幼馴染とシュレディンガーと秘密基地

KazeHumi

変わりたくない私と変な夏



飛び上がるように水中から顔をだすと、プールの匂いが鼻から頭に抜けた。

懐かしくて胸をつかむような感覚を味わうように目を閉じる。その匂いの本質が「トリクロラミンだ説」なんてどうでもいい。

十六歳の私の夏がはじまる。


村営プールは今年もがらがらだ。

よそ見をしている監視員は、帰省中のおばあちゃん家の近所のおばちゃん。視線の先に、遠い夏の日でも見てるのだろうか。


私は女子高校生になってもよそ見なんてしない。去年と同じ、田舎の家族との夏を選んだ。だって私は認知的で、家族と田舎で過ごす平和な夏が好きだから。


「惟織(いおり)ちゃん、大きくなったね」


おばちゃんに会釈を返す。


中学生になると、私は教授であるお父さんに弟子入りした。以来私は、認知的で科学的な道を着実に歩み、思春期のトラブルとは無縁に過ごしてきた。

プールの匂いの原因がトリクロラミンであるという説を頭から信じるようなこともしない。実際、人の汗や尿が根本原因というには村のプールには私と監視員しかいない。


それにしても、まだ十六歳なのになぜこんなに懐かしく感じるんだろう。


お父さんを「教授」と呼ぶようになってから三回目の夏だ。

小学校卒業直前の記憶が浮かびそうになって、頭をふった。


「気持ちや愛という曖昧なものは変化する。お金や物の価値も変動する。ただ、宇宙の真理や科学の尊さは変わらない」


そう教えてくれたのは教授だった。


もし教授に師事していなかったら、私は今頃どんな夏を過ごしてるんだろう。




ぼうっとした途端、裏の森から届く鳥とか虫とか、命の主張みたいな音に聴覚が奪われた。肩の力がだらんと抜けて水面の鱗みたいなきらきらに視覚を奪われる。


どの季節より夏に「生きてる感」があるのは、生きたい、繁殖したいという欲求をそこら中から感じるからだろう。普段異性に興味のない私も、未知の性交について考えたりするし。

でも同時に、命のカウントがカチリと刻まれてしまうような、「すべては有限だ」と目の前に突き付けられるような感覚もあるのはなぜだろう。

ちなみに私に残された夏の回数は……。やめよう、まだ私は女子高校生なんだし。


今年もこの村の夏は変わらない。

変わったことといえば、帰省してさっそく見かけた初鹿成緒(はつしかなお)君が大人っぽくなっていたことと、教授がいないことくらい。


教授が、お父さんがいない夏は初めてだ。


――なぜ貴方がそんな不合理なことをする必要があるの?


この夏最大の謎と脅威を思うと、呼吸が浅くなる。



プールは公民館の一角にあって、図書室も同じ施設にある。

プールを出ると、図書室に成緒君がいた。




「相談がある」と声をかけると、成緒君は片眉を上げた。

出た、非言語コミュニケーション。口数があまり多くない彼はよくそれで話をつぐ。


「夫婦の愛をとりもどす調査をしてたんだけど、どの研究もエビデンスが少ないの」


図鑑を閉じて、成緒君が身体をこちらへ向けた。


「思考する物体の相関的な力学について研究してたんだけど、まず問題を解決したいの」


「十六歳で夫婦間問題を調べなきゃいけないなんてなかなか苦労してるね」


私の体操着にまったく触れない成緒君を、私はあらためて信頼できる人だと認定した。


「教授も人間だった。不倫とかぜんぜん科学的でも合理的でもないと思う」


「科学者にも心はあるでしょ。心は情緒とか文化の影響も恩恵も受ける。文系を舐めるなって話」


「三年前、文系を蔑ろにするようなこと言ってごめんなさい。力を貸してください」


研修旅行ですぐには帰れないと教授が話したこと。教授からのメールの返信がぜんぜんないことを伝えた。

腕組みを解くと、成緒君は右手の人差し指を立てた。


「じゃあ取引しよう。僕は惟織ちゃんに協力する。それが成功したら、惟織ちゃんは僕のサンショウウオ探しを手伝う」


「あの、ぬるぬるのやつ?」


「今年の夏の僕のテーマは、周辺の川の生物の観察。なかでも一番困難な生物がサンショウウオなんだ。象牙の塔でミーティングしよう」





公民館の近くに、教授が「象牙の塔」と名づけた秘密基地がある。三年前に見つけたもう使われていない山小屋で、雌の子猫つき物件だった。教授と子猫と一緒に撮った写真はまだデータフォルダにある。子猫は愛想がなくて、私もトゲトゲしてたからちょっとイジワルな名前をつけた。


「ここは不思議と涼しいね」


ドアを開けると生きたシュレディンガーが顔を向けた。実は彼女は屋根裏から自由に出入りしている。


「お母さんもうすうす感じてると思う。あのキャラだから動じてなさそうだけど」


「宗片(むなかた)さんも、おばさんにかかれば『聡士(さとし)君』だしね」


「私もお母さんも宗片さん。呼称は『教授』に統一しよう」


成緒君は手をあげて「了解」と伝えてきた。


「いつも宗片研究室のSNSアカウントをチェックしてるの」


長い身体をよじって、私の成緒君はスマホを覗きこんだ。


研究室のグループ写真に不自然さはない。ただ教授の隣に立つ、淡いベージュのワンピースの女性から目が離せなかった。顔が小さくて消えてしまいそうな透明感があって、柔らかく微笑んでいる。悪い人には見えないけど魅力はある。


「もちろんこれだけじゃない。いろんな状況証拠がある」


「おばさんも仲間にしたほうがいいと思う」


何度か考えた事だったけど今まではできなかった。でも、手遅れになる前にやっぱりそうするべきなのかもしれない。


「私、お母さんに話してくる」


「僕はここで本を読んでる」





お婆ちゃんの家は庭の広い平屋だ。縁側があって夏でも驚くほど風が抜ける。

急いで自転車を漕いできたのに、門をぬけると急に緊張がわきあがった。音が立たないように玄関の戸をそろそろと引く。


廊下をひっそり歩いて居間の手前で立ち止まった。ビーズの暖簾のむこうからお母さんとお婆ちゃんの話声が届く。母と娘だけの特別な空気を感じて足がすくむ。


「聡士君と私、ダメかも」


お婆ちゃんがお茶をすする音が聞こえる。

心臓を握りしめられたように息苦しくなる。


「ちょっと良い男を選びすぎたんじゃないかとは思ってたよ」


「そうかも」


お母さんの声はいつもより小さく、ゆれている。


「でも侍みたいなかっこいい苗字じゃなくなっちゃうのは残念だねぇ」


「そこ?」


ずずっとお母さんが鼻をすすった。


「惟織の学校は考えなきゃいけないけど、いざとなったらうちに住みな」


「うん」と答えたお母さんの声はまるで子供みたいで、初めて聞く声だった。


私は音を立てずに家を出ると全力で自転車を漕いだ。




「思ってたよりうち、危ないかも」


象牙の塔にかけこんでそれだけ言うと、シュレディンガーを抱きしめた。次に言葉を発したら何かが決壊する。

成緒君は小さく頷いただけで「話せるようになったらどうぞ」という言葉をやわらかく届けた。


私の手は思わず成緒君のシャツの裾をつかんでいた。握りしめて目を閉じると、少し呼吸が楽になった。やっと深く息を吸うことができて、吐いたら涙までこぼれた。


「お婆ちゃんに教授のこと話してて、お母さんが子供みたいに不安そうだった。逃げてきちゃった」


「僕が知る限り、教授は家族も村の夏も好きな人だったと思う。外に目が向く人なら、毎年家族とこういう村に来てなかったと思う」


ぼんやりと前に成緒君の前で泣いた時の事を思い出した。

小六の卒業直前、クラスの男子に告白されて断った。その子を傷つけ、その子を好きだった親友を失った。コントロール不能なことを遠ざけたいと思ったきっかけだった。


「宗片研究室のアカウントを利用すれば可能性があると思う」


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