第一章 『揺らぐ朝』-3

「藤原蓮です」

 名前が告げられた瞬間、教室の窓から差し込む光が大きく歪んだ。詩音は息を呑む。少年の周りの空気が、まるで水の中にいるように波打っている。藤原蓮は、この街の空気に溶け込むように静かに立っていた。その姿は確かにそこにあるのに、どこか実体を持たないようにも見えた。

「鏡ヶ浦に来たばかりです。よろしくお願いします」

その声は、水底から響いてくるように柔らかく、それでいて奇妙な存在感を持っていた。

 詩音は気づいた。教室の誰もが、普段より強く光を屈折させているように見えることに。空席は詩音の斜め前。蓮が歩いていく後ろ姿に、光が寄り添うように揺れる。詩音は思わず蓮の背後に漂う光を見つめていた。どこか懐かしさを感じる。まるで遠い記憶の中で見た風景のように。



 授業が始まっても、詩音の意識は蓮の存在に引き寄せられていた。窓際の彼の輪郭が、光の中で綺麗に溶けている。それは不思議と違和感がなかった。この街に、この教室に、まるでずっとそこにいたように、彼がいることが自然なことのように思えた。

「詩音」千夏が小さく声をかけてきた。

振り向くと、親友の瞳が心配そうに揺れている。

「大丈夫?なんだか遠くを見てるみたい」

「ううん、何でもない」

 そう答えながら、詩音は自分の心の中で何かが変わり始めているのを感じていた。それは鏡ヶ浦の朝のように、確かな速度で満ちてくる何か。

 休み時間、蓮の周りには自然と人の輪ができていた。けれど彼は、クラスメイトから浴びせられる様々な質問に答えながらも、どこか遠くを見ているようだった。時折、窓の外を見やる仕草には、何かを探しているような気配があった。

とある生徒が尋ねた。

「どうしてこの街に?」

蓮は少しだけ考えて「海が見たくて」と答えた。

 蓮の答えに、教室の空気が小さく震えた。何故なら、それは誰もが知っているから。この街の海は、普通の海ではないということを。空と溶け合い、時には街そのものを飲み込もうとするような、不思議な海。その海に惹かれてやってきた転校生。その事実が、教室の空気をより濃密にしていった。

 昼休み、詩音は千夏と連れ立って屋上へと向かった。扉を開けると、潮風が優しく頬を撫でる。海と空の境界線が、まるで水彩画のように滲んでいた。

「あの子、気になる?」千夏の問いに、詩音は空を見上げたまま黙っていた。気になる、という言葉では足りない。まるで自分の中の何かが、彼に反応しているような。それは詩音自身にも理解できない感覚だった。

「私ね、朝見たの」

「え?」

「蓮くんが、海を見つめているところ」

千夏の言葉に、詩音は思わず振り向いた。

「校門の前で、しばらく立ち止まってたの。でもね、普通の人が見る海じゃなかったみたい。もっと深い、もっと遠いところを見ていた」

千夏は遠い過去を思い返すように話していた。千夏自身もまた、遠いどこかを見つめながら。

「深い、遠いところ」

詩音は千夏の言葉を反芻する。蓮の瞳に映る海は、いったいどんな色をしているのだろう。この街に暮らす者たちは皆、海と空の境界が溶ける風景を当たり前のように見ている。でも、彼の視線の先にあるものは、きっと違う。

「あっ」千夏の声に顔を上げると、階段を上がってくる足音が聞こえたからだ。扉が開き、当たり前のように蓮が現れる。一瞬、屋上の空気が波打った。

「ここからなら、見えるかと思って」

 何も言わずとも蓮は自分からここにきた訳を言葉にした。蓮はそのまま手すりまで歩いていく。潮風が彼の髪を揺らし、その輪郭がまた淡く滲む。

 詩音は彼の背中越しに広がる風景を見た。海面が鏡のように空を映し、その境界線は完全に消えていた。

「ねえ」蓮が振り返る。

その声には、どこか深い響きがあった。

「この街の人は、みんな同じものを見てるの?」

 唐突な問いに、詩音は言葉を失う。同じもの。確かにみんな同じ風景を見ているはずなのに、それぞれの瞳に映る景色は違うのかもしれない。

「分からない」

 素直な答えが、自然と零れた。蓮はかすかに頷き、また海の方へ視線を戻す。

「僕には、この街全体が水の中に沈んでいるように見えるんだ」

蓮の言葉が、潮風に乗って漂う。

「でも沈んでるわけじゃない。浮いてるわけでもない。どっちでもあり、どっちでもない」

 彼の言葉に、詩音は自分の胸の中で何かが共鳴するのを感じた。そう、この街は確かにそんな場所だった。存在と非在の境界線上に浮かぶ街。しかし、それを言葉にしたのは蓮が初めてだった。

「藤原くんは、前はどんな街に住んでたの?」

千夏が尋ねる。蓮は少し間を置いて、ゆっくりと答えた。「覚えてないんだ」その言葉に、屋上の空気が小さく震えた。記憶の欠落は、この街の本質に触れるような何かを持っていた。詩音は不意に、自分の記憶の中にある霞がかかったような場所のことを思い出していた。

「でも、ここに来なきゃいけない気がした。それだけは、はっきりしてる」

蓮の言葉が、詩音の心の中で反響する。それは彼女自身の中にある、説明のつかない感覚と重なっていた。

 チャイムが鳴り、三人は教室へと戻っていく。階段を下りながら、詩音は蓮の後ろ姿を見つめていた。彼の存在が、この街の不思議さを際立たせているような気がした。そして同時に、何かを解き明かすための鍵のようにも思えた。

 午後の授業が始まり、教室は再び日常の時間の中に戻っていく。しかし、詩音には分かっていた。もう何も以前と同じではないということが。蓮という存在が、この街の空気を確実に変えていく。それは満ちてくる潮のように、静かに、けれど確かに。教室の窓から差し込む午後の光が、徐々にその色を変えていく。

 詩音は時折、蓮の背中に目を留めながら、漂う空気の変化を感じていた。黒板に書かれる数式も、教科書の文字も、どこか非現実的に揺らいで見える。それは蓮が持ち込んだ新しい波紋が、まだこの空間に残っているからなのかもしれない。



 教室の窓から見える校庭でも、新しい発見があった。朝日を受けた地面に、足跡の光が浮かび上がり始めている。それは今を生きる生徒たちの足跡ではない。もっと古い、数十年前の運動会の記憶だった。詩音はノートを開きながら、光の変化を書き留めていく。いつからだろう、こんな習慣がついたのは。street灯の二重写し、届かなかった手紙の言葉、市場の声、そして今朝の足跡。それらを繋ぎ合わせると、まるで街が何かを伝えようとしているかのような予感があった。

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