第2章 白い日々
1話
その日の大和田事務所は、黒一色だった。
加古井が事務所に入ると、喪服の大和田と萌がいた。
「三無姫ちゃんはもう現地にいるみたいだから」大和田が言った。
大和田の運転する車で、加古井達は葬儀場へと向かった。事務所から1時間ほどだったが、その間、一言も会話は無かった。
平たく、大きい建物が見えてくる、火葬場と葬儀式場が併設された施設だった。広大な駐車場だったが、車はほとんど止まっていなかった。
受付にいた男が近寄ってきて、大和田と一言二言会話を交わしていた。すぐに、奥の和室へと案内された。
二十畳ほどの和室で、中央には棺が置かれていた。
棺の横には初上が座っていた。彼女は無表情で、棺の中で横たわっている人間を見つめていた。
大和田が何も言わずに、和室に上がる。加古井と萌も、それに倣って、無言で靴を脱いで、部屋へと上がった。
初上が立ち上がり、一、二歩下がって、場所を譲る。大和田は初上の座っていた場所に跪いて、棺に視線に落とした。加古井と萌も、棺を見つめる。
黒江が眠っていた。
真っ白な装いで、寝息も立てずに、眠っていた。
否、眠っているように見えるだけだ。
らしくない厚化粧だった。
何か、声を、かけなくては。
加古井が小さく、口を開く。言葉は出ない。
辛くて、悲しくて、寂しい。
黒江の胸の前で合わせられた両手に、右の手のひらを重ねる。
すでに温もりは失われていた。
目が離せなかった。
視線を逸らしたら、消えてしまう気がした。
黒江がそこから、いなくなってしまう気がした。
萌も、大和田も、口を結んで黒江の顔を見つめていた。
全員が沈黙を貫いていると、葬儀場のスタッフらしき男がやってきて、おずおずした様子で「代表者の方、お時間よろしい時に……」と言った。大和田が短く息をついて立ち上がり、部屋を出て行った。
「麻衣さん、鷹野さんは?」初上がいつもと変わらない声色で言った。
加古井は初上を見て、首を横に振った。
「一切、連絡がつきません」
「そう……」初上が視線を黒江に移した。「会わなくていいのかしら」
「やっぱり、責任、感じてるんですかね」
「それなら、ここに来るべきだわ」
「はい……その通りだと思います」
鷹野の話題はしないつもりだったのだが、初上の方から振ってくれたので、色々と話したくなった。ライブのことや、黒江のこと、今後について、確認したいことや相談したいことがたくさんある。いまここですべての感情をぶちまけても、初上なら受け止めてくれるだろう。
でも、今は抑えるべきだ。今日は、黒江との最後の時間を、後悔のないように、使わなければならない。それは初上も萌も、大和田も同じだろう。自分だけ楽になろうとするのは傲慢だ。加古井はそう結論付けて、また、黒江の傍に座る。泣き出しそうになっている萌の背中をさすって、自分も耐える。
「黒江さん、よく頑張りましたね」加古井が黒江に向かって呟く。「ライブ、大成功でしたよ」
「黒江さん、私、もっと話したい事あったんです……」萌の声は震えていた。「まだ、いっぱい……いっぱい……」
しばらくすると、大和田が戻ってきて、今日の段取りの説明をしてくれた。一夜葬になること、これ以上の来客はないこと、この後すぐに葬儀をして、火葬を行うこと。そんな内容だった。
「結局最後まで、ご家族とは連絡着きませんでしたね」加古井が言った。
「それはいいんだ」大和田がきっぱりと答えた。「体裁上、一応連絡をしようとした、という事実が必要だっただけだから。里沙ちゃんは、俺たちが責任を持って見送る」
大和田は、黒江の過去をよく知っているようだが、詳しくは教えてくれなかった。黒江には頼れる親族がいなかった、大和田事務所が遺体の引き取りと葬儀を申し出て、それがすぐに受理されたところを鑑みるに、戸籍上の家族と呼べる人物たちからは既に拒否されていたのだろう。
棺が式場に運ばれた。小さな会場で、僧侶がすでにそこにいた。遺影に使われている黒江の写真は、去年、事務所みんなで旅行に行った時のものだった。黒江の顔の部分だけを切り取られたものだったが、黒江の服と表情が印象的だったので、よく覚えている。箱根の温泉旅館の前で、女将が撮ってくれた写真だ。黒江は満面の笑みで、本当に楽しそうに笑っていた。
なぜ、彼女が死ななければならなかったのか。読経中はそればかり考えていた。
普通に考えれば、誹謗中傷に耐えかねて、ということになるだろう。
加古井の目から見ても、アリアはインターネットの悪意の中心にいて、おもちゃにされていた。そして、その何倍も愛され、応援されていた。
少なくとも、加古井には黒江が追い込まれていたようには見えなかった。全くダメージが無かったわけではないだろうけれど、まさか、自殺までするような状態になっているとは思いもしなかった。
黒江は、死ぬことを決めていたのだろうか。
だとしたら、ライブの後にしなかったのはなぜなのか。
鷹野はあの日、黒江の家に行って、何を見たのか。
彼が姿を消した理由はなんなのか。
不意に大和田に肩を叩かれて、自分が焼香する番になっていたことに気が付いた。
焼香が終わると、告別の時間になった。最後のお別れの時間です、と言われたので、全員が前に出て、棺の見送り窓の周りに集まった。
「里沙ちゃん、助けることができなくて、すまなかった」大和田が、目に涙を浮かべながら言った。「ウチを選んでくれて、ありがとうね」
大和田の言葉を皮切りに、萌が声を上げて泣き出した。ずっと我慢していたのだと思う。
「本当に、お疲れ様でした。安らかに」加古井は、深々とお辞儀をした。とにかく、黒江に最大限の敬意を伝えたかった。
初上は黙って、黒江を見つめている。
大和田が、初上の背中をそっと押した。
初上が頷く。
「黒ちゃん、私、頑張るね」小さく、囁くような声量だった。
大和田がスタッフの方を見て頷いた。合図を受け取ったスタッフが近付いて来て、棺の見送り窓を閉めようする。
「待って」か弱い声だった。初上の顔が歪む。「お願い……連れて行かないで」
初上がスタッフの腕を掴んでいた。
「お願いだから……」
見ていられなくなった加古井が駆け寄り、初上を抱きしめる。
そう、初上だって人間なのだ。
何でも完璧にこなし、何があっても動じない、そんな超人じみた人間のイメージだったが、きっとそうではない、ただ頑張り屋さんなだけなのだ。
ライブ中も、きっと心細かったことだろう。
ずっと虚勢を張って、我慢していただけだ。
「黒ちゃん……黒ちゃぁぁん……いかないでよぉ……」
初上はしばらくの間、子供のように泣き続けた。
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