第五話 夜食
安心して息をついた瞬間、悪寒は消え、空腹を刺激する香りが部屋を満たしていた。
「ここまで大変だったでしょうね。簡単なものでございますが……」
そう言って、燈代さんは座卓の上に盆を静かに置いた。
白木の盆には、品のある三段の陶器が並んでいる。
ひとつずつ蓋を開けると、湯気と共に温かな香りがふわりと広がった。
「お口に合えばよいのですが」
握り飯 —— つややかに光る、ほど良い大きさのおにぎり
味噌汁 —— 赤出汁の中で、山菜がわずかに揺れている
漬物 —— 紫蘇漬けと沢庵、柚子の香りがふんわりと漂う
どれも派手さはない。けれど、懐かしさと丁寧な手仕事が伝わる、優しい味だった。
「めちゃくちゃおいしいです!」
素直な感想に、燈代さんは静かに微笑んだ。
「作った亭主も喜びます。食器はお部屋の前に置いておいてください。朝食は、9時頃にお持ちしてもよろしいでしょうか?」
亭主。いるのか……と当たり前の事実に少しだけがっかりしつつも、頷く。
「お願いします」
燈代さんはまた微笑み、部屋を後にしようとした。そのとき、思い出したように振り返る。
「そういえば、お風呂はどうなさいますか?」
シャツの裾をつまんだとき、肌に冷えた汗の感触が張り付いていた。
「入りたいです。駄目でしたら明日でも大丈夫なので」
「はい、大丈夫でございます。タオルと館内着をお持ちしますね」
その言葉に、ようやく自分が手ぶらで来ていたことを思い出す。
「……ありがとうございます」
「では、一度失礼します」
丁寧なお辞儀のあと、燈代さんは廊下へと消えていった。
食事を再開すると、あっという間に平らげていた。
燈代さんの前では上品に振る舞ったが、実際は、ひどく腹が減っていた。
食べ終わると、満たされた体に眠気が襲いかかってくる。
このままでは寝てしまう——そう思って窓を開ける。
夜風が細い指先のように頬をなぞり、火照った頭が少し冷えていく。
さっきまで燈代さんと話していたからか、妙に落ち着いた気分だった。
旅館の静けさ。木材と畳の匂い。
そのすべてが心を和らげてくれる。
——けれど、胸の奥に、かすかな引っかかりが残る。
窓の外を眺めながら、今日の出来事をひとつずつ思い返してみる。
すべての始まりは、金が尽きたことだった。
曽祖父の遺品を売りに行ったら、古い手紙が見つかり、書かれていた住所がこの紅暮荘。
偶然にしてはできすぎていたが、「暇だから」と気軽にここへ向かってしまった。
そして、美燈との再会。
彼女が今も小説を書いていて、書籍化するという話に少しだけ羨ましいと思った。
自分には夢も何もない。ただ年齢を重ねただけだった。
そして、ここに来てからの妙な出来事。
窓に見えた“影”、黒電話の向こうの気配、そして……あの足音。
(疲れてるだけ……そう思いたい)
小さく呟いて、自分に言い聞かせる。
けれど、背中に残る微かな違和感は、消えなかった。
理性が「考えすぎだ」と訴えても、本能はそうじゃないと告げている。
「……まあ、考えてもしょうがないか」
頭を振って思考を振り払う。
今は風呂に入って、汗を流して、さっぱりしてから寝よう。
ふと座卓の上に目をやる。
そこには、胸ポケットから出した手紙が、そっと据えられていた。
手を伸ばし、指先で触れる。
黄ばんだ便箋はざらついていて、乾いた紙とは思えないほど硬い。
「……ざるとも、我が……まず」
声に出すと、心の奥に黒い塊が沈んだような気がした。
——カタッ。
どこかで、何かが動いた音がした。
心臓がびくりと跳ねる。だが、何の音か分からない。
「……風、か?」
窓を開けっぱなしだったことを思い出す。
カーテンが静かに揺れている。
——考えるな。今は、考えるな。
「着替えとタオルをお持ちしました。よろしければお風呂にもご案内しますが」
廊下の向こうから、燈代さんの声がした。
「あ、今行きますー」
声に出すことで、思考を止めた。
立ち上がり、部屋を出る。
風呂場までの廊下は静まり返っていた。
燈代さんの案内で、浴場へと向かう。
「こちらでございます。ごゆっくりどうぞ」
襖が閉じられ、俺は浴場に足を踏み入れる。
想像していたよりもずっと広く、湯気がふわりと立ち上る。
木の香りとわずかな湯の匂いが混じり合う、旅館らしい空気。
服を脱ぎ、湯船に身を沈めた。
じわりと体を包み込む湯が、凝り固まった筋肉をゆるめていく。
「……はぁ……」
自然とため息がこぼれた。
ぼんやりと天井を見上げる。
ここに来るまで、色々あったけど——
今だけは、何も考えたくなかった。
ぬるめの湯に、体を預ける。
遠くで秋の虫が鳴いていた。
——悪くない。
しばらく湯に浸かり、心も体もほぐれてから、静かに湯船を出た。
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