第一章 スマホと手袋

 ある日突然、当たり前だった日常がパタリと終わってしまった時、普通の人はどう言った反応をするのだろうか。目の前で起きてしまった現実を受け入れる事が出来ずに立ち尽くしてしまうのか。それとも、目の前の現実を受け入れ、間髪入れずに次に行動するのか。私の場合は、恐らく前者だと思う気がする。


「君はもう大丈夫だ。ご苦労様」

 四月二十三日。私は今日限りで所属してた音楽事務所を退所せざるを得なかった。先ほど社長から『解雇宣告』を受けた訳だが、私は納得できなかった。

「どういうことですか…?」

 私は社長に問いかけた。

「君じゃなければならないという理由がないからだ。確かに君の歌声は世間を賑わす代物だ。しかし、それは一時的に過ぎない。我々は、早急に新しい歌手を見つけないといけない訳だ。君だってわかるだろ?自分が前任者と入れ替わりでこうなったって事」

 私は歯を食いしばったが、この怒りをどこに向ければいいのか分からないままでいた。現実とは時に無慈悲で、こんな自分を嘲笑うかの様にし、無性に時だけが過ぎていった。正直言ってこの事務所なんかに悔いは残っていない。やってみたかった歌手もやる事だってできた。テレビにも沢山出た。どのみち数ヶ月以内にはやめないといけなかった。寧ろこっちから願い下げてやる。そう自分に言い聞かせ、ロッカールームにある荷物をまとめ事務所を後にした。


 外を出ると、私の気持ちとは正反対な程、綺麗な夕日が街を照らしているのを感じた。私は腕時計に視線を落とすと、時刻は午後四時半指していた。

「もう四月だもんね……」

 私はキャリーケースをゴロゴロと音を立てながら引きずっていき、最寄りの駅まで歩いた。

 いつも歩いていたこの道も今日で最後となるのなら記念にと思い、スマホを取り出し、周りの風景を写真に収めた。

「そう言えば、この街の風景に影響を受けて、曲とか作ったっけ?懐かしいな」

 私は次々に写真を撮っていた。この町は私が曲を作る時に参考にした風景や、行き詰まった時に来ていた喫茶店もある。その為か、私にとっては特別な場所でもある。風景を写すのに必死になっていた私だが、次第にその視界がボヤけているのを感じた。それと同時に、頬を一粒の何かが滴った。

「あ、あれ?なんで?」

 私は疑問を隠せなかった。歌手としての私はもういない。なのに、何故涙が止まらないのか分からなかった。拭えど拭えど涙は止まらない。

「…なんで?なんでこんなに悔しいって思うの?」

 悔しいと想う気持ちは、やがて涙から声に変わり、呻き声だけが春の夕焼けの空に響いた。

「……あの、大丈夫ですか?」

 私は一人の男の人に声をかけられたが、涙を拭い、その場を離れてしまった。その男性にお礼も言う事もなく。

 その後、周りに注目されない様に帽子を深く被り、駅へと向かった。


 電車に揺られながら、窓の外に映る風景を眺めていた。外には夕陽が反射してオレンジ色に映る風景で溢れかえっていた。その風景を見ていると、またしても涙が出そうになったから、すぐさま手に持っていたスマートフォンに目を移し、動画サイトを開いて、ある人物のページを開いた。最近ハマっているピアニスト『西ノ月』という方の動画だ。二ヶ月前にこの動画を見つけた時、何故だか頭から離れなくなってしまった。動画には手元しか映っていないけど、男の人だろうか。

 そんなことが頭の中を駆け巡っていたのだった。

 そんな時、西ノ月の最新の動画が投稿されていたため、イヤホンを耳につけて、動画を再生した。

「こ、この曲って……」

 私は直ぐに動画のタイトルを見た。するとそこには、『LORELEI』と書かれてあった。

「……私の……曲?」

 その人が演奏してたのは、間違いなく私の曲であった。『LORELEI』は、

私が歌手として活動し始めた時の最初の曲である。本来ならば嬉しいという感情が勝るはずなのに、今は何故かその逆の感情が勝ってしまっている。その為か、私は直ぐに動画を閉じて別の動画の視聴を始めた。


 しばらくしていると、自宅の最寄り駅に着いた為、電車を降りた。

 駅から自宅のマンションまではそれほど遠くはない。精々歩いて十五分程で到着する。自宅へと帰路を急がせ、荷物を部屋に置き、早急に風呂に向かった。

「…明日からどうしような」

 そう呟いた後、風呂に入り髪と体を洗い、風呂を出た。いつもは風呂に入ると一日中引っ張るような出来事があっても、直ぐに忘れることが出来たのだけど、この日だけはそうもいかなかった。先ほど上司に言われた言葉が頭を駆け巡る。

『君だってわかるだろ?自分が前任者と入れ替わりでこうなったって事』

「そんな事、私が一番よく分かっているよ…」

 不貞腐れるように呟き、ドライヤーで髪を雑に乾かした後、冷蔵庫にあったプリンを取り出し、リビングに座り込んでテレビをつけた。テレビには夕方からのニュースが放送していた。

『続いてのニュースです。大人気歌手の…』

「ッ!」

 私は思わずテレビのスイッチを切った。真っ黒になった画面に写っていたのは、雑に乾かした髪の毛が目立つ、荒い呼吸をする私の姿だった。

「……いくら何でも考え過ぎだよね」

 私はプリンを食べ、雑に乾かした髪をもう一度乾かし直し、スマートフォンの時計を確認をした。時刻は午後六時前だった。寝るにしてはまだ早い。

 だからと言って今から外に出て何かを買って作る気力もない。ましてや何処かに何かを食べに行くような友達もそんなに居ない。そんなことを考えていると、外の空気を吸いたくなった為、ベランダに出た。

 ベランダに出ると、まだ夕焼けの色が周りを染めていた。しかし、先ほどのオレンジ掛かった景色より、少しだけ暗くなった風景が町一帯に広がっていた。

「歌手の仕事も無くなったし。これからどうしようかな〜。帰る地元も無いし。それより、ここの家賃どうしよう…。今日までも給料ちゃんと出るのかな?」

 独り言が多くなっているのは、私個人がこの状況を受け入れきれていないと言う事なのか。それよりも現状自分が置かれている状況を把握する事にした。事務所もそこまで悪ではないはず。有給休暇やその他諸々の説明を受けなかったが、明日ぐらいになれば連絡が来るだろう。そう思い、深呼吸をして部屋へと戻ろうとしたけど、先ほどから感じている空腹には勝てるわけもなく、仕方なしに着替えた後最寄りのコンビニへと向かった。


 マンションを出た後なるべく急足でコンビニへと向かった。今の私は周りの人達に見られたく無いから。私自身、確かにテレビ等で注目された歌手でもあるが、今日で私は歌手ではなくなったのだから、「応援しています!」や「これからも頑張ってください!」と言った前向きな言葉をかけられるのがすごく辛い。現に私が歌手を辞めたことはまだ恐らく、世間の人たちは知らない。だから余計に辛い。何も知らない人達が前向きな言葉をかけてくれた人に、私は本当の事を話してしまえば、きっとその人達は私に気を遣い慰めの言葉をかけるだろう。私はそれがとてもじゃないけど、耐えられる気がしない。

 私の頭はネガティブな事ばかりが頭に浮かび続けているから、直ぐに忘れようとするが、中々頭から離れなかった。


 そうこうしている内にコンビニへと辿り着いた。私はさっきまで考えていた事を無理矢理頭の中から抜き出し、店の中へと入って行った。外は少しだけ暑かったのか、店内の程よい冷房の風が体を優しく包み込んだ。私は奥の飲み物のコーナーへと向かった。

 自宅の飲料水が切れかかっていたの思い出し、大容量の水のペットポトルを取り出した後、食料を見に行こうとしたが、直ぐ隣のお酒のコーナーに目が行ってしまった。年齢的には飲めるが、普段は全く飲まない。と言うよりお酒は飲めないに近いのかもしれない。だけどこの時ばかりは何故か、アルコールを摂取したくなった。私は迷う事なくレモンサワーと梅酒とホワイトサワーを数本ずつ取り出し、買い物カゴへと入れた。ここへ来た目的は夜ご飯を買いに来たのにも関わらず、私はお酒と水だけを購入し、コンビニを出た。

 外は真っ暗な光が街を包み込んでいた。そんな中、街を照らす街灯だけが明るく道を照らしていた。そんな私はまるで目を背ける様にして帽子を深く被り、帰路へと急いだ。そして、先程買ったお酒を一本だけ取り出し、開けた。久々に感じるアルコールが全身を駆け巡るのを感じる。一口飲んだだけでもう飲みたく無くなったのだが、私は更に半分ほどまで飲んだ。先程より強いアルコールを感じた。私は近くに公園があったから、そこへ移動した。

 夜の公園で遊んでいる人は流石に人がいなかった。強いていうなら、そこで生活している人達だけだろうか。私は近くにあったベンチに腰掛けてお酒を少しだけ飲んだ。

「私も、数日後、同じ状況になっているのかな……」

 そんな不安を口にしたが、直ぐに我に返り、無理矢理忘れようと残っていたお酒を一気に飲み干した。

 そんな時、ふと座っていたベンチの横を見た。

「……手袋?」

 そこには季節外れの黒色の手袋が置いてあった。誰かの忘れ物だろうか。それにしても今は四月だし、数ヶ月も置いてあったと言う理由にしてはとても状態が綺麗。私はその手袋を手に取った。

 先程飲んだアルコールのせいだろう。体が妙に暑い。普段全く飲まないのにそう易々と飲むものではないと思った。ましてや夜ご飯を食べていない空腹状態である。余計にその反動はデカかった。そう思い、家に帰ろうと思い立ち上がったが、妙に足元がフラついた。バランスを崩しそうになったが何とか持ち応えた。

「手袋だけ交番に届けようかな」

 私は先程の手袋をポケットに入れ、公園を出た。交番は自宅のマンションの手前にある為、私はそこへ向かった。足が思うように動かない。それでもなんとかフラつきながら歩いていた。

 歩き続けること五分。この曲がり角曲がれば交番とマンションまでは真っ直ぐ行くだけである。私はこの時少しだけ安心感があった。そして曲がり角を曲がった瞬間。

「ドンッ!」

 私は誰かとぶつかった。身体にアルコールが入っていたけど、ぶつかった瞬間、その酔いは全て消し飛んだ気がした。私の目の前には、杖を持った小柄の男の子が見えて、私は一瞬で悟った。「今私とぶつかったのはこの子」だと。そして、私は咄嗟に手を掴み、自分の方に引き寄せた。

「ご、ごめん!大丈夫⁉︎怪我してない⁉︎」

「い、いえ、こちらこそすみません。ちょっと焦っていたものですから」

 男の子はこちらに顔をむけていた。私は男の子の身体を見たが目立った怪我はなさそうで安心した。しかし、次の瞬間。男の子は私に向かって驚きの言葉を発した。

「あ、あの。貴方、ついさっき何か悲しい事でもありましたか?」

「……え?」

 私はあまりの衝撃で驚きを隠せなかった。しかし、男の子は私の手を解き両手を上げ、二、三歩後ろへ下がった。

「あ、えっと、その。すみません!やっぱり忘れてください!それとぶつかってしまい申し訳ありませんでした!」

 男の子は律儀にお辞儀をした。

「あ、だ、大丈夫だよ。こっちこそごめんね」

 男の子は杖を突きながら私が来た方面へ歩いて行った。

「……不思議な子だったな」

 私はそんなことを呟いた。その後、交番へ先ほどの手袋を届けた後自宅へと戻っていった。

 家の中に入り、先程買ったお酒を一本だけ残し、他の物を冷蔵庫の中に仕舞った。手にしたお酒の蓋を開け、一口飲んだ。ふと、先程ぶつかった男の子の言葉を思い出した。

『あ、あの。貴方、ついさっき何か悲しい事でもありましたか?』

 まるで、人の心が覗ける見たいな言動だった。それに、今思い出してみれば、あの子が持っていた杖の色が『白』だった。つまりは『白杖』と言う事になる。白杖は目が見えない人の為に、設けられた物。その杖を使い前方の路面を触知する為のものであることは、私も知っていた。

「そんな子が、なんでこんな時間に……」

 私はそんな疑問を口にした。しかし、答えなどわかるはずもなく、私は考えるのをやめ、お酒を飲み続けた。

 翌日、目が覚めると私はリビングで机に突っ伏した状態で寝ていた。机には数本の空き缶がある。昨日、白杖を持った男の子について考えていたが、考えても答えが出ないからと言い、考えるのをやめたのは覚えているけど、そこから記憶が無い。机の上に置いてあるこの空き缶は私が飲んだものであろう。頭がとても痛く、二日酔いだと分かった。当然の結果かもしれない。

 普段全く飲まない人間がこんなにも飲んだのだから。

 今の時間が何時なのか確認すべく、机に手を伸ばした。が、私の手はいつまでも物を掴めない。それどころか、私が探している物が無い気がする。

 私は寝ぼけた目を擦り、机を見回した。しかし、そこには無い。ならばポケットの中だろうか。そう思いポケットの中に手を入れた。しかし、見つからない。

「……もしかして、落とした?『スマホ』」

 そう、探しても探しても見つからないもの。それは、私のスマートフォンである。

「どうしよう!今日事務所から連絡があるかもしれないのに!」

 先程から感じていた二日酔いが、まるで初めから無かった様に感じた。そのぐらい、重大なことだと錯覚した。

 私は部屋中を隈無く探したがスマートフォンは姿を現さない。そんな中ある光景が浮かんだ。

 それは、昨日の男の子とぶつかった時の光景だった。

「…もしかして、あの時?」

 そう思い、急いで準備をした。シャワーを浴び、念の為に二日酔いを軽減するべく水を多めに飲んだ。

 外出出来る服に着替え靴を履き、自宅を飛び出した。ぶつかったのはマンションの直ぐ近くにある交差点。まだそのまま落ちているか、交番に届けられているかのどちらかだと思い、私はまず交差点に向かったが、そこにはスマートフォンは無かった。ならば交番だと思い、急いで交番へ向かった。

「すみません!」

「あ、貴方は確か昨日の?また落とし物拾ったんですか?」

「いえ、今回はその逆で……。スマホ、落としてしまって、もしかしたら届いて居ないかなと思って」

「スマホ?もしかして、これのことですか?」

 お巡りさんの手元にあったのは、確かに私のスマートフォンだった。善良な人が拾ってくれたのだろう。

「それです!ありがとうございます!」

 私は安心して、思わず全身の力が抜けるのでは無いかと思った。

「ちょっと待っててくださいね。今拾った人呼びますんで」

「拾った人ですか?」

「えぇ、このスマホついさっき交番に届けられた物ですので」

 そう言うと、お巡りさんは奥の部屋へと入っていった。その後、直ぐに戻ってきたが、私は思わず声を上げそうになった。

「この方が拾ってくれましたよ」

 そこに居たのは、昨日の白杖を持った小柄な男の子だった。

 昨日は暗くてあまりよく見えなかったが、クセのある髪型が特徴で前髪がとても長く、目元が隠れるほどの長さだった。

「え?あ、あぁ、ありがとうございました。お陰で助かりました」

「いえいえ。僕も大切なものが持ち主の元へ帰ってきて良かったです」

 私は昨日のことがある為、早急にこの場を立ち去りたかったが、一手遅かったのだろう。その野望は見事に打ち砕かれた。

「その声、昨日の方ですか?」

 バレてしまったのだった。白杖を持っているから恐らく私の目は見えて居ないはずだと思っていたが、まさか声を記憶していたとは思ってい無いはずだと思っていた。昨日私にあったことを見抜いたこの子は何も悪くはないが私はぶつかった後に奇妙な事を彼の口から耳にしたから、少しだけ警戒していた。これが、早急に立ち去りたかった理由でもあるけど、相手は見るからに年下である。ここで適当な理由を付けて立ち去ってしまうのは幾ら何でも大人気ないだろう。私は観念し、彼の質問に答えた。

「そうだよ。スマホ、拾ってくれてありがとうね。君が持っているのって白状だよね?どうしてスマホがわかったの?」

「僕も落とし物をして、探していたんです。それで、白杖を突きながら歩いていると、足に何か当たって、取り上げてみると、スマホだって分かったんです。近くに持ち主らしき人の声がなかったので、交番に持っていったのです。白杖を持ってはいますが、ほんの少しだけ見える弱視というやつです」

「そっか。君の落とし物は見つかったの?」

「はい。無事見つけれました」

 そう言うと、男の子はポケットから手袋を取り出した。

「……それって」

 その子が持っていた手袋は、昨日私が拾ったものだった。

「昨日の夜交番に届けられたみたいで。良かったです。これ、僕にとってとても大切なものなので」

「でも、今四月だよね?どうして手袋なんかつけているの?」

「あ、いや、その…」

 彼は少し戸惑った様子を見せた。

「あ、ごめんね。私も変なこと聞いちゃって」

 二人の間に沈黙が生まれた。

「じゃ、じゃあ、それぞれ持ち物は返ってきたってことでよろしいでしょうか?」

「は、はい。ありがとうございました」

 私はお巡りさんにお礼を言い、手続きを済ませて交番を出た。

「ふ〜。何とか返って来てよかった」

 スマートフォンにはあまり目立った傷が無く画面も割れていなかった。

 私は自宅に戻ろうとしたら、後ろから声をかけられた。

「あの。すみません!」

 私が振り返ったら、先程の男の子がこちらに白杖を突きながら歩いて来た。

「えっと、その……。ご迷惑でなければ、この後時間ありますか?」

「………え?」

 私はこの質問に対して少々戸惑った。自分よりも絶対年下の男の子に予定を聞かれたからである。歌手時代の時は共演者や同業者に聞かれる事はあったが、まさか、会って間もない。ましてや、白杖を持った男の子に聞かれるなんて事はまずないはず。でも私は特にこれといって予定もある訳では無いので、その子の誘いを受けた。

「うん。時間あるよ。何かあったの?」

「非常に言いずらいのですが、僕、この街にあまり来た事がなく…」

 私はこの後の言葉が何となく予想が出来た。

「僕の家の近くまで、ついて来てくれませんか?」

 私の予想は当たっていた。盲目で白杖を持った子。家の近くに住んでいると勝手に思っていたけど、この街の子じゃ無いとは思わなかった。

 しかし、先程スマートフォンを拾ってくれたばかりの子。私には、断る勇気なんてなかった。

「あ、あははは。分かったよ。さっき私のスマホ拾ってくれたし、私で良ければ。何か住所のわかるものあると助かるんだけど」

 そう言うと男の子はポケットからカードケースのような物を取り出し、一枚のメモ用紙を渡してきた。

「このメモ用紙に僕の住所が書いてあるはずです」

 私はそのメモ用紙に書いてある住所をスマートフォンのマップアプリに入力し、その住所までの道のりを検索した。

「ここからだと、歩いて三十分だね。どうする?歩いて帰る?それともタクシーとか使う?」

「折角なんで歩きます」

「うん。分かった。所で君、名前は?」

「僕は『セイ』と言います」

「そっか。セイ君だね。私は『レイア』宜しくね」

「僕の事はセイで良いですよ。宜しくお願いします。レイアさん」

「私だけ呼び捨てにするものアレだから、私の事もレイアでいいよ」

「いえ、流石にそうもいきいません。僕はレイアさんと呼ばせていただきます」

 セイはとても律儀に答えた。

「うーん、なんだかむず痒いな……」

 私はこう言うのにあまり慣れていなかった。いつも接してくる音楽関係者は直ぐに呼び捨てかちゃん付で呼んでくる。さん付けで呼ばれるのはテレビや雑誌のインタビューの時だけだから。

「どうかしましたか?」

「いや、なんでもないよ。それじゃ行こうか。セイ」

「はい、レイアさん」

 私とセイは歩き出した。盲目の人とは歩いたことがないが、セイは意外にも歩くのが早かった。

「セイはいつから目が見えないの?」

 私はセイに話かけた。

「……えっと、産まれた時からです。産まれて直ぐには目が見えない事は分からなかったのですが、いつまで経っても物が認識出来ないことに母が違和感を覚えて、そこで発覚したみたいです」

「そうなんだ。お母さんとは一緒に暮らしているの?」

「……母はもういません。僕の目が見えないと分かった途端、僕を捨てました。正確には、母の友人である男性の家の前に僕を置いて行ったみたいで、勿論、実の父親もいません」

「そうなんだ……」

 私は正直驚いた。事故や病気で盲目になる人はいることを知っていた。しかし、産まれた時から目が見えない人を初めて聞いたのだから。

「その後、僕はその男性に育てられました。その男性は、いわゆる育ての親と言う人です。でも、その人も数年前に……」

「なら、今は一人暮らしなの?」

「はい。育ての親が亡くなる直前、アパートを管理している親友の大家さんに頼みこんで、住まわしてもらってます」

「お金とかあるの?」

 私はそう疑問を投げかけた。この子は盲目だけど、盲目でも出来る仕事は限られていると思う。それでも、この子が社会に出て働いていると言うのであれば、家賃を払えるだけの収入をもらっていると言う事だろう。

「お金は大丈夫ですよ。一応働いてますし」

「へぇー。どんな仕事をしているの?」

 私は興味本位でセイの職業を聞いた。するとセイは立ち止まり、ポケットから、先程のカードケースとは違う、別のケースを取り出した。大きさからして名刺入れだろか。するとその中から一枚の紙を取り出した。

「これって、名刺?」

「はい。一応、大家さんに作ってもらいました」

「そうなんだ」

 そう言うと、私はその名刺に目線を落とした。その瞬間、目を疑った。

「……ねぇ、これ、本当にセイの職業と名前?」

「え?そうですけども…。あ、その名前本名じゃないですよ。仕事をすると

きの名前はそれです。もしかしてその名刺、違う人のでしたか?僕のと分け

て入れているはずでしたけども」

 改めて私に渡してきた名刺をもう一度確認した。そこに書いてあったのは


『ピアニスト兼動画クリエイター 西ノ月』

 

 と記載された名刺だった。

「セイって……西ノ月さんなの?」

「そうですよ。あ、もしかして動画見てくれてますか?」

 セイはテンションが上がっていた。しかし、それに対する私は、名刺を持った手に震えが止まらなかった。この震えはどういった感情からきているのか、私には分からなかった。 

 私は西ノ月さんの動画はとても好きでよく見ているが、昨日に投稿された動画は、私のデビュー曲をピアノでカバーした動画だった。カバーしてくれた人本人が私の目の前にいるが、私はもう歌手ではない。その事をこの本人に言う必要はあるのか。と考えていたら、セイが口を開いた。

「僕、最近レイアさんって人が好きなんです。丁度、レイアさんと同じ名前ですよ」

 私は少しだけ安心した。盲目だからか、私の顔は見えていないようだ。

「あの透き通るような歌声。一度耳にしたら離れられないですよ。特にレイアさんのデビュー曲のLORELEIは一番のお気に入りです」

「そ、そうなんだ…」

 私は恥ずかしさのあまりその場から逃げ出したくなった。自分の事をこれだけ褒めてくれる人が目の前にいるのだから。しかしセイ本人自体は、私がその人本人だと気づいていない。

「僕、元々ピアノと動画投稿はやっていたのですが。レイアさんの歌を聞く様になってから、積極的に使うようにしています!」

「もう音楽はやらないよ」

 私は思わずそう言ってしまった。慌てて口に手を当てるが、遅かった。

「……どう言う事ですか?」

 セイは不思議そうな声で私に問いかけた。

「レイアは、もう音楽をやらないよ」

「レ、レイアさん?どうしてそんな事を?」

 私は深呼吸をし、セイの顔をじっと見つめた。

「さっき、セイも自分の事話したから、私も話さないと不平等だよね。私、歌手やっていたの」

「歌手って、まさか…!」

 セイは少しだけ後ろに下がった。

「うん。私は、歌手のレイア本人だよ」

 この事を言った途端。セイは更に固まってしまった。

「セ、セイ?」

「……僕、今日死んでも構いません」

「それはやめて?私も後味が悪い」

 私は直ぐに止めた。しかし、セイ本人は私が音楽活動をやめた事より自分の目の前にいるのが私だと言うことの方が大きいのだろう。

「ほ、本当にレイアさんなのですか?」

「セイは顔が見えないから分からないのかもしれないけど、本当にレイアだよ」

「…ちなみに、さっき『もう音楽はやらない』って言っていましたけど、それってどう意味なのですか?」

「そのままの意味だよ。私は音楽はもうやらない。歌手をやめたの」

「な、何があったのですか?」

「うーん…」

 私は少し考えいた。音楽事務所を解雇になったことを話すかどうか。

 セイはあくまでも私のファンであり、彼自身も音楽活動をしているのだが

そう言った詳細を話しても良いのかと。

 私は少し考え、口を開いた。

「もう、私に音楽は必要ないから。かな」

「必要ないのですか?」

「うん。だって、私は満足したからね。どのみち、数ヶ月以内にはやめるつもりだったよ」

「そうだったんですか……。それは残念です」

 セイは少しだけ落ち込んだ様子を見せた。

「でも、その気持ちは嬉しかったよ。ありがとう」

「いえ、僕の方こそ、レイアさんに会えただけで嬉しいです」

 私たちは再び歩き出した。その後も、セイと会話を楽しんだ。お互いの趣味の事や、セイの音楽について話したり、私の歌手時代の思い出などを話した。すると、海沿いの道に出てきた。

「この音、近くに海があるのですか?」

「うん、あるよ。正確には、港かな。あまり使われて居ないけど、休みの日とか偶に釣りをしている人とかいるよ。もう少し先に行けば砂浜もあるよ。セイはここの道、通らなかったの?」

「探し物に夢中でしたので聞き逃していたのかも知れません」

「海は楽しい所だよ。ここの海は水が透き通って綺麗だし、色々な生き物もいるから、私は好きだよ」

 私は得意げに話した。するとセイは少しだけ笑った。

「いつか、僕も目が見えるようになったら、ここの海、見に行きたいですです」

「ちょっとだけ、港によって行かない?」

 私はセイにそう言った。

「良いですよ。今日は特に予定はありませんので」

 こうして、私たちは港へと向かった。今日の港には釣りを楽しむ人達は居なくて、港にいるのは私とセイの二人だけ。波打つ音だけが、私たちを迎えいれた。

「どう?海の音を聞ける感想は」

「凄く良いです。どこか落ち着く感じがあります」

「私も久しぶり来たけど、セイの言う通り落ち着くね。よく歌詞とかで悩んだ時とか、ここに来て書いていたりしたもん」

「その気持ち分かります。僕もピアノが上手くいかない時とかは、育ての親によくドライブに行ってもらいましたよ」

「ドライブか〜。バイクの免許しか持っていないから、ちょっと憧れるかもしれない」

「もしも、レイアさんが車の免許を持っていたら、ドライブに連れて行ってほしいってお願いしていましたよ」

「セイの目が見えるようになったら、セイにとって大事な人を乗せてあげなよ」

「あははは。確かにそれも良いかもしれませんね」

 港にはよく来ていた。歌詞を書くためということもある。散歩や運動の時のコースの通り道でもある。でも、風呂に入る時と同じく、疲れていても、落ち込む事があっても、ムカついた事があっても、この港に来ると、落ち着く感じがした。

 寧ろ、どこか暖かい何かに包まれている感じがした。

 そんな事を考えていると、セイに話しかけられた。

「真剣な話、もしも僕の目が見える様になったら、僕はレイアさんと一緒に曲を作りたいです。歌手としてのレイアさんはもういないかもしれませんけど、僕は、あなたと一緒に音楽をやりたいです」

 セイは私の方を見てそう言った。目線を少し上に向けた顔。癖のある長い前髪の奥にある眼の先から感じる真剣な眼差しは、私にも分かった。

「……うん。いつかね。その時は宜しくね」

 この時の私は、曖昧な返事しかする事しか出来なかった。

「さて、潮風も浴びた事だし、セイの家に向かいますか!」

「はい!」

 セイは元気よく返事した。携帯の地図アプリを起動してみると、ここからセイの家までは残り五分で着く距離だった。私たちは地図の案内に従い帰路に着いた。


「今日はありがとうございました。おかげで助かりました」

「いいよ。私もちょっとした散歩も出来たし、知らない街を探索できたから楽しかった」

 私はセイを送り届け、手を振り帰ろうとしたら…。

「……あの!」

 セイに声をかけられた。

「どうかしたの?」

「………あ、明日も……会えませんか?」

「明日?別に予定はないけど、何処か行きたい所とかでもあった?」

「い、いえ…。そう言う訳ではないのですが……」

 セイは少しだけ顔を俯き、小声で話した。

「レ、レイアさんと…出かけたいから…です……」

「…………」

 私はなんとも言えない気持ちになった。年下であろう人物からこのような事を言われたのは初めてだからだ。

「わ、私と、出かけたいの?」

 私はセイに問いかけた。するとセイは赤くなった顔をこちらに向けた。

「い、いえ!すみません!やっぱり忘れてください!僕なんかがレイアさんとお出かけなんて、烏滸がましいですよね」

 私はセイの言葉を聞いた後。笑った。

「あははははは!そんなこと気にしていたの?確かに私も急に『出かけたいです』って言われた時はびっくりしたけど、私で良ければ全然いいよ。明日出かけよう!どこに行きたい?」

 セイは笑顔になった。

「じゃ、じゃあ、僕レイアさんと街に出かけたいです!」

「街?」

 私は疑問に思った。街に出かけたいなどというセリフは、昔話や西洋の映画でしか聞いた事がないが、今セイの口からはしっかりと『街に出かけたい』と言っていた。

「どうして街に出かけたいの?」

「街がどんな所なのか、この身で感じてみたいです」

 私はこの一言で理解した。セイは盲目の子。恐らく街にはあまり行った事がないのだろう。だから、街が一体どういった所なのか気になるのだろう。

「分かった。私も街のことは詳しくはないけど、少しでなら案内できるから。じゃあ、明日の十時ごろにセイを迎えに行くよ」

「わかりました。それじゃあ、よろしくお願いします」

 私はセイと別れた後、最寄りの駅で電車に乗り、自宅へと戻った。

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