告げる痕跡。
まるで、眠ったまま動かなくなった者の気配が、今もなおその場所に残っているかのように。
——秋房冬至。
彼が、最後まで閉ざしていた部屋。
想いも、悔いも、まだ消えぬ言葉も、すべてがここに残っている。
俺はゆっくりと、文机の前に膝をついた。
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