第5章:二重の影

 1914年6月28日、パリ。原川は自室で新聞を開いた瞬間、息を呑んだ。


「サラエボで皇太子暗殺」


 歴史が、確実に動き出していた。


(これから一月後、オーストリアがセルビアに宣戦布告する。そして、ヨーロッパ全土が戦火に包まれる)


 原川は立ち上がり、書斎の隠し引き出しを開けた。そこには、これまでの9年間で築き上げた情報網の詳細が記されていた。


 実在のマタ・ハリは、戦争勃発後に軽率な判断を重ね、破滅への道を進んでいった。しかし今の彼女には、歴史家としての知識という強力な武器がある。


 ドアをノックする音が響く。


「どうぞ」


 入ってきたのは、メイドのマリー。手に一通の封筒を持っている。


「フランス外務省からの書簡です」


 原川は素早く目を通す。予想通りの内容だった。


(フランス側も動き出したか)


 彼女は立ち上がり、ドレッシングルームへと向かった。大きな姿見の前で、身支度を整える。


 エレガントな黒のイブニングドレス。胸元にはカルティエの最新作、プラチナに黒真珠をあしらったペンダント。手首には、ロシアの公爵から贈られた紫水晶のブレスレット。


(これから始まる戦争で、こんな贅沢な暮らしは終わりを迎える)


 原川は、どこか懐かしむような目で自分の姿を見つめた。


「用意ができました」


 マリーが告げる。原川は深く息を吸い、覚悟を決めた。


 パリ郊外の某貴族の邸宅。この夜、フランス政界の重鎮たちが集まる非公式の会合が開かれていた。


「マタ・ハリ夫人、お越しいただき光栄です」


 迎えに出たのは、フランス陸軍情報部の新局長、ジョルジュ・ラドゥー大佐。原川は、この名を聞いただけで背筋が凍る思いだった。


(実在のマタ・ハリを死に追いやった張本人)


 だが表情には、優雅な微笑みを浮かべる。


「こちらこそ、お招きいただき感謝いたします」


 豪奢な応接室。ルイ16世様式の家具に囲まれ、政府高官たちが三々五々と歓談している。原川は、その一人一人の経歴を把握していた。


「乾杯いたしましょう」


 ラドゥーがシャンパンを手渡してくる。グラスを受け取りながら、原川は相手の目を観察する。その瞳の奥に、どれほどの策略が隠されているのか。


「マダムのような方なら、祖国フランスのためにお力添えいただけるものと……」


 ラドゥーの言葉に、原川は一瞬だけ目を伏せた。


(ここからが正念場だ)

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