第7章:暗号と陰謀

 1914年8月、戦争が始まってすでに一ヶ月が過ぎていた。


 パリの街には、動員令による若者たちの行進が響き渡る。路上には「ドイツ帝国打倒!」のプラカードが踊り、カフェでは熱に浮かされたような愛国的な議論が交わされていた。


 原川は自室で、暗号解読に没頭していた。ドイツ側から入手した情報と、フランス側の機密文書。そして、ロシアからの極秘電報。


(三つの暗号を組み合わせれば、全体の絵が見えてくる)


 彼女は、歴史研究者としての知識を総動員して解読を進める。現代のコンピュータ解析なら一瞬だろうが、1914年の技術では、全て手作業だ。


「マダム、お客様です」


 執事が告げる。原川は素早く書類を隠し金庫に収めた。


「お通ししてください」


 入ってきたのは、フランス陸軍情報部のナヴァール大尉。額には薄い汗が浮かんでいる。


「マダム、重大な情報です」


 ナヴァールは声を潜めて告げる。


「ドイツ軍の進軍経路が判明しました。彼らはベルギーを経由して――」


「パリを目指すのでしょう」


 原川が言葉を遮る。ナヴァールは驚いた表情を見せた。


「ご存知だったのですか?」


「ええ。シュリーフェン・プランですわ」


「マダムの情報網には、いつも感心させられます」


(まだ気付いていないようね。私が両陣営から情報を得ていることに)


 原川は立ち上がると、窓辺に歩み寄った。戦時下のパリの街並みが、夕陽に染まっている。


「大尉、あなたはこの戦争をどう思いますか?」


「それは……祖国のための戦いです」


「本当にそうでしょうか?」


 原川は振り返り、まっすぐにナヴァールを見つめた。


「誰もが、誰かの手駒として動かされているだけ。この戦争も、結局は……」


 言葉を途中で切る。ナヴァールは困惑した表情を浮かべた。


「マダム?」


「いいえ、何でもありません」


 原川は優雅に微笑んで見せた。


(まだ言うべき時ではない。全ての準備が整うまでは)


 ナヴァールが去った後、原川は再び暗号解読の作業に戻った。机上には、三カ国の暗号書が広げられている。


 そして、もう一つ。


 極秘の日記帳。そこには、歴史学者としての知識を基に、これから起こる主要な戦局の展開が、全て書き記されていた。


(この戦争は、結局は誰も得をしない。数百万の命が失われ、ヨーロッパは疲弊し、そして……第二次世界大戦への種が蒔かれる)


 原川は深いため息をつく。


(だが、それを変えられるとしたら? 歴史の流れを、ほんの少しでも)


 彼女は、新たな暗号の作成に取り掛かった。これは、誰にも解読できない暗号。なぜなら、二十世紀後半の暗号技術を応用しているからだ。しかし今の自分になら、時間はかかるが作成は可能だ。


 この暗号を使って、彼女は密かに、和平工作の糸口を探っていた。

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