悪魔のやったこと
あれから、数日が経った。
その間、郁紀はぼんやりと過ごしていた。当然ながら、今まで勤めていたアルバイト先には行っていないし、連絡もしていない。一週間、無断欠勤をしたのだ。確実にクビであろう。今さら、戻る気もなかった。
これから、新しい職場を探さなくてはならない。にもかかわらず、何もする気にはなれなかった。
ペドロからもらった封筒には、百八万円入っていた。百八とは……仏教において、人間の煩悩の数といわれている数字だ。何かの皮肉だろうか。
数字の意味はともかく、百八万円は彼にとって大金である。暇があり、金もある状態だ。普通の若者なら、夜の町に繰り出して散財し、あっという間に使い果たしていただろう。だが、郁紀はそんなことはしなかった。単に、面倒くさかったからだ。
ひとつだけ、ずっと気になっていたことがあった。高山静江のことだ。
ペドロは言っていた……一時期、あの女の起こした事件が、世間を大いに騒がせていたと。ペドロは、人は殺しても嘘はつかないという特殊な性質を持つ男だ。言ったことを疑っているわけではないが、起こした事件については、詳しく知っておきたい。
そこで郁紀は、スマホで高山静江の名を検索してみた。すると、実にあっさりと見つかった。彼女の犯した罪を書き連ねた記事が、大量に出てくる。さらには「この女、絶対に許せない」「刑務所から出たら、探し出して犯してやる」などという物騒な書き込みもあった。どうやって調べたのか、虐待の内容を事細かに書いている記事まである始末だ。読んでいて不快になり、読むのをやめた。
ペドロが語っていたことに、間違いはなかった。高山は、本当に人間のクズだったのだ。世の中に、害悪を撒き散らす存在……今はもう、害悪を撒き散らすことは出来ない。それを知っているのは、郁紀とペドロだけだが。
今の郁紀は、退屈していた。
あの、異様な日々……ペドロの出す「課題」に取り組み、二度落第を宣告された。さらに幻覚剤を飲まされ、高山静江を殺し、奥村雅彦に癒えることのない傷を負わせた。
夢でも見ていたのではないだろうか、そんな気がしてくる。あまりにも非現実的な出来事の連続だった。しかし、夢でないこともわかっている。死んだはずの紗耶香との会話、高山の断末魔の悲鳴、奥村の関節を外した感触……それらは、脳裏に焼き付いている。
たった一週間。だが、郁紀の人生において、もっとも濃密な日々であった。
心のどこかに、もう一度ペドロに会いたいという思いがある。さらに、あんな狂気の体験をもう一度してみたい……という馬鹿げた思いが、頭を掠めることもある。実際に直面していた時には、恐ろしくて恐ろしくてたまらなかったはずなのに。
そんなことを考えていた時、不意に電話がかかってきた。知らない番号だ。
以前の郁紀なら、確実に無視していただろう。しかし、今の彼には予感めいたものがあった。スマホを手にする。
「あんた誰だ?」
聞かなくてもわかっている。恐らくは、あの男だろう。
「俺だよ。忘れたのかい?」
スマホから聞こえてきたのは、予想通りペドロの声だった。
「俺だよ、って……振り込め詐欺じゃないんだからよ。ちゃんと名乗れよ」
郁紀が言った途端、ふうというため息が聞こえた。
「君も、本当に呑気な男だな。今は、そんなことを言っている場合ではないんだよ。テレビはついているかい?」
ペドロの言っていることは、相変わらずわかりにくい。
「いいや、ついてないよ」
「つけてみたまえ。面白いものが見られるだろう」
いったい何を言っているのだろうか。郁紀は、テレビをつけてみた。
その途端、唖然となる──
テレビの画面には、ビルが映っていた。四階建て、あるいは五階建てか。さほど高いものでないのは間違いない。
だが、高さなど気にしている状況ではなかった。窓は割れ、地面にはガラスが散乱している。さらに壁は
そんな光景の前で、スーツ姿のマイクを持った男性レポーターが金切り声を上げていた。
(まだ、はっきりとはわかりませんが……この爆発は、人為的に引き起こされたもののようです! 今、ビルから怪我人が次々と運ばれています!)
カメラの方を向き、絶叫しているレポーター。その後ろでは、警官や消防士さらには白衣姿の救急救命士たちが、せわしなげに動き回っていた。はっきりとは映していないが、怪我人を運び出しているのは間違いない。
「な、なんだよこれ……」
思わず呟いた。何が起きているのか、はっきりとはわからない。ただ、とんでもないことになっているのはわかる。災害、それも規模の大きなものだ。
その時、恐ろしい考えが頭に浮かぶ。
「もしかして……あんたか? あんたがやったのか?」
かろうじて口から出たのは、そんな言葉だった。すると、スマホから不気味な音が聞こえてくる。くっくっくっく……という得体の知れない声だ。
これは笑い声だ、と気づいた時、スマホの向こうでペドロが語り出した。
「郁紀くん、面白いことを教えてあげよう。ついさっき、桑原興行という会社にて大規模な爆発があった。死者は、恐らく二十人に達するだろう」
恐ろしいことを、淡々と語っている。間違いない。ペドロが、あの事件を起こしたのだ。だが、何のために?
「あんた、何でそんなことしたんだよ……」
「この桑原興行という会社は、様々な商売に手を染めている。表向きは、イベント関連の業務を請け負う会社となっているが、主な収入源は薬物の売買や売春の斡旋といった違法なものだ。社会に害悪を垂れ流す者たちの集まりだよ。いわゆる反社会的勢力だ。社長の
ペドロの言葉は静かなものだった。だが、郁紀の方はわけがわからない。それと自分と、何の関係があるのか。
その時、思い出したことがあった。
(俺は、桑原興行だぞ!)
奥村雅彦は、確かにそう言っていた。チンピラのハッタリだろうと思い、たいして気にも留めていなかった。
今、その桑原興行の事務所をペドロが爆弾で吹き飛ばしたのだ──
「いったい何を考えているんだ? 何のために、あんなことをした?」
目の前の映像に衝撃を受けつつも、どうにか言葉を搾り出した。すると、奇妙な音が聞こえてくる。くっくっくっ……という声だ。
「君は、自分の置かれた状況がわかっていないのだね。でなければ、そんな気楽な質問をしないだろう」
「はあ? 何をわけわからねえことを……」
そこで、恐ろしい考えが浮かぶ。奥村雅彦は、桑原興行の人間だ。さらに今、桑原興行の事務所にて爆発があった。当然ながら、血眼になって犯人を探すだろう。
もちろん、ペドロは捕まらない。あの怪物が、捕まるはずがないのだ。となると?
その時、ペドロの声が聞こえてきた。
「俺は明日、奥村雅彦を憎んでいた者がいたことを桑原徳馬に教えるよ。山木郁紀という男の存在を、ね。桑原は、執念深い男だよ。彼は必ず、その男を探し出す。このままだと、山木郁紀くんは死ぬよりも辛い目に遭わされるだろうね」
笑い声が聞こえてきた。
無論、郁紀は笑えない。それどころか、体がわなわな震えてきた。この怪物は、自分を桑原なる男に売ったのだ。
何のために?
「てめえ、いったい何がしたいんだ?」
「俺のことより、まずは自分のことを考えたまえ。もう一度言っておくが、桑原はかなり優秀な人物だ。彼は、一億円遣ってでも必ず君を探しだす」
「ふざけるなよ……」
心の奥底から、怒りが湧き上がってきた。ペドロは、とんでもない騒ぎを起こした挙げ句、全てを自分に押し付けて高見の見物を決め込む気なのだ。
そして自分は、桑原なる男と殺し合いをしなくてはならなくなった──
「俺はもう、君とは会えないのかもしれない。そうなる可能性は低くはない。だがね、それでも俺は君と再会できることを望んでいるよ」
「ざけんじゃねえぞ! 今度会ったら、必ず殺してやる!」
思わず叫んでいた。すると、またしても笑い声が聞こえてきた。
「それは頼もしい。ならば、必ず生き延びるんだ。そして、俺を殺しに来たまえ」
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