春立つ夕べのラプソディー

清瀬 六朗

第1話 午後一時の目覚め

 「あ……ああ……一時か……」

 さっき目が覚めたときには一一時だった。

 「疲れ、取れてないし、もうちょっと寝るか」で、起きたら一時を回っている。

 さすがに起きないと、と、起きてはみたものの。

 頭が中途半端に痛い。

 ひびき自身はお酒は飲んでいない。

 でも、あの場に漂っていた濃厚なアルコールっ気にあてられたか。

 濃厚なアルコールっ気、っていうより雰囲気にあてられたか。

 どっちでもいっしょだな。

 そう思って起き上がる。

 そして、気づく。

 あー……。

 着替えずに寝てたんか。

 というより。

 ハイソックス片方だけ脱いで、スウェットのパンツだけは履いて、上は仕事着の白シャツに、その上にウールのベスト。

 で、暖房強めにして、掛け布団の上に寝ていた。

 どうやって寝たか、ぜんぜん、覚えていない。

 一八度に設定している室温をいつの間に二六度にしたのかも覚えていない。

 暖房の設定を戻して、うがいして、いちおう顔をばしゃばしゃやって、マウスウォッシュでぶくぶくやって。

 髪、整えて、と思ったけど、そこまで体が動かない。

 いちおう櫛を通しただけのぼさぼさ髪でキッチンに行くと、お母さんがいた。

 「おー、おはよー」

とお母さんがあいさつする。

 「いや、あんまり早くないでしょ」

と反応して、さっそく、ソファに、どさっ、と身を沈める。

 体が、ぜんぜん起きてくれない。

 「健康な六時間睡眠でしょ?」

とお母さんが言うので、

「五時間半ぐらいだけど」

と答える。

 二十三歳の子を持ち、自身は五十歳近く、それでもとてもスレンダーなスタイルの美人。

 本人談。

 「いや、二十歳ぐらいのころはブスって言われてたのよ。顔のパーツのパランスが悪いって」

 「そういうこと、本人に面と向かって言うんだ?」

 言うとしたら

「お父さんが?」

 「いや、あのひとは絶対言わない、そんなこと」

 よい夫婦ですねぇ。

 「まあ、でも、その二十歳当時のブスの状態を三十年キープしたら、今度は、いつまでもきれいだわねぇ、だって」

 のろけか。

 けっきょく。

 その美人のお母さんが、台所仕事をしながら、言う。

 「目ェ覚めるお茶入れてあげるけど、ローズヒップとペパーミント、どっちがいい?」

 「今日はペパーミントかな?」

 「はい。それから朝ご飯ね」

 うわ。

 まめまめしい専業主婦ぶり!

 しかし。

 「おかーさん、は?」

 どうしても言いかたがだれてしまう。

 「今日はオンライン。っていうか、動画見といてくれ、ってやつ」

 「はあ」

 「それより、あんた今日レッスンでしょうが!」

 「うーん」

 レッスンは夜の六時からだから、それまでには立ち直るであろう。

 母親が言う。

 「悪いわね、娘、学校に行かさずに、母親だけ学校に行って」

 「わたしが勝手に院落ちただけー」

 ひびきは去年の三月に音大を卒業して、そのまま音楽系の大学院に行くつもりだったのだが、試練は厳しく、落ちてしまったのだ。

 しかし。

 母親は、娘が大学院に行ってないのに自分が大学院に行っているのを「悪い」と言い、娘は自分が勝手に大学院に合格しなかっただけだと言い。

 謙虚な会話だなあ。

 娘のひびきが言う。

 「それに、お母さん、MBAだから、仕事直結でしょ?」

 「まあね」

と、得意そうなお母さん。

 MBAというのは、経営学修士といって、何か、経営の偉い人になるための学位らしい。

 「でも、あたしがMBA取ったからって、自動的に稼ぎが上がる、とかじゃないし」

 お父さん、つまりこのお母さんの旦那さんは、この下の二階で会計事務所というのをやっている。

 お母さんもその事務所の職員で、事務所の事業拡大のためにはMBAがあったほうがいいと言って、都内の大学の大学院に入学したのだ。

 このビルの二階と三階がこの家の所有物で、二階全フロアが会計事務所で、その三階の部屋あと二つの賃料収入があるから、そこそこお金に余裕がある。

 だから、その学費も出せる、ということなのだが。

 「だから、あんたもがんばって、ちゃあんと作曲家になりなさいよ」

 「あ」

 期待されてるんだ。

 形だけか、本心からか、知らないけど。

 「うーん」

と言って、立ち上がる。

 まだ体が重い。

 「あー。ちょっとトイレ行って来る」

 「じゃあ」

とお母さんが言う。

 「戻って来るまでに、ローズヒップティーと朝ご飯、用意しとくから」

 「いや、だからペパーミントで」

と言い残して、足を引きずりながら、ひびきはキッチンを出て行く。

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