第25話 救助

 メイのドレスの背中に紐を通し、バックリボンをきゅっと結んだ時だった。


「姉上! 姉上!」


 ばたばたと部屋に駆け込んできたのは私の弟のケイだった。メイの双子の兄だ。


 十歳になってますます生意気ざかりになってきたケイだが、いつもは一丁前に減らず口を叩く唇が、今は青ざめて震えている。


「ケイ? どうしたの?」


「あっちで事故があったみたい! 知らない馬があばれているんだ!」


「え……!?」


 私はすぐさま立ち上がった。


 家を出た瞬間、湿った空気の中に、激しい馬のいななきが響いてくるのが聴こえた。


 体格のいい馬が二頭、蹄鉄をけたたましく鳴らしながら跛行はこうしている。


 馬たちははみを装着した口を左右に振りながら、荒々しく地面を踏み荒らしていた。


 頸環くびわは付いているが、輓具ばんぐにはつながっていない。そりか車を曳いていたのに、何かの衝撃で外れてしまったのだろうか。

 

「メイ! お父様を呼んできて! ケイ、馬丁さんにも来てくれるよう頼んでちょうだい!」


 領主である父と、うちの数少ない使用人さんへの伝言を妹と弟に頼んで、私は駆け出した。馬を追ったのではない。馬がやって来た方向に向かって走った。


 複数の馬──たとえば四頭の馬で馬車を牽引けんいんする場合、構造上、内側の馬たちはしっかりと輓具ばんぐにつなぐが、外側の馬たちはくびきまでつけない場合がある。


 あの二頭がその外側の馬たちだとしたら、他の二頭と車体がまだ取り残されている可能性がある。


 あたりの地面は、昨夜に降った雨でまだじっとりとぬかるんでいた。領内に流れる川も普段より水位が上がっている。


 河川敷に沿ってしばらく走った時、泥濘でいねいの上にわだちが走っているのを見つけた。


 轍は急激に左に折れたかと思うと、不自然に途切れている。川下に目をやって、私ははっと息を飲んだ。


「──っ!」


 二頭の馬と傾いた車体が、川に半分浸かっていた。河川敷の傾斜には、馬車がすべり落ちていった形跡がはっきりと残っている。


 もともと草と苔ばかりの道が、雨の名残りでさらにすべりやすくなっていたのだろうか。あるいは先ほど逃げていた二頭が手綱を離れた時に、車がバランスを崩したのかもしれない。


「……馬車の……事故……!」


 かつての私の死因も、馬車の転落事故だった。


 壊れたキャビンや外れたタラップに、あの時の恐怖がまざまざとよみがえる。


 しかし今はおびえている暇はない。私はすくむ心を叱咤して、一気に斜面を駆け降りた。


「大丈夫ですか!?」


 壊れた御者台の影から、御者らしい男の人がよろよろとふらつきながら立ち上がった。


 めまいがするのだろうか、御者さんは片手で頭を押さえながら、反対の手で車体を指さし、「ま……まだ……旦那様が……」と震える声で告げた。


「中に人がいるんですね!?」


 私は水をかき分けて車体に近付くと、扉に回されたかんぬきを引いて鍵を開けた。


 扉は水圧で開きづらくなっていたが、高い位置にあるのと車体が傾いているため、何とか力ずくでこじ開けることができた。


 車内には水が溜まり、中年の男性らしき人影が座席にうつ伏せになって倒れていた。


 呼んでも返答はなく、身動き一つしてくれない。転落した際の衝撃で気を失ったのだろうか。


 水位は私の膝丈ほどだが、人は浅い川でも意外と溺れるものだ。一刻の猶予もならない。


 私は男性に声をかけながら、肩を貸して体を引き上げた。


 水を吸った衣服はずっしりと重かったが、先ほどの御者さんもやって来て手を貸してくれた。


 二人で左右から男性を支えながら、何とか馬車の外にまろび出る。


 二人がかりでもとてつもなく重いが、人命がかかっているのだ。雑草魂をふりしぼるしかない。


 私たちはよろよろと歩を進め、ようやく男性を岸に引き上げることができた。


「水を飲んでいるなら……吐かせないと……!」


 平らな場所に男性を仰向けに寝かせ、口の中に異物がないか確認してから、水を吐きやすいよう顔を横に向ける。


 私は膝立ちになった。両手を重ね、男性の胸の真ん中に置く。ひじを伸ばしたまま、真上から強く押した。


 手を離さないように、胸が沈むように気を付けながら、何度も何度も胸骨を圧迫する。


「どうか……息をして……っ!」


 腕がしびれても手を止めず、一心不乱に押し続けた時だった。


 がはっ、と音を立てて、男性の口から水があふれた。


「旦那様!」


 息を吹き返した男性に、御者さんがわっとすがりついた。


「ああ、旦那様! よかった! ありがとう……ありがとうございます!」


 御者さんに涙ながらに感謝されながら、私もひとまずはホッと胸を撫でおろしたのだった。

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