第拾八話 封じられた二階

 日記の内容を思い返しながら、俺は2階の渡り廊下へと向かった。

 やがて、紅暮荘の別館から本館へと続く渡り廊下に足を踏み入れた瞬間、空気の温度が一段階、すっと下がった気がした。

 さっきまでの、どこか懐かしさを感じる古びた旅館の雰囲気とは異なる。ここだけ、時間が止まったかのような、冷たく、ひやりとした空気が流れていた。

 渡り廊下の床は、踏むたびにギシギシと軋む。手すりに触れると、木の表面が乾ききっており、少しの力でもきしみそうなほど脆く感じた。

 窓の外を見れば、庭が広がっている。けれど、まだ日の高い中庭が霞んで見えるほど、廊下には薄暗い影が伸びていた。まるで、この空間だけ光が届かないかのように。

 ふと、背後で扉が静かに閉まる音がした。

 驚いて振り返ると、別館の扉はすでに閉じていた。誰もいない。ただ、俺が通った道がそこにあるだけだ。


(……なんだ、この感じ)


 喉の奥が詰まるような、嫌な緊張が全身を這い上がる。

 見えない何かが、じっとこちらを見ているような気がした。渡り廊下を進むごとに、背後の気配が重くなっていく。


——ギシッ。


 足元で床が軋む音がした。いや、違う。

 今のは俺の足音じゃない。


 後ろではない。どこか、すぐ近く。

 なのに、どこから聞こえたのか分からない。


 ——カタン。


 今度は、小さな何かが動く音。

 廊下の隅に目を向ける。そこには、古びた木箱が置かれている。特に変わった様子はない……はずなのに、どうしてか、それをじっと見ていると胸がざわつく。


(早く、行かないと)


 そう思いながら足を踏み出すと、渡り廊下の向こう、本館の二階へと続く戸がうっすらと開いていた。


 誰かが待っているように——。


 襖を静かに押し開けると、古い木の匂いと湿った空気が鼻を突いた。

 足を一歩踏み入れた瞬間、空気が変わる。

 まるで密閉された空間に足を踏み入れたような、ひどく静かで、重い感覚が体を包み込む。


 ギィ……


 床板が軋む。

 自分の足音なのに、まるで誰かが背後をついてきているような錯覚を覚えた。

 薄暗い廊下が、どこまでも奥へと伸びている。

 両側に並ぶ襖は、どれも古び、長年手入れされていないことが一目で分かる。

 壁には昔ながらの行灯が掛けられているが、そのほとんどは電気が切れており、微かな明かりしか灯していない。


 早いところ、見て回ろう。

 そう思いながらも、足が思うように前へ進まない。

 まるでこの場所自体が、俺の存在を拒んでいるかのような、異様な空気が廊下に漂っていた。


 ——ギィ……ギィ……


 慎重に歩みを進めるたび、床板がゆっくりと悲鳴を上げる。

 だが、それとは別の何かが、廊下の奥から微かに聞こえてくる気がした。

 かすかな衣擦れの音。

 誰かが、襖の向こうを歩いているような——そんな気がして、心臓がひとつ、跳ねた。


(……風、とかだよな)


 そう思いたかった。

 だが、空気はあまりに重く、風が吹き抜けるような気配はどこにもなかった。

 奥へ進むほどに、背筋にじわじわと冷たいものが這い登る。


 ふと、右側の襖がほんの少しだけ開いていることに気づいた。

 意識しないようにしていたのに、視線が勝手に引き寄せられる。

 中の様子は、ほとんど見えない。ただ、隙間から暗闇が覗いているだけだった。


(……覗いてみるか?)


 一瞬、そんな考えが頭をよぎる。

 だが、その場に立ち止まった瞬間——。


 ——スッ……


 開いていたはずの襖が、ゆっくりと音もなく閉じた。


「……!」


 喉が音を立てる。

 誰もいないのに、風もないのに——それは、あまりに自然な動きだった。

 見てはいけないものを見そうになった。そんな確信が背筋を駆け上がる。


 奥へ進め。


 そう言われているような気がして、俺は思わず前に足を踏み出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る