第三十六話 陰り

 これは、冬陽の記憶だ。

 何度も見たはずの景色――なのに、どうしてだろう。

 心の奥に、わずかなざわつきが残っていた。

 目の前の情景は彼の過去のはずなのに――肌に触れる空気の冷たさや、胸に灯るあたたかな感情が、妙に“自分”のもののように染み込んでくる。


 ――冬陽は、生きて帰ってきた。


 風雪を超え、銃弾をかいくぐって帰ってきた。

 あの地獄のような戦場から。


 門をくぐったその瞬間、懐かしい土の匂いが胸を打った。

 紅暮荘の庭で、宵香が真っ先に気づき、駆け寄ってきた。

 次いで、颯真。秋房と飛琴も、玄関先に小走りで現れた。


「おかえりなさい!」


 宵香が笑った。目尻を濡らしながら、それでも笑っていた。

 颯真も、口元に手を当てながら、息を詰めるように喜びを噛み締めていた。


 ――皆が、迎えてくれた。

 涙ぐみながら、笑顔で。


 その時、冬陽の胸に満ちたのは、言葉にできない温かさだった。


 (……ああ、帰ってきたんだ。ちゃんと……)


 惟遠の胸にも、ふと込み上げるものがあった。

 これは他人の記憶のはずなのに、心が震える。

 あの戦場で散っていった誰かの代わりに掴んだ、生の温度。


 それは、きっと冬陽が望んだ「報い」だったのだ。


 けれど――


 日が落ちるころ。

 縁側に出た冬陽の足が、ふと止まる。


 障子の向こうに、飛琴と秋房の姿があった。

 二人は座布団に腰かけ、湯呑を手に穏やかに笑い合っていた。


 その光景に、何の違和感もない。

 仲のいい友人同士の再会。ただ、それだけのはずだった。


 けれど――冬陽は、なぜか言葉を失っていた。

 喉の奥が焼けたように乾いて、声が出ない。


 やはり、笑う飛琴の横顔は見たことのないほど綺麗だった。

 先日見た時よりも、ずっと遠くに感じた。


 (……そうか)


 どこかで、気づいていたのだ。

 飛琴の心が、別の誰かへ向いていること。


 それでも冬陽は、胸に生まれた痛みを、土の下にそっと埋めようとした。


 (それで……いい)


 大切な人が、愛する誰かと笑っていられるのなら。

 それを喜べる自分でありたかった。


 そう、思っていた。


 ――あの夜までは。



 その日の夜は月が綺麗だった。静寂が館を包んでいた。


 冬陽は、ひとり庭に出ていた。

 薄く張った霧が足元を漂い、遠くで虫の声がかすかに鳴いていた。

 寒くはないのに、風が肌を撫でるたびに、体の芯が冷えるようだった。

 こっちは、雪も降っていないのに。


 不意に、屋内から微かな足音が聞こえた。


 二人分の足音。

 廊下を静かに歩く気配。

 その一つは、耳に馴染んだ、軽やかな歩調だった。


 ふと視線を向けると、薄く開いた障子の隙間から、その姿が見えた。


 宵香と、秋房。


 彼女は小声で何かを囁き、秋房がそれに頷いた。

 笑い声が洩れた。淡く、心をくすぐるような、くすぐったいほどの幸せの音。


 宵香が秋房の袖を軽く引いた。

 その仕草が、姉のようにも、恋人のようにも――どちらにも見えてしまった。


 二人はそっと廊下を進み、誰も使っていないはずの客間へ入っていった。

 襖が、静かに閉じられる。


 何かを見てしまったわけではない。何も、起きていないかもしれない。

 それでも、冬陽の心臓は痛むように脈打っていた。


(……なんだ、これは)


 飛琴ではない。宵香だ。

 恋慕も嫉妬も、そういった言葉では説明できない。


 それでも、胸の内側で黒い何かが渦を巻いていた。

 熱くて、重くて、怒りとも悲しみとも違う、名もなき感情が――


 ――裏切られた。


 誰に? 何を? なぜ?

 問いかけても、答えは浮かんでこない。


 けれど、確かにその言葉だけが、胸にこびりついた。


 惟遠の胸にも、ひどく重たいものが沈んでいた。

 今までの追体験とは違う。

 感情の表層ではなく、もっと奥深い“何か”に触れてしまった気がした。


(……これは、ただの過去じゃない)


 その予感は、まるで冷たい鐘の音のように、胸の奥で静かに、しかし確かに鳴り続けていた。

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