奈緒の葛藤

夕刻、労働者の喧噪が静まりたる工場地帯を後にし、奈緒と杉浦は人目を避けて川辺の小道を歩みたり。風は涼やかに頬を撫で、川面に反射する月光が二人の影を長く伸ばせり。


奈緒は微かにため息をつき、歩みを止めたり。傍らに佇む杉浦の顔を見上げつつ、逡巡を帯びた声で言へり。

「杉浦さん、私、ずつと考へてゐました。この私たちの関係が、革命の理想に背くものではないかと……。」


杉浦は眉をひそめ、慎重に奈緒の言葉を促しつつ答へたり。

「奈緒さん、そのやうなことを考へる必要はない。我々が求めるのは、人々が自由に幸福を追ひ求められる社会ではないのか。」


しかし奈緒は首を振り、川面を見つめつつ続けたり。

「それはさうですけれども、私は教育の場に立つ者として、労働者の前で誠実であらねばならぬ。その私が、私情に流され、貴方との関係を続けることが、集団の信頼を損ねるのではないかと思ふと、どうしても心が乱れるのです。」


杉浦は一歩前に進み、奈緒の手をそつと取りたり。その温もりに、奈緒の目が一瞬驚きに見開かる。杉浦は低き声で語りたり。

「奈緒さん、貴方は集団のために生きてゐると同時に、一人の人間として生きてゐる。その感情もまた、貴方の大切な一部ではないのか。我々が集団を導く時、全てを犠牲にせねばならぬといふのは誤りだ。革命の理想とは、個人の幸福を否定するものではない。」


奈緒はその言葉に耳を傾けながらも、心中の葛藤は容易に収まらず、目を伏せて答へたり。

「杉浦さん、貴方の言葉には救はれる思ひが致します。しかし、私が信じてきた理想と、この感情との狭間で、未だ答へが見つかりませぬ。」


杉浦は奈緒を見つめ、真摯に応へたり。

「奈緒さん、答へを急ぐ必要はない。ただ、貴方がその理想と共に歩みつつ、自分の心にも耳を傾けて欲しい。それが革命の目指す新しい生の形であると、私は信じてゐる。」


奈緒はその言葉に微かに頷き、胸中に渦巻く感情を押し留めつつも、杉浦の信念と優しさに触れ、次第にその存在の大きさを感じ始めたり。やがて二人は再び歩みを進めるが、奈緒の心中には未だ消えぬ光と影の交錯がありけり。

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