第5話(夕月)

旅行当日の朝、私が目を覚ますと外はまだ薄暗かった。窓の外から微かに聞こえる車の音が、静かな朝の訪れを感じさせる。今日の為に昨日は夜の仕事を休んで少しでも早く布団に入ったおかげで、目覚めた瞬間から体は軽い。普段なら、まだ店の片づけをしている時間だろうか。時間を確認しようと枕元に置いてあったスマホを手に取る。どうやら、昨日の夜に念のためかけておいたアラームよりも早く目覚めてしまったようだ。まるで遠足が楽しみで眠れない小学生みたいではないか。そう思ったら恥ずかしくなって、私は枕に顔を突っ伏せる。このまま二度寝をしてやろうかという考えが頭をよぎったけど、どうしてもそんな気分になれなかった。いつだって寝不足で寝起きは頭が割れるように痛む私が、目を閉じることさえ惜しいと思うほどに清々しく感じる朝だった。

朝陽とは最寄り駅集合にしていて、約束の時間までかなり余裕がある。荷物は昨晩のうちに済ませておいたから、準備もほとんど終わっていた。私は大きく伸びをしながら、キッチンに向かう。コーヒーメーカーの電源を入れて、煙草に火を点けた。煙を胸いっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐き出す。煙草の煙がまるで生き物のようにゆらゆらと蠢いている。慌てて換気扇のスイッチを入れると、煙は換気扇に向かって一気に登り始めた。朝陽は煙草を吸わない。そんな朝陽が家に来るようになってから、煙草は換気扇の下かベランダで吸うようにしている。朝陽は気にしなくていいと言うけれど、非喫煙者にとって煙というのは浴びないに越した事はないだろう。

肺に煙を何度目かの充填後、コーヒーの芳ばしい香りがキッチンに漂ってきた。携帯灰皿に煙草を押し付け、冷蔵庫から牛乳を取り出す。寝起きで空っぽの胃に、いきなりブラックコーヒーを入れるのは避けたかった。コップに注がれたコーヒーの香りを確認する。いつも通りの良い香りだ。私が時間をかけて挽いて、蒸して、淹れたコーヒーと同じ香り。同じ豆とはいえ、もういっその事、全部機械でもいいんじゃないかと思ってしまう。

牛乳をカップに移し、レンジで少しだけ温める。そしてそこにコーヒーを入れて、軽く混ぜながらリビングのカーテンを開けた。うっすらと明るくなってきている街並みを眺めながら、私はベランダでコーヒーを1口飲む。コーヒーの苦みをミルクが優しく包む。

「美味しい」

寒空の下、呟いた私の息は白くなっていた。

また新しい煙草に火を点ける。コーヒーを飲みながら煙草を吸う。至福の時間だ。これで隣に朝陽が居れば、私にとってこれ以上望むことはないのだけれど。そんな事を考えながら、煙草を吸い終えると、私は再び室内に戻った。まだ少しだけ残っているコーヒーをテーブルに置き、洗面所に向かう。顔を洗い、化粧水と美容液で肌を整える。髪をセットして、薄く化粧をしたら完成。

リビングに戻り、残っていたコーヒーを飲み干して洗った。そして旅行バックを持ち、黒い帽子を深く被る。家を出る前に、玄関で口紅を引いて最後の仕上げだ。

「よし。行くぞ」

今日がどんな一日になるのか、まだ想像もつかないけれど、その未知の時間が今はただ楽しみだ。久しぶりに感じるこのワクワク感が心地よい。いつもの見慣れた道を歩いて最寄り駅を目指す。この調子だと、約束の時間には余裕を持って着きそうだ。

駅のホームで朝陽を待っていると、冷たい朝の空気が頬を撫でた。待ち合わせの場所は、駅の大きな時計の前。周囲には、通勤や通学の人々が行き交っていて、日常に追われている雰囲気が漂っている。そんな人混みの中で、私はしばらく朝陽を待っていた。コーヒーを飲んで来たから平気だったけれど、次第に寒く感じるようになってきた。約束の時間になっても、朝陽は待ち合わせ場所に現れない。起きて数時間。私は三度、煙草を咥えた。朝陽が時間に遅れても特に焦ることはなく、喫煙所で煙草を吸いながらぼんやりと通り過ぎる人々を眺めた。旅行に行ける嬉しさがまだ心の中でじんわりと広がっていたので、少しくらいの遅れは気にならない。むしろ、のんびりと待つこの時間さえ旅の一部のように感じた。日頃からフワフワしている朝陽は、よくトラブルを起こす。どうせ寝坊か何かだろう。

ちょうど3本目の煙草が吸い終わるかという頃、横断歩道の向こうから大きな荷物を抱えて走ってくる朝日の姿が見えた。

「本当にごめんなさい」

朝陽の髪は乱れ、息を切らしながら、到着するや否や謝罪をしてきた。

「全然大丈夫だけど、どうしたの?」

「昨日の夜にアラームをセットしていたんだけどね、今朝起きたらスマホの充電が切れちゃってて」

「だから連絡しても返事が返ってこなかったんだ。でもそれって、寝坊だよね?」

「本当にごめんなさい!」

人通りの多い駅前で、朝陽は周りの目を気にする事なく深々と頭を下げた。全然怒ってなんかいなかったけど、オロオロとした朝陽を見ていると意地悪を言いたくなってしまっただけだ。それも言い過ぎてしまったみたいだけど。

「気にしなくていいよ。朝陽ならこういう事もあるかもって思ったから、待ち合わせの時間を少し早めに伝えておいたの。今から東京駅に行けば、新幹線には間に合うから安心して」

潤んだ目で朝陽はごめんねとありがとうを繰り返した。それは新幹線に乗るまで続き、流石にもうウザいと私が言うとようやく収まった。

東海道新幹線のこだまに乗車すると、青を基調としたシートが私たちを出迎えてくれた。私たちが座ると、新幹線は静かにホームを滑り出す。車内は落ち着いた雰囲気で、他の乗客たちも静かにそれぞれの時間を過ごしていた。窓の外に映る都会の風景がビルの合間から姿を消し、やがて郊外の緑が広がり始める。朝陽は隣の席に座り、凄いスピードで流れていく風景を興奮気味に眺めていた。

「コレ、使うでしょ?」

私は手荷物からモバイルバッテリーを取り出すと、車窓に釘付けになっていた朝陽に差し出す。

「え! いいの? ありがとう。助かるよ。ユヅちゃんは本当に気が利くね」

「言いすぎだよ」

「そんな事ないよ。モバイルバッテリーだけじゃなくてさ。何も言わずに、私に窓側の席を譲ってくれたりするところも含めてね」

改めて朝陽にそう言われると、照れ臭さいけど悪い気もしない。1泊2日の旅行なのに、わざわざ旅行バックとは別でリュックサックを持って来て正解だった。

「それにしても、相変わらずユヅちゃんはお洒落だし、綺麗だよね」

窓の景色にも飽きたのか、熱海まであと半分の距離くらいまで迫ったところで、朝陽は突然そんな事を言い出した。

「どうしたの、急に」

「さっきユヅちゃんがトイレに行った時、ほとんどの乗客が目で追っていたよ」

「乗客の反応なんか見ていたの?」

「いいよね、ユヅちゃんは。顔も綺麗で、スタイルも良くて。その上お洒落でさ」

「そんな事ないよ」

「そんな事あるの。薄い化粧なのに妙に整っているし」

「朝陽だって可愛いじゃない。センター分けのショートボブなんて、可愛くないと似合わないよ」

「そうかな?」

「そうだよ。朝陽は可愛い。自信を持ちなって」

朝陽は再び窓の方を向いてしまった。だけど、まんざらでもないようで、車窓に反射されて映っている朝陽の顔は綻んでいる。

「でもさ、ユヅちゃんのセンスは見習いたいんだよね。今日だってお洒落だし」

「そんな事ないよ。どこでそんな風に思ったの?」

「私だったら、オレンジ色のスカートなんて履けないよ。履きこなせないもん」

今日の私の服装は上から、黒のキャップを被り、黒のニットにベージュのコートを羽織り、下はオレンジ色のチェック柄のロングスカートを履いている。特段、何かを意識して今日の服装を選んだ訳ではない。合わせてみて、変でなければいいかなって思っただけなんだけど。

ちなみに朝陽の服装は、上はパーカーで、下は深緑色のカーゴパンツだ。

「朝陽の服装だって、悪くないと思うけど?」

「でも、絶対にユヅちゃんの方がお洒落じゃん」

「朝陽はお洒落になりたいの?」

「そりゃそうだよ~。私だって女の子なんだもん。ダサいなんて思われたくないよ」

私は首を傾げて、慎重に言葉を選びながら話した。

「私は必ずしも、お洒落の対義語がダサいだとは思わないかな。いくらお洒落な服でも、その人に合わない服だったらダサいと思うし。逆に無個性なTシャツでも、その人に似合っていればイケてると思うよ。お洒落かどうかよりも、自分に合った服を着た方がいい。その点、朝陽の服装は似合っていて良いと思うけどな」

「ユヅちゃんにそう言われたら、なんだか自信が出てきちゃったよ」

それからは風景には目もくれず、私たちは笑い声を交えた楽しい会話に夢中になっていた。初めての旅行という事もあり、話題は尽きることがない。

まもなく「次は熱海、熱海です」というアナウンスが流れた。

「楽しく話してると、あっという間だね」と朝陽が笑いながら言う。その言葉通り、本当に時間が飛ぶように過ぎていた。私たちは慌てて荷物を整理し始める。思ったよりも早く感じた到着に慌てつつも、熱海というアナウンスを聞いてから旅行の興奮が一気に高まった。

駅が近づくにつれ、新幹線の揺れが心地よい振動に変わり、次第にその速度を落としていく。新幹線がゆっくりと熱海駅のホームに滑り込む。扉が開き、私たちは荷物を抱えて車内から降り立った。熱海駅に到着した瞬間、目の前に広がる旅の始まりの風景に胸が躍る。

「なんか年甲斐もなく、はしゃぎたい気分だよ」

朝陽はそう言うと、スーツケースを引きながら、改札に向かって軽快な足取りで走っていった。

「何しているの~? 早く行くよ~」

少し進んだところでおもむろに後ろを振り返ると、朝陽は大きな声とジェスチャーで私を呼んだ。かく言う私も、年甲斐もなく心が浮足立って仕方がない。

「他の人の迷惑になるから落ち着きなよ」

なんて言いながら、私も朝陽のもとに駆け寄った。

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