第5話 戸惑いと嬉しさにときめくことこの上ない

「僕は二十四歳だよ」

 河瀬さんがさらりと答える。

「あっ、そうなんですね。やっぱり俺より年上だ」

「ははっ。じゃあ、僕も一ノ瀬さんの年齢、訊いていいかな?」と河瀬さん。

「えっ、あっ、はい。僕は十八です」

「へぇ。若いね、一ノ瀬さんは学生さんですか?」

「はい。えっと、一応。大学生です。今月から」

「ああ。もしかして、一ノ瀬さんの大学って美術系ですか?」

 俺は驚く。

「どうして分かったんですか?」

 俺の台詞に河瀬さんは笑って、「さっきからやけに絵を描く道具が沢山あるな、と思ったから。本も美術書が結構あったし」と言う。

 なるほど。

 確かに床には段ボール箱から出したスケッチブックや絵の具、筆などが散らかっている。

「はい。美大です」

 俯き加減に俺は言った。

「絵、好きなんですね」

 河瀬さんは明るく話した。

「はい! 大好きです!」

 自分でも思ってみない程の大声が出る。

「すみません。急に大声出して」と速攻に河瀬さんに謝る。

「いや、大丈夫ですよ」

 河瀬さんはひらひらと手を振った。

「今度、良かったら一ノ瀬さんの描いた絵、見させて下さい」

「え、いや、俺の絵なんて見てもどうしようもないですよ」

 自分の描いた絵を見られるのは恥ずかしい。

 全然上手くないから。

 俺は話題を逸らすことにした。

「あの、河瀬さんの方が年上なので、俺に敬語で話さなくてもいいです」

「え、いきなり言われてもな。敬語は僕の癖だし」

「そんなこと言わずに、ため口でお願いします。年上の人に敬語使われるの何だか慣れて無くて」

「じゃあ、うん。分かったぞ」

「あははっ、何か、言葉遣い変ですよ」

 いや、笑っちゃいけなかったかな。

 俺はちょっとシュンとした。

 河瀬さんの顔を見ると笑顔だ。

 気分を害した様には見えなかった。

 ほっとする。

「いや、何か、急にため口に切り替えられなくて」と河瀬さんは言う。

「確かに。徐々に、で良いですよ」と俺。

「……はい」

 河瀬さんは俺を見て、ふっ、と笑った。

「敬語、気を付けますね」

 河瀬さんは敬語でそう言っていた。

 ダメじゃん。

 俺は少し笑ってしまう。

「ダメだ早速敬語になっちゃうね」

 河瀬さんがしょぼんとする。

「あ、本当に徐々にで良いですから」

 俺は出来る限りの笑顔を作って言う。

 俺の台詞を聞いた河瀬さんが、ふふっ、と笑う。

 河瀬さんという人は良く笑う人だな。

 凄く感じが良い。

「あ、一ノ瀬さん、一ノ瀬さんの方も僕にはため口で話していいから」

「ええっ? そ、それは……」

「ふふっ。お互い、少しずつですね」

「はい」

 河瀬さんとため口か。

 本当にそんな関係になれたらいいな。

 まだ知り合ったばかりの相手だというのに河瀬さんと大分打ち解けた様に思える。

 口下手で人見知りのこの俺が。

 きっと河瀬さんの人柄がなせる業だ。




 俺達は再びそれぞれの作業に戻った。

 さて、食器を洗い終えた俺。

 今度は食器を布巾で拭かないと。

 えーっと、布巾はどこにあったかな。

 辺りを見回すと、丁度、河瀬さんが作業する段ボール箱に調理器具と混じって布巾があるのが見えた。

「あの、河瀬さん、その段ボール箱に入ってる布巾取ってもらえます? その、赤いの」

 俺が指をさして言うと、河瀬さんは、「コレ?」と言って、俺の目当ての布巾を段ボール箱から取り出した。

「はい、それです」

 河瀬さんから布巾を受け取る。

「ありがとう、河瀬さん」

「いや、あっ、一ノ瀬さん、僕のこと、さん付けで呼ばなくて良いから」

「えっ?」

「呼び捨てで良いよ」

「よ、呼び捨て? そんな!」

 そんな馴れ馴れしいこと、出来る気がしない。

 しかも河瀬さんの方が年上だ。

 呼び捨てにするなんてとんでもない様なことに思える。

 しかし。

「ダメ?」

 潤んだ目で河瀬さんが俺を見る。

「うっ」

 ダメだ。

 その目で見られると俺は弱いんだ。

 俺の肩からガクリと力が落ちた。

「わっ、分かりました」

 俺の台詞を聞いた河瀬さんは実に嬉しそうだ。

「あの、じゃあ、河瀬さ……河瀬も俺のこと、呼び捨てて」

 俺がそう言うと、河瀬さんは驚いた顔をした。

「えっ、一ノ瀬さん、良いの?」

「はい。俺だけ呼び捨てだと何か……河瀬さ……河瀬の方が年上だし。だからお願いします」

「えーっ。じゃあ、一ノ瀬君で」

 河瀬さんが満面の笑みで俺の名前を呼ぶ。

 何だ、そのキラキラした笑顔は。

 眩しい。

 でも、年下の俺が呼び捨てで、河瀬さんの方が君付けなんてどうもちぐはぐな感じがする。

「一ノ瀬君、片付け、頑張ろうね」

 ニマッと河瀬さんが笑う。

 その笑顔に連れられて俺は、「はい!」と元気良く答えた。

 何だか河瀬さんとの距離が一気に縮まったみたいで凄く嬉しかったのだ。

 こんな綺麗な人を呼び捨てだなんて。

 許されるのだろうか。

 幸福絶頂で目眩がしそうだ。




「あ、もうこんな時間か」

 椅子の上に乗り壁に丸い時計を掛けながら俺は言った。

 今の時間は午後六時半。

 片付けに集中していたから時間の感覚がおかしかった。

 俺は後ろを振り向く。

 視界には河瀬さんが映る。

「あの、河瀬さ……河瀬。遅くまで手伝わせてしまってごめんなさい。もう良いですから」

 こんな時間まで河瀬さんに手伝わせてしまって申し訳ない。

 河瀬さんは俺が壁に掛けたばかりの時計を見ると、「あ、僕の方こそこんな時間までお邪魔してしまってすみません」と申し訳なさそうに言う。

「と、とんでもないです。凄く助かりました。本当にありがとうございます」

 慌ててそう言う。

 河瀬さんが、ふふっ、と笑う。

「そう言ってもらえて嬉しいよ。じゃあ、僕はここでお暇します」

「はい。本当にありがとうございました。あっ!」

 突然大きな声を出してしまった。

「ん?」と河瀬さんが目を大きくして俺を見る。

「あ、いや……そのっ」

 思い付いたアイディアを河瀬さんに披露するかどうか迷ってしまう。

 もじもじしている俺に河瀬さんが、「どうしたの?」と訊ねた。

 優しい笑みをたたえている河瀬さん。

 素敵だ。

 俺は意を決することにした。





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