第三十八話 秋房冬至

 風が、冷たい。

 朝の空気は澄んでいて、本来なら気持ちのいいはずの静けさが、今日はどこか痛かった。


 紅暮荘の門を出て、俺は山道を歩いていた。

 体調は相変わらず最悪だった。喉は焼けるように乾き、足取りもおぼつかない。

 けれど、部屋の中にじっとしているよりはずっとましだった。


(少し……空気を吸えば、頭も冷えるかもしれない)


 ただ、そう思っただけだった。

 深く考えていたわけではない。白瀬さんとここで会える確信があったわけでもない。

 でも——。


「……青年かい?」


 不意に聞こえたその声に、俺は思わず顔を上げた。


 山道の先、背中に朝日を浴びながら立っていたのは、まさに探していた相手だった。


「白瀬……さん?」


 白瀬霖一は、薄手のコートを羽織りながらこちらへと歩いてくる。

 その表情は、どこか驚いたような、戸惑っているような色を浮かべていた。


「ずいぶん早いね。……っていうか、顔色、やばくない?」


「すみません……急ぎの用があって」


 ろくに息も整わないまま、俺はそう答えるのが精一杯だった。


「もしかして何か分かった感じ!?」


 白瀬さんが期待の眼差しを此方に向けてくる。


「……分かったというより、知りたくて」


「……何をだい?」


「秋房冬至について」


 俺の言葉をきくと、白瀬さんは小さく息をついた。

 その声色には、前回よりも確かな覚悟が滲んでいた。


「勉強熱心なのはいいことだよ、それじゃあ話そうか……秋房冬至について」


 俺たちは、山道を少し外れたベンチに腰を下ろす。

 腰を下ろした俺に、白瀬さんが顔を覗き込むように声を掛けてきた。


「顔色、やっぱり悪いよ。……無理はしない方がいい」


「ありがとうございます」


 朝の冷たい空気のおかげか寝覚めの時よりは幾分か良くなっていた。


「……秋房冬至って人はね、あまり“開かれた”作家じゃなかった。交流も少なくて、自分の感性をひたすら突き詰めるタイプだったって聞いてるよ」


 白瀬さんはそう言って、少し遠くを見つめる。


「でも、作品を読めば分かる。彼は“禁忌”を題材にすることが多かった。人が避けて通るような許されぬ愛、触れてはいけないもの……そういうものを、どこかで肯定しようとしていたように思える」


「肯定……?」


「そう。一般的には奇異されるものも、彼の作品では“それでもなお”として描かれている。禁忌って、本来は触れちゃいけないし、見てもいけない。そういうもののはずだろ?」


 白瀬さんはそこで言葉を濁したが、何を言いたいかは、何となく伝わってきた。


「つまり、秋房冬至の作品は禁忌を破ることが題材として多かったってことですか?」


「そうだね。……ただ、だからこそ、賛否も大きかった。“理解できない”って声もあったし、“危うすぎる”って批判も少なくなかった。でも、どの作品にも確かに彼の“痛み”があった。読んだ人間にはそれが伝わる」


 俺は黙って聞いていた。


 霖一さんの言葉の端々に、彼の中の秋房冬至像が滲み出ている気がした。


「……一つ、聞いてもいいですか?」


「どうぞ」


「秋房さん自身は……なぜ、そんな題材ばかりを?」


 白瀬さんは少しだけ考えてから、ゆっくりと首を振った。


「僕が知っている限りじゃ、それについて語ったことはない。でも、作品は語ってる。あれは彼の中にある感情。あるいは懺悔だったのかもしれない」


「懺悔……?」


「……どうしてそう思ったかは彼の作品を読むと君も分かるはずさ」


 その口調には、まるで過去の誰かを悼むような、かすかな寂しさが滲んでいた。


 秋房冬至。

 彼という人物が少しだけ見えた気がした。


「……ありがとう、ございます」


「いや、礼を言われるほどのことじゃないよ。こっちも、もう少し資料を確認しておきたいと思ってたし。正直、まだ分からないことの方が多いからね。……少し忘れてる部分もあるし、改めて見直しておくよ」


「……すぐってわけにはいきませんよね」


「うん。ちょっと時間、くれる? 明日にはまた何か話せると思う。……ここでいいかな。明日の朝、また会おう」


 白瀬さんは笑った。


 ……今、何か違和感が胸を掠めた。


 でも、それが何なのかは、まだ分からない。


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