心に降る音、余韻の甘さ

蜜柑桜

第1話 終演

 目に見えなければ、「なくてもいい」のだろうか。



 ピンと張った弦の一点から、天井高く開けた空間に広がる音。質感のある気体のように、振動とすら認識できない微弱な波が身体全体を包む。

 その波が次第に凪いでいき、ついには完全に消えた時、ピアノの椅子から立った全身が細かく撃つような感覚に取り込まれた。

 ドレスの胸元を押さえ、礼から直る。

「ありがとうございました。これにてチャリティー・コンサートは閉幕です。皆様のご寄付は医療支援団体にお送りします」

 女性看護士が会衆に向かって宣言する。もうひとたび大きな拍手が起こった後、人の群れが崩れてざわめきが戻ってくる。非日常をもたらす演奏会場は、もう病院ロビーの常の顔だ。

 散っていく客をあらかた見送って、響子は譜面台の脇からハンカチを取り上げた。汗ばんだ体はドレスのままではすぐ冷えてしまう。早く着替えなければ。

 ピアノを離れると、ばらけた人々の中から「響子ちゃん」と小さな人影が小走りに寄ってくる。

「響子ちゃん、今日はありがとうございました」

「琴音ちゃん」

 パジャマ姿の観客は、この大病院に入院している小学生だった。数回前からロビー・コンサートを聴いていて、毎回こうして礼儀正しく挨拶に来てくれるため、馴染みになった。

 その縁で見舞いに来た際に看護師から聞いたところによれば、気管支が弱く、季節の変わり目に体調を崩してたびたび短期入院になるのだそうだ。サラサラの髪が跳ねる頭の向こう、少し離れたところで母親がこちらに礼をするのが見えた。

「今日の『プリンセス・メドレー』、楽しかったの」

 琴音がはにかみながらぺこりと頭を下げるので、響子も「どういたしまして」と深々お辞儀を返す。

 プリンセス・メドレーという曲はない。琴音が好きらしい、王女が主人公のアニメ映画の劇中歌を響子がアレンジした曲だ。前回の夏季コンサートの後で琴音から好みの歌を聞いたため、作ってみたのだった。

「響子ちゃん、ドレスも綺麗でプリンセスで、また弾いてね!」

「うん——」

 相槌を打とうと屈んで琴音と目線を合わせると、視界の隅で琴音の母親がこちらを眺めている。

 その朗らかな微笑みの後ろを、検査着の男性が響子たちを一瞥して横切った。

「ねっ! みんなぜったい、よろこぶから!」

「そう……だね」

 瞬間的に逸れた意識を慌てて会話に引き戻し、響子は期待たっぷりのきらきらした瞳に笑顔を作った。すると琴音は満足げに破顔してから、パタパタとスリッパを響かせて母親の元へ駆け戻っていく。先ほど通りすぎた男性はもうロビー内には見えない。

 母親は遠くから会釈すると、琴音の肩を押して病棟への通路へ向かっていく。

 その背中を見送ってから、響子は楽屋がわりにさせてもらっているスタッフ・ルームへ戻ろうと人の流れとは逆方面につま先を返した。はじめはロビーのざわめきに紛れていた演奏用パンプスのヒールの音が、次第にはっきりした輪郭を持ち始める。

 通路の曲がり角で、車椅子用の鏡に自分が映る。

 低くしゃがれた男性の声が頭の中で囁いた。

 ――お気楽だな。

 目の前の姿を飾るのは、エナメルのパンプスと病院にそぐわない光沢のあるドレス。

 そして、聴衆を前に舞台に立つ演奏者にはそぐわない――いや、決してあるべきではない、への字を作る口元と、幽鬼のような暗澹たる目つき。

 虚ろな瞳が裁定するが如く響子を眺める。

 ぎょっとして喉が震えた。

 体が勝手に動く。

 気づいた時にはもう、響子の足は閑散とした廊下を小走りに駆け出していた。

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