序章『真珠色の風景』
人は誰でも、自分の見ている世界が本当だと信じている。 けれど、この街では誰の目に映る風景も、真実ではないのかもしれない。
鏡ヶ浦で生まれ育った者でさえ、街の本当の姿を知らない。 ある者は、くっきりとした輪郭の中に確かな日常を見る。 またある者は、光に満ちた幻想的な風景の中で生きている。 そして時折、どちらの世界にも属さない存在が、この街に迷い込んでくる。そんな不自然で自然な街が、鏡ヶ浦という街だ。
鏡ヶ浦は、光を集める街である。朝もやが晴れる頃、建物の輪郭が少しずつ曖昧になり始める。商店街のアーケードに朝日が差し込むと、古い看板が真珠色に輝き、石畳には光の川が流れる。市場では、氷の下で眠る魚たちが故郷の海を夢見る。その記憶が光となって立ち昇り、威勢のいい掛け声と混ざり合う。八百屋の野菜は土の匂いを放ち、その香りは真珠色の粒子となって空中を漂う。古い呉服店の店先では、着物が風に揺られるたびに模様が光となって零れ落ちる。代々受け継がれてきた布地の中には、様々な時代の記憶が染み込んでいる。結婚式の振袖、卒業式の袴、七五三の晴れ着。それぞれの布地が持つ想いが、光となって織り目から漏れ出す。
通りを歩く人々の言葉も、時として光を帯びる。特に強い想いを含んだ言葉は、真珠色の文字となって空気中に残り続ける。古い郵便ポストの中には、届かなかった手紙の言葉が光となって眠っている。そういった記憶の物質性が、この街には立ち現れるのが日常だ。
海と空の境界は、いつも曖昧だ。潮が満ちる頃になると、その境界線は完全に溶け始める。どちらが海で、どちらが空なのか、やがてわからなくなる。遠くのに見える台が、そんな風景を静かに見守っている。
それは、ある意味で当たり前の風景だった。鏡ヶ浦に住む人々は、光の揺らぎを日常として受け入れている。夕暮れ時に建物の影が二重になることも、市場の魚たちが真珠色に輝くことも、着物から記憶が零れ落ちることも。私たちにはとても自然なこと。
けれど、そんな日常は少しずつ変わり始めていた。光の質が変化し、より深い輝きを帯び始める。街角で、思い出が結晶となって形を取るようになる。人々の言葉が、より強く光を放つようになる。古い図書館では、本のページが自ずとめくれ、その度に読者の想いが光となって浮かび上がる。喫茶店のカウンターでは、珈琲の香りが真珠色の靄となって漂い、その中に様々な時代の会話が封じ込められている。
学校の廊下には、いくつもの時代の足音が重なって響く。黒板に書かれた文字は光の残像を残し、窓から差し込む日差しは教室を真珠色に染める。まるで、街全体が何かを語ろうとしているかのように。あるいは、誰かの到来を待ち望んでいるかのように。遠くの水平線では、海と空の境界がより深く溶け合い始めていた。その光景を、灯台が静かに見つめている。その光は、時として真珠色に変わり、街の記憶を照らし出す。
変化は、誰よりも先に子供たちが気づいていた。放課後の公園で、砂場の砂粒が光を集め、そこから様々な時代の子供たちの笑い声が聞こえてくる。ブランコが風に揺られる度、軌跡が真珠色の弧を描く。滑り台を滑り降りる影が、いくつもの時代に重なって見える。
商店街の老舗たちも、その変化を感じ取っていた。代々続く茶屋では、茶葉が光を帯び、その香りの中に百年の歴史が封じ込められている。古書店の棚には、読者の想いが結晶となって眠り、時折ページがふわりとめくれては、物語の一節が光となって舞い上がる。
夜になると、街は別の表情を見せる。建物の窓に灯る明かりは、普通の光ではない。それぞれの家庭の記憶を纏った、真珠色の明かり。誕生や別れ、喜びや悲しみ。全ての記憶が、かすかな輝きとなって街を包み込む。港では、漁船の灯りが海面に揺らめき、その光が魚たちの記憶と混ざり合う。波が打ち寄せる度、真珠色の飛沫が舞い上がり、その中に様々な時代の潮騒が重なって聞こえる。街灯の光は、時として二重三重に揺らぎ、その度に異なる時代の風景が浮かび上がる。道行く人々の影も、一つではない。まるで、複数の時間が同時に流れているかのように。そしてまた同様に、その全てを見守るように灯台の光が街を照らし続ける。
人々は口にしないが、皆が感じていた。この街が、長い眠りから目覚めようとしているということを。それは突然の変化ではない。潮が満ちていくように、ゆっくりと確かな変容。まるで街全体が、本来の姿を取り戻そうとしているかのよう。
古い写真館には、不思議な写真が残されている。建物の輪郭が溶け、人々が光の中に溶けていく風景。それは決して失敗写真ではなく、この街の本質を捉えた一枚なのかもしれない。時計台の針が、時として真珠色に輝く。その時、時間そのものが緩やかに歪み、過去と現在が交錯する。市場の呼び声が昭和の”記憶の声”と重なり、通学路の足音が様々な時代を行き来する。歴史の足音が光となって顕れる街の日常が、それぞれ変化の兆しを見せていた。
鏡ヶ浦高校の古い校舎では、より顕著な変化が起きていた。廊下の窓から差し込む光が、いつもより深い輝きを帯び始める。教室の黒板に書かれた文字が、光となって宙を舞い、机に刻まれた落書きが真珠色に明滅する。まるで、この場所で何かが始まろうとしているかのように。
そして、ある朝。街全体を包み込むように、光が大きく波打った。それは、誰かの到来を告げる予兆のように思えた。しばし、菜の花が揺れていた。真珠の風を纏いながら。
街を見下ろす高台に、一軒の古い家がある。玄関には「天宮」の表札が掛けられ、庭には代々受け継がれてきた石灯籠が置かれている。その石灯籠は、夜になると不思議な光を放つ。真珠色の輝きが、まるで家の中の何かと呼応するかのように。
二階の一室には、一冊の手帳が置かれていた。革表紙の古い手帳。ページを開くと、インクの香りと共に真珠色の光が零れ落ちる。そこには様々な時代の鏡ヶ浦が記されている。光で溢れる街、記憶が形を持つ場所、全ての境界が曖昧になる瞬間。
手帳の最後のページには、こう書かれていた。「いつか、この街の本当の姿を見る者が現れる」その文字が、真珠色に輝いては消える。まるで、誰かを待ち続けているかのように。
灯台の光が街を照らす度、建物の影が揺らめき、人々の記憶が光となって立ち昇る。道は真珠色の川となって流れ、空と海の境界はより深く溶け合う。そして街は、静かに何かの始まりを待っていた。それは春の終わり、新しい風が吹き始める季節のことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます