第廿九話 悪寒

 廊下に並ぶ襖の一枚を開けると、その先には六畳ほどの和室が広がっていた。

 造りは一階部分と似ているはずなのに、こちらのほうがずっと古びて見えた。

 ……それだけじゃない、空気がこもっている。誰もいないはずの空間なのに、誰かが耳を澄ませているような、そんな気配があった。


 横長の引き戸をそっと開くと、外に細い板張りの縁側が現れた。縁側というにはやや開けすぎていて、まるで小さなテラスのようだった。

 高い木々に囲まれているせいか、見渡しは利かない。だが、そこから中庭の一部が見える。


(こんな場所……あったっけ?)


 昨日は見落としていたことに気づき、もう一度振り返って確認する。

 ほかの部屋の襖を開けてみると、やはり似たような形でテラスが設けられていた。

 きっと、特別な景色を見せるために、こんな造りにしたのだろう。

 俺が見た景色が理由だったとすれば、納得がいく。


 外から音は何ひとつ届いてこなかった。風も虫の声も、ここにはない。

 まるで、この場所だけ時間が止まっているような静けさだった。


 しばらく探索を続けていると、ある部屋の襖だけが開かなかった。

 襖ではなく、その内側の戸が鍵付きの木扉で固定されていた。


 試しに引いてみるが、びくともしない。

 鍵穴も古く、長い間使われていなかったように見えた。


「……ここだけ、開かないの?」


 美燈が、後ろから小さく問いかける。

 頷きながら、俺はふと気づいた。


 部屋の配置、中庭の見える角度……。思い返すうちに、胸の奥がぞわりとした。——あの夢で座っていた場所は、きっとこの部屋のテラスだ。


 薄暗い闇、美しい月明かりで照らされた中庭、そして障子の奥の人影。

 合っているか確認するためにも中に入りたい。


「颯真さんに聞いてみるか。最悪強引に……」


 その瞬間だった。


 バタンッ!


 大きな音が入り口の方で響く。

 振り返ると、さっきまで外の明かりに照らされていた廊下の角が、墨を流し込んだように黒く沈んでいた。


「……え?」


 声が漏れる。

 美燈と目を見合わせるが、彼女も驚いた表情で首を振る。


「……風、だよね……? 風で閉まっただけ……だよね?」


——風など吹いていない。


 それどころか、今、この廊下には寒気が満ちている。

 まるで、冷たい霧が足元から湧き上がってきたかのように、肌が粟立った。


 息を吸うと、喉の奥がきゅっと冷たく締まった。

 見慣れてきたはずの光景も、どこか色が褪せて見える。

 そのせいだろうか、さっきまで霞んでいたはずの夕陽が、今は妙に濁っている気がした。


(……これは、よくない)


 根拠はない。ただ、体が警鐘を鳴らしている。

 早く、ここから出ないと。


——ギシ……ギシ……


 足音。

 誰のだ?


——ギシ……ギ……シ……


 廊下の奥から、不規則な足音が響いてくる。


 慌てて美燈の手を引きながら、向かい側の和室へと飛び込む。


「……美燈、隠れよう」


 見つかってはいけない——なぜか、そう強く感じた。

 呼応するように、膝がわずかに震えていた。


「なに、なんなの」


 隣の美燈が、そっと俺の袖を掴んだ。微かに震えている。

 部屋の中を急いで見回す。


——ギシ……ギシ……


 まずい、あと数歩でこの部屋の前に来る。

 視界の端に、布の垂れた化粧台が飛び込む。

 一瞬の逡巡。すぐに布を捲った。


 ——狭い。だが、二人なら……。


「……美燈、こっち」


 俺たちは、化粧台の下にあるスペースに隠れた。

 そして、布をもとに戻す。

 外から見たときは厚手の布に見えたのに、内側からはうっすらと外が透けていた。——見えていないはずだ。そう、信じたい。


 布の向こうに見える襖の奥から、足音が聞こえる。

 そして、数秒の後。


 ——足音が、止まった。

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