接触

 郁紀は、近所の商店街を歩いていた。

 既に陽は沈み、闇が辺りを覆う時間帯だ。傍目には、夜の町を目的もなくふらふら出歩いている若者……というように見える。

 だが、本人の思惑は違っていた── 


 数分前に気づいのたが、誰かが後をつけて来ている。恐らく、桑原興行の人間だろう。

 それにしても、下手くそな尾行だ。いや、上手い下手の問題ではない。明らかな人選ミスだ。何せ、一昔前の冷蔵庫のようなガッチリした体格で、しかもドレッドヘアの大男が、彼の後からのしのし付いて来ているのだ。気付かない方が難しいだろう。逃げようと思えば、さっさと逃げられる。

 それとも、これは罠なのか。あえて下手な尾行をさせて、本来の狙いから目を逸らそうという魂胆か。

 いずれにせよ、やることはひとつだ。郁紀は、どんどん進んでいった。

 不意に、歩くスピードを上げる。速足で進んでいき、あえて人気ひとけのない路地裏に入っていった。




 郁紀は、針金製のさくで囲まれた空き地の前を通りかかった。下は土になっており、雑草が多く生えている。以前、ここには古いアパートが建っていたらしい。今は取り壊され、見る影もない。

 いきなり向きを変え、柵を乗り越え空き地に入り込んだ。奥に進んでいき、ぱっと振り返る。と、二人の男がこちらに向かい歩いてくるのが見えた。片方はドレッドヘアで色が黒く、顔の造りが日本人とは異なる。黒人、もしくはハーフだろうか。体は大きく、身長は百八十センチ以上。体重も、百キロを軽く超えているだろう。小山のような体にトレーナーを着ている。余裕たっぷりの表情だ。

 もう片方は、中肉中背だが異様な雰囲気を醸し出している。目はギラギラ光っており、息も荒い。顔色も悪く、目の下は黒い。ひょっとしたら、薬物が効いている状態なのかもしれない。一昔前のチンピラに有りがちなジャージ姿だ。確実に四十歳は過ぎているだろう。いや、五十超えているかもしれない。そんな歳でヤク中とは、哀れな話だ。


「お前、山木郁紀だなあ?」


 声を発したのはヤク中だ。発音がおかしい。呂律が回っていなかった。これもまた、薬物の影響なのだろうか。その上、前歯がボロボロである。

 郁紀は、思わず苦笑した。こんな中年のヤク中をよこすとは、随分とナメられたものだ。


「だったら、どうした?」


 言い返すと、ヤク中は顔を歪める。


「てめえか、ウチの事務所に爆弾仕掛けたのは?」


「違うよ。そりゃ、ペドロっておっさんの仕業だ」


「はあぁ!? 誰だそいつは!? 呼んでこい! 今すぐ、ここに呼べ!」


 急に金切り声をあげるヤク中。今時、コントでもこんなバカキャラは出て来ないのではないか。


「呼べねえよ。俺だって、連絡先を知らねえんだ。てめえらで探せや。そんなん得意だろうが」


 郁紀の答えに嘘はない。実際、知らないのだから。しかし、ヤク中はそうは思わなかったらしい。


「ふざけんじゃねえ! てめえ今すぐ殺すぞ! おら! ごらあ! 死ね! 直ちに死ね! でないと埋めるぞ!」


 口から唾を飛ばしながら、ヤク中は喚き散らした。だが、言っていることが支離滅裂だ。郁紀は、だんだん聞いているのが苦痛になってきた。こいつは、途方もないバカだ。薬物が、脳細胞にまで侵食しているらしい。


「わかったから、いったん帰れ。ヤクをキメて、スッキリしてから出直して来い」


 そう答えた途端、ヤク中はポケットに手を突っ込む。


「このガキが!」


 吠えた直後、何かを振り上げ突進してきた。短い警棒のようだ。だが、そんなものを注視している場合ではない。郁紀も、すぐさま間合いを詰めていく。武器を持った相手は、振り上げた瞬間に接近するのがセオリーだ。

 接近と同時に、左のジャブを放つ。郁紀の左拳は、ヤク中の顔面に炸裂した。鼻骨が砕ける感触が、拳に走る。

 だが、郁紀の攻撃は終わらない。さらに、全体重を乗せた右のストレートが飛ぶ。ストレートは、ヤク中の顎を打ち砕いた。ウッという呻き声を上げ、崩れ落ちていく。

 その時、浮き上がるような感覚が郁紀の体を襲う。

 直後、放り投げられていた──


 地面に叩きつけられた郁紀に、黒人が怒りの形相で襲いかかる。郁紀は、とっさに地面を転がった。間合いを離し、すっと立ち上がる。同時に、何が起きたのか察した。この黒人に持ち上げられ、力任せにぶん投げられたのだ。

 アスファルトの上に投げられたら、その時点で勝負はついていただたろう。しかし、郁紀は土の上に放り投げられていた。そのため軽傷ですんだのだ。

 それにしても、体重八十キロの郁紀を軽々と持ち上げ、放り投げられる腕力は相当なものだ。今まで相手にしていたチンピラとは、レベルが違う。

 そんな状況であるにもかかわらず、郁紀は異様な感覚を覚えていた。ヤンキーやチンピラを狩っていた時とは、似て非なる感覚。恐怖感と恍惚感とが、同時に襲ってくる……そんな、奇妙な感覚に支配されていた。


(実際の戦いは、生き延びることを第一に考えなくてはならない。避けられる戦いは避ける。待ち伏せを受けたら、脱出を第一に考える。これは、俺にとってごく当たり前のことだ)


 ペドロの教えが、脳裏に蘇る。彼の意見に従えば、さっさと逃げるべきなのだろう。待ち伏せと呼べるほど上等なものを用意しているようには見えないが、用心するに越したことはない。今、彼らと無理にやり合っても、得られるものは何もないのだ。

 しかし、逃げる気にはなれなかった。むしろ、血が騒いでいたのだ。

 こいつらを、始末しろと。


 黒人は、吠えながら突進してきた。と同時に、大振りのパンチを放つ。

 郁紀は簡単に見切り、すっと躱した。この男、格闘技の経験はないと思われる。だが、この体の大きさは厄介だ。百キロを超える体格と強い腕力は、なまじの武術経験など比較にならないほどの武器になる。

 またしても、大振りのパンチが飛んできた。郁紀は、バックステップで躱す。同時に、左の鋭いジャブを放った。

 拳は、男の顔面に炸裂する。だが、男は怯まない。それどころか、逆上し掴みかかってきた。

 男に両手首を掴まれ、壁に押し付けられる。凄まじい腕力だ。

 しかし、郁紀は慌てなかった。自身の手首を掴まれながらも、すぐさま反応する。強烈な肘打ちを、相手の額に叩きこんだ。肘打ちは、相手に手首を掴まれていても繰り出せる技だ。威力もあり、さらに刃物のように切り裂く効果もある。

 横殴りの肘が、黒人の顔面をえぐる。次の瞬間、額の皮膚が切れた。傷口が、パックリと開く。

 さらに、大量の血が流れ出す──

 血が目に入り、黒人は慌てて拭い取ろうとする。郁紀の手首を掴んでいた手を離し、目をこする。

 この状態で、手を離してしまったのは命取りであった。郁紀は、目の前のドレッドヘアを掴んだ。直後、顔面を壁に叩きつける。立て続けに三回──

 三回目で、黒人は崩れ落ちた。


 倒れている二人を、冷酷な表情で見下ろす郁紀。彼らには聞きたいこともあるが、この騒ぎが近所の住民に聞かれ通報されたかもしれない。となると、さっさと消えた方が無難だろう。


 ・・・


 翌日。

 昼間、真幌駅前マンションの一室にて、数人の男たちが集まっていた。全員が、桑原興行の面々である。


「んだと……池野、どういうことだ?」


 桑原徳馬が、鋭い表情で尋ねる。


「す、すみません! リロイと竹本なら、大丈夫かと思ったんですが……」


 池野と呼ばれた男は、慌てて頭を下げた。やや小柄ではあるが、筋肉質の体つきであるのはスーツ姿の上からでも見てとれる。鼻は潰れており、髪は短く刈り込まれている。

 この池野清吾イケノ セイゴ、かつてはボクサーだった。バンタム級で日本ランキング四位という男だが、知人同士の揉め事に巻き込まれ、人を殴って逮捕された。以来、裏の世界の住人となっている。元力士の板尾と並び、桑原興行の武闘派として知られている。


「その大丈夫と思った奴らが、病院送りにされたってのか」


 桑原の口調は静かなものだ。この男、簡単に人を怒鳴り付けたりはしないタイプだ。その代わり、笑いながら人の頭部を鈍器で殴れる。


「ええ……すみません、俺の見込み違いでした。山木ってガキは、ただのチンピラかと思ってましたが、どうも違ったようです」


 面目なさそうに、池野は頭を下げる。その姿を見ている桑原は、思案するような表情になった。


「もう一度聞く。山木は、爆弾仕掛けたのはペドロだと言ってたんだな?」


「はい、リロイも竹本も、そう言ってました」


「そうか、ペドロか……聞いたこともねえ。何者だろうな」


 誰にともなく言うと、桑原は下を向いた。他の者たちは無言のまま、彼の次の言葉を待っている。

 ややあって、桑原は顔を上げた。


「その山木とペドロが何者かは知らねえが、雑魚を何人送り込もうが押さえられねえだろう。第一、今の状況でその二人の為に人員を割くわけにもいかねえ。まずは、商売の方を立て直さねえとな」


 言いながら、桑原は池野に視線を向ける。


「池野、次はお前が行け。その山木とかいうガキを見つけたら、きっちり身柄を押さえろ。いいか、絶対に殺すなよ。そいつには、聞きたいことが山ほどある。生かしたまま連れて来るんだ」


「すみません、あと三日待ってください。金の回収が終わり次第、直ちに山木の身柄を押さえに行きますんで」


「三日か……わかった」


 桑原は頷くと、佐藤隆司の方を向く。


「隆司、暇そうな奴に山木を見張らせておけ。ただし、絶対に手を出すなとも言っておけ」









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