第4話 オシャレなデートの仕方がわからない!

三章


 オッシュ大通りに面した日本大使館の3階にある海軍武官補佐官室で、丈太郎は報告書の下書きを進めていた。下書きとはいえ、これがうまくまとまれば清書に入るので、手を抜くことはできない。

 フランスの各地で調べてきたことを詳細に書き、それに自分なりの所見を付けねばならないのだが、頭の中は完全にジジに占領されていた。無理やりジジのことを頭から引き離すと、今度は二日酔いの頭痛が襲ってくる。

 とにかく、何をやっても思い浮かべるのはジジの顔ばかりで、もう昼が近いというのに朝から仕事が全然進んでいなかった。

 丈太郎が頭を悩ませていると、補佐官室に海軍武官の古賀大佐が入ってきた。古賀はこの頃40代、身も心も元気な盛りだ。第2種軍装(日本海軍の夏用の制服。白い上下の詰襟)に身を包み、爽やかな顔で丈太郎に話しかけてきた。

 「藤堂、進んでいるか? しっかり書けよ。最後に私が確認するが、ひどい出来なら日本に返さずに、自費でもう1度フランス中を駆け回らせるからな」

 古賀の言葉で一時的にジジの面影を頭から追いやるのに成功した。そして、苦笑いを浮かべた。

 「不合格にならないように頑張ります」

 古賀は優しい顔でうなずいた。大使館の中とはいえ、海軍武官室と海軍武官補佐官室は完全に海軍の領域だ。しかし制服こそ着ているものの古賀の温和な人柄のため、それらの部屋に軍の施設という堅苦しい空気はなかった。

 窓辺に歩み寄った古賀は表のオッシュ大通りを見下ろした。

 「貴様は真面目でいい奴だ。だが、いつも仕事ばかりじゃ息が詰まる。たまにはフランス航空隊のデュマ大尉に、どこか遊びに連れて行ってもらえ。仲がいいんだろ?」

 丈太郎は頭をかいた。ジャン=ピエールはフランス軍の案内係という役目の他に、実は、日本の調査官がスパイ行為を働かないように見張る“監視役”でもある。そんな関係なのに意気投合してよく遊んでいるとは言えず、古賀にはあくまでもジャン=ピエールとは任務上の付き合いだと話していた。

 古賀が見下ろしている通りを、若い女性の一団が賑やかにおしゃべりしながら通り過ぎていった。夏が目前の明るい太陽に照らされた彼女たちは、とても華やかで美しかった。古賀は軽くため息をつく。

 「藤堂、たまにはデュマ大尉と遊んでもいい。ただし、一つだけ注意しておくことがある。女には気をつけるんだぞ。パリには美しい女が山ほどいるが、真面目な奴が女に舞い上がるとロクなことにはならんからな」

 「はあ・・・・・・・」

 今のタイミングでは生返事になってしまう。女という言葉でまたもやジジの顔が浮かんだ。彼女は今や丈太郎の女神になりつつある。あんな美女と一夜をともにして、舞い上がるなと言う方が無理な話だ。丈太郎の目は窓辺の古賀を見ているようで、窓の外の青空の中に、生意気そうな顔で微笑むジジを見ていた。


 昼休みになった丈太郎はフランス陸軍航空隊本部に電話して、ジャン=ピエールを呼び出してもらった。ジャン=ピエールは外で昼食を済ませて帰ってきたばかりのようだった。

 「よう、昨日はどうだった? 結局『マリアンヌ』で女が引っかからなかったから、帰ろうと思ってお前を探したんだけど、どこかに消えちまってたな。もしかして、そっちは収穫があったのか?」

 丈太郎は電話に向かって顔を赤らめた。

 「収穫と言うか・・・・・ある女性と知り合って、今夜、一緒に食事をする約束をしたんだ。でも、僕はパリの気の利いたレストランなんか知らない。ジャン=ピエール、どこかいい店を教えてくれないか。僕を助けてくれよ」

 電話の向こうで小さな口笛が聞こえた。

 「トードー大尉殿、頼りなさそうな顔して結構やりますね。で、どんな女なんだ、そのコ。かわいいか? どんな店が好きなんだ? そのコにきれいな友達はいるか?」

 丈太郎は少し口ごもった。

 「・・・・・相手はジジなんだ。まだ知り合ったばっかりで、どんな店が好きかは知らない」

 「何だと!」

 ジャン=ピエールは絶叫した。丈太郎が話しかけてもしばらく返事がない。

 「もしもし、ジャン=ピエール、聞いてるのか?」

 「・・・・・・ああ、聞いてる・・・・・・何だよ、本当にジジなのか? “モンパルナスの月”とお前がデートするのか・・・・・?」

 「僕も夢を見ているようなんだけど、やっぱり夢じゃない。だから、ジジが喜びそうな店を教えてくれないか」

 ジャン=ピエールは小声になった。

 「もう寝たのか?」

 丈太郎も赤い顔で小声になる。

 「・・・・・・うん・・・・・酔っ払って覚えてないけど、どうやらそうらしい。今朝起きたら彼女のアパルトマンだった・・・・・」

 突如、電話から大声が響いてきた。

 「この野郎、許せん! その気弱そうな顔はトリックだったのか!? ああ、悔しい!」

 それからジャン=ピエールは丈太郎にさんざん悪態を並べ立てた。そして、言いたいことを言ってしまうとサン・トレノ街のヴォワザンというレストランを教えてくれた。この店とマドレーヌ街のラリュというレストランは今、パリで一番人気のある店だそうだ。

 それに、ジャン=ピエールは懇切丁寧に“デートマニュアル”を教えてくれた。

 「いいか、お前は女にモテた経験などない。どんなデートをすれば女が喜ぶのか知らないだろう。でも、ジジは遊び慣れてる。だから恥をかかないように、オシャレなデートの仕方を教えてやるよ。あのな・・・・・・」

 食事中の会話、食事が終わってから夜景が見えるバーへの誘い方、バーからベッドまでの勝負の決めゼリフなど、かなり具体的な内容だった。電話を切るとき、ジャン=ピエールは先ほどの悪態から打って変わってしんみりとした声を出した。

 「ジジはパリでも最高の女だ。日本に帰るまでの短い付き合いだろうけど、いい思い出を作るんだぜ」

 丈太郎は曖昧な返事をして電話を切った。ジャン=ピエールの最後の言葉は急に寂しい気持ちにさせた。

 ―日本に帰るまで・・・・・・―

 第2種軍装の白い詰襟をしっかり合わせ、丈太郎は自分に気合を入れた。まずはジジと会う前に今日の仕事を片付ける、そのことだけを考えた。そうでないと、午後もずっといろんな意味でジジのことを考え続けそうだった。



 勤務時間が終わった丈太郎はホテルまで飛んで帰った。レストランの予約は入れてあるし、レストランの次にどのバーに行けばいいのか、ジャン=ピエールがサン・トレノ街界隈の店を教えてくれた。後はジジに恥をかかせないようなきちんとした格好をして、堂々と振舞わなければならない。

 モンパルナスの住人ならば人種に関係なく、何かに意欲を持っている者であれば誰でも受け入れてくれる。だが、パリはそんなところばかりではない。東洋人というだけで差別する者も大勢いる。自分がちゃんとしていなければ、ジジに不愉快な思いをさせてしまう。

 着ていく服を夏用の第2種軍装にするか、それともスーツにするか迷った挙句に、丈太郎は麻のスーツを着てホテルを出た。

 軍人にとって軍服は正装だから、ジジに敬意を表わす意味でも場違いな格好ではない。それに海軍の白い制服は見映えがいいので、ジャン=ピエールもすすめていた。だが、丈太郎は海軍士官という身分と、ジジの前の自分とが釣り合っていないような気がしてやめた。だから結局、今日は麻のスーツだ。

 ホテル前からルノーのタクシーに乗り、丈太郎は運転手にモンマルトルに向かうように言う。車の加速に比例するように、だんだん緊張が高まってきた。

 次第に暮れかけて、昼の顔から夜の顔に変貌していくパリの街並みが目の前を次々に通り過ぎて行く。だが、丈太郎はそんな風景を眺める余裕などなかった。ルームミラーでチラチラと丈太郎の様子を見ていた、少し頭のはげた初老の運転手が陽気に声をかけてきた。

 「お客さん、これからデートですか?」

 その言葉に丈太郎の胸はドクンと鳴る。

 「何にも言ってないのに、何でそんなことがわかるんですか?」

 運転手は声を出して笑った。

 「お客さんの顔を見りゃあわかりますよ。『今から大勝負だ』って顔してらっしゃる」

 丈太郎は運転手から言われたことで、顔のこわばりが緩み、肩の力が抜けたような気がした。

 「それほど気合が入ってるんだから、きっとすごい美人なんでしょうね。でもね、もっと気楽にやった方がうまく行くこともありますよ。『大空に雲が流れるように、大地に風が吹くように、パリではごく自然に恋に落ちる』って言葉もあるし」

 「それは誰かの詩の一節ですか?」

 「いいえ、私の思いつきです」

 運転手と会話しているうちに、いつの間にか丈太郎はほんの少し微笑んでいた。


 タクシーを待たせてジジの部屋のドアをノックすると、すでに彼女は外出用の服に着替えて待っていた。その姿を見て丈太郎は息を呑んだ。

 ―きれいだ・・・・―

 今夜のジジは胸元が大きくV字型に開いた黒いカクテルドレスを着ていた。細い体のわりに胸が大きなジジは、ドレスのデザインで胸元を華やかに、そしてセクシーに演出している。

 それにスカートの部分は太ももの辺りまでスリットが入っており、歩くたびに形のいい脚が大胆に見えた。丈太郎はしばらく、そんなジジに見とれていた。

 「ジョー、何をボーッとしてるの? 車を待たせてるんでしょ。行くよ」

 そう言って、ジジは玄関に鍵をかけて、さっさと階段を降り始める。ドレスに合わせた黒いハイヒールをはいているのに、彼女は結構急な階段を背筋を伸ばして優雅に降りていった。

 「ジョー? 僕はジョータローなんだけど・・・・・」

 「ジョーでいいじゃない。日本人の名前はフランス人には発音が難しいのよ」

 丈太郎はジジに続いて階段を降り、路肩で待っていたタクシーのドアをジジのために開けた。ジャン=ピエールに教えてもらった通りにやったのだが、ガラにもないことをやってドアボーイになった気分だった。

 長い脚を折り曲げて後部座席にジジが乗り込むと丈太郎も隣に乗り、運転手に告げる。

 「サン・トレノ街のヴォワザンまで」

 運転手はジジの美しさに少し目を丸くして、ミラー越しに丈太郎に微笑みながら、うやうやしく言った。

 「かしこまりました、ムッシュ。しばしお待ちください」

 タクシーは静々と発車した。

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