宰相と悪役王妃
丸山 令
宰相の昔語り
心地よい風の吹く、穏やかな春の午後だった。
公爵邸にある庭園には、たくさんのクロッカスが植えられ、紫色の美しいグラデーションを作っている。
約束の時間より少し早く庭園にやってきた私は、お行儀よくベンチに座って待っている少女を見つけ、足早に歩み寄る。
「失礼。お待たせしてしまいましたか?」
「ええ。ずいぶん待ちましたわ」
彼女はむくれ顔で立ち上がった。
おや? おかしいな。
時間を間違えただろうか?
私の斜め後ろに立つ従者に視線を送ると、彼は首を横に振る。
少女の従者を見ると、彼は申し訳無さそうに頭を下げた。
「私、毎日とても忙しいのですわ。そんな中、時間をとってさしあげたのですから、会ったらもっと嬉しそうにして頂きたいわ」
「それは、申し訳ない」
「もちろん、許しますわ。
だから、おじさま、私が 十数える間だけ、目を閉じていて下さいな。絶対にあけてはダメですわ」
「何故です?」
「それは……秘密」
「それでは、了承致しかねます」
苦笑いで答えると、小さなレディーはぷぅっと頬を膨らませた。
「貴方に拒否権はないのです。これは、命令なの!言うことを聞かないと、お父様に言いつけますわ」
「公爵様に……ですか。それは困りました」
私は眉を寄せて見せる。
本当は、言いつけられて困ることなどない。
私の家格は、彼女に劣りはしないのだから。
だがまぁ、相手は二十も年下の七歳の少女。
幼さ故のわがままを、格式的な理由で一蹴するのは 大人気ない。
同格の者に命令され、それに従うことに多少の抵抗はあるが、公爵家の一人娘である彼女に逆らう者など これまでいなかっただろうから、傲慢な態度も ある程度致し方ないか……。
そう、諦めに似た気持ちで考える。
「……分かりました。十秒ですね?」
「はい!あ、片膝をついて、王子様みたいに」
……要求が細かいな。
仕方なしに膝をついて視線を合わせると、彼女は両手を後ろに もじもじしながら視線を逸らした。
「そしたら、早く目を閉じてっ。絶対あけたらダメですわ」
「仰せのままに」
ゆっくりとまぶたを下ろすと、彼女はカウントを始めた。
「いーち、にー……」
前方で、少女が動く気配がする。
護衛や従者が近くにいるから、彼女以外の誰かから危害を加えられる心配は無いが、自分だけが視界を塞がれた状況というのは、少々緊張する。
「……ごー、ろーく、なな」
緊張したような声と足音が近づき、
「はーち、きゅう」
ふわりと、花の香りがして、赤く見えていた視界が僅かに陰る。
「じゅう!」
至近距離で聞こえた声に目を開けると、目の前には少女の顔があった。
彼女は、そのまま私の頬に口付けすると、持っていた花束を私に手渡した。
「明日、国に帰ると聞きました。
それで、その……あと十年! 十年もすれば、私はきっと世界で一番素敵なレディーになりますわ。だから、絶対迎えにきて下さいませね?」
そう言って、目元に涙を湛えながら微笑む少女は、真っ白な天使の羽が背中に生えているのでは?と 錯覚するほど、無垢だった。
「随分昔のことだ」
窓の外に広がるクロッカスの庭園をぼんやりと眺めながら、宰相ジークヴァルトは ぽつりと呟く。
一人掛けのソファーに丁重に置かれた鏡は、応じるように 淡く鏡面を光らせた。
「そして、そう遠く無い未来に、私は彼女を 絶望の淵に沈めようとしている。今でもこれが最も合理的な方策であろうと考えているが、何と薄情な男だろうな。私は……」
自嘲気味に呟く宰相。
鏡は、赤色に発光した。
「差し伸べた手を振り払ったのは先方です。
それに、貴方様には、職務上 為さねばならぬことがありましょう。最小限の犠牲で王国をありし日の形に戻すため、これまで粉骨砕身してきたこと、あの試験の時から十年間、お側にお仕えして よく存じております。
そもそも、戦をして両国の民を犠牲にすることと比べれば、貴方様が薄情であるとは、我は思いませぬが?」
強い口調で返されて、宰相は目を瞬いた。
「……そうか」
「そうです」
すかさず断言されて、しばし沈黙したものの、やがて宰相は笑った。
そして、軽く両頬を叩くと、喪服の襟を正す。
「時間だ。では、釣りに出かけるとしようか。本当に私が釣り餌になるかは、疑問だが」
「心配ご無用。必ずや大物がかかりましょう」
賢者の鏡は、鏡面を青白く光らせた。
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