天使と悪魔

星空暁

『憎悪の種』1「俺たちは、もう奴隷なんだ」

 もし憎悪ぞうおに形があるのなら——

 それはきっと、今の自分の姿に違いない。

 

 アシャーが目を覚ました時、地獄はなおも続いている。

 視界がぼやける。耳鳴りがする。乾いた喉が鉄の味で満たされている。

 目の前で、幼い少女が鞭打たれていた。


「パシンッ!」


 乾いた音が響き、少女の肩に赤黒い線が浮かび上がる。裂けた皮膚から血が滲み、滴り落ちる。


「ぎゃあああっ!」

「黙れ!皮剥ぎにしてやるぞ!」


 帝国兵が唾を吐きながら、鞭を振り上げた。

 そしてまた、少女は鼓膜こまくを引き裂く悲鳴を上げる。

 

 ——哀れだな。

 

 アシャーはただ無表情で、この残酷な光景を見続けていた。

 

 ——泣いたって何も変わらないのに。

 ——俺たちは、もうなんだから……

 

 鞭打たれていたのは、まだ五歳のベス。

 村の飲んだくれ、カーターの娘だった。

 いつも泥んこ顔で駆け回っていたあの子が、今やわらのようにほそり、恐怖に震えながら涙にむせんでいる。

 絶望ぜつぼうが、彼女の瞳の奥で揺れている。

 ——なぜ、自分がこんな目に遭うのか。

 彼女には、理解できるはずもなかった。

 まだ幼すぎた。

 

「奴隷」として生きる術など、知る由もなく、ただ本能のままに泣き叫ぶことしかできなかった。

 

 だが、隣にいた寡婦かふのジュリアンは違う。

 彼女は洗濯女だった。

 多少余裕のある家に雇われ、働き詰めの生活を送ってきた女。手のひらはひび割れ、顔色を窺う術はとうに骨の髄まで染み込んでいる——男が殴る前のほんのわずかな予兆を読み取る術を。

 

 兵士の軍靴 ぐんかが二回軽く床を叩くのを見て、彼女は咄嗟に動いた。

 皺だらけの手で、素早くベスの口を塞ぐ。

 もう、少女の声は届かない。

 それでも、恐怖に震える涙は止まらず、頬を伝い、老婆老婆の手の皺を静かに濡らしていく。

 

 生きる知恵を骨身ほねみみ込ませた大人と、本能のままに泣く子供。

 奴隷という名の檻の中で、両者の差が残酷に浮かび上がる。

 

 その兵士は物音が収まったのを確認すると、鼻を鳴らし、ようやくその場を離れた。

 それでも、洗濯女ジュリアンはベスの口を覆った手を離さなかった。

 その手自体も、わずかに震えているというのに。

 

 錆びた鉄柵が軋む音の中、アシャーはどうにか上体をを起こした。

 わずかに動くだけでも、全身が焼けるように痛む。だが、奥歯を噛み締め、声を漏らすことなく耐えた。

 そして、冷静に周囲を見渡す。

 

 鉄の檻の中には、血の臭いが充満している。

 生臭さと鉄錆てつさびが入り混じり、その匂いだけで吐き気を催すほどだ。

 狭い空間に、数人の人影が身を寄せ合うように押し込まれていた。

 その誰もが、痩せこけ、身体を震わせ、目には言いようのない恐怖と絶望の色を滲ませている。

 

 自分、ベス、ジュリアン婆さんのほかに、この檻にはあと二人いた。

 ひとりは、角に縮こまっている小柄な少年。目からは涙が静かに流れ続けているが、すすり泣くことすらできないほど衰弱していた。

 もうひとりは、中年の女性。両手で頭を抱え、身体を丸め、小さく、何かを呟き続けていた。その声はあまりにも微かで、何を言っているのかは聞き取れない。まるで、見えない神に祈りを捧げるかのように——。

 だが、どんな姿勢をとろうとも、アシャーの碧眼へきがんには、全て脆く崩れゆく人間の醜態だけだった。

 

 ——泣いたところで、何になる?

 ——恐れたところで、何が変わる?

 

 彼には、こんな軟弱さが理解できないし、理解したくもない。

 アシャーは必死に記憶を掘り起こす。

 

 この檻にいる者たちは、それぞれ見知らぬ間柄であり、家族ですらない。そして彼らが閉じ込められているこの鉄檻は、果てしなく続く戦利品せんりひんのほんの一部に過ぎなかった。

 前へ、後ろへ——数え切れないほどの鉄柵が連なり、自分たちのような「奴隷」を詰め込んでいる。

 彼らはもう人間ではない。ただ値札ねふだをつけられ、金額で価値を測られる商品だった。

 やがて帝国へ運ばれれば、貴族の気まぐれで引き取られるか、市場に引き出され、りにかけられる運命が待っている。

 

 アシャーの推測が正しければ、村の成人男性はすでにほぼ皆殺しにされたはずだ。

 生き残ったのは、抵抗する術のない老人、女、子供、そして鍛冶屋かじやや医者など、何かしらの技を持つ職人たち。

 ……命を長らえたのは「価値がある」と見なされた者だけ——もちろん、それもほんの束の間のことだが。

 

 荷馬車にばしゃの揺れに合わせて、鉄檻てつおりは激しくきしみ、耳障りな金属音を響かせる。

 錆びついた鉄格子の隙間から、両脇を固める兵士たちの列が見えた。

 帝国兵たちは隊列を組み、厳重 げんじゅうな警備のもと進んでいる。彼らの手には、鋭く光る長槍や短剣。身にまとうのは精巧に仕立てられたよろい。肩の装飾そうしょくには深紅のリボンが縫い込まれ、かぶとには赤い羽飾りが揺れている。

 真昼の陽光を浴び、あまりにも眩しく、目に刺さるような輝きを放っていた。

 

 それでも、兵士たちの態度はどこか怠惰だった。

 談笑し、飽きると鞭で鉄檻を乱暴に打ち鳴らし、時折囚人を弄んでは哄笑こうしょうする。

 アシャーは手首に食い込む鎖の痛みを感じながら、動かなかった。

 ただ、冷えた瞳で彼らを見据える。

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