推しのアイドルと死亡フラグ

松本凪

第1話

朝の光がまだ微睡む街を照らし出す頃、佐々木悠斗はいつものように登校していた。

眠たげな空気をまといながら、通い慣れた道を歩く。学校はただの場所であり、今日もまた変わらぬ日常が繰り返される——はずだった。

しかし、教室の扉を開けた瞬間、その日常は脆くも崩れ去った。

「え、嘘だろ……?」

ざわめくクラス。誰もが口々に何かを囁き合い、興奮と動揺が入り混じった熱気が漂っている。悠斗の視線が教壇へ向かうと、そこにはあり得ない存在が立っていた。

椎名可憐。

画面越しに何度も見た、憧れのアイドル。煌びやかな世界に生きる、手の届かないはずの少女。歌い、踊り、その笑顔で何万人もの人々を魅了してきた彼女が、今、目の前にいる。

「今日からこのクラスに転校してきました、椎名可憐です。よろしくお願いします!」

透き通る声が教室に響く。その瞬間、時が止まったかのようだった。いや、止まったのは悠斗の心臓のほうだ。

目の前の少女は、スクリーン越しに見ていたのと同じ笑顔を浮かべていた。柔らかな栗色の髪が朝の光を受けてきらめき、制服姿に身を包んだ彼女は、まるで普通の高校生のように見える——だが、彼女が「普通」ではないことを悠斗は知っていた。

「え、マジで本物?」

「なんでこんなとこにいるの?」

クラスメイトたちのざわめきが止まらない。そりゃそうだ。彼女ほどの人気アイドルが、なぜこんな地方の高校に転校してくるのか。しかも、よりによって自分のクラスに。

——これは、夢なのか?

悠斗は自分の頬をつねった。痛みが走る。夢じゃない。だが、それならば……なぜ?

あまりに非現実的な状況。彼女は何かの事情で転校してきたのだろう。しかし、それが何なのか、悠斗には分からない。ただ一つ確かなのは——

彼の世界が、今日から大きく変わるということだった。


 昼休みの教室は、ざわめきに満ちていた。誰もが興奮冷めやらぬ様子で、転校生——椎名可憐について語り合っている。

「マジでやばくね?」

「信じられない……このクラスに可憐ちゃんがいるなんて」

「今日の記念に写真撮ってもらおうかな」

そんな会話があちこちで飛び交う中、悠斗は一人、自分の席に腰を下ろしていた。まだ、朝の出来事が現実だと受け止めきれていない。

まさか、自分がずっと推していたアイドルが、突然同じクラスの生徒になるなんて。

視線を机の上のスマホに落とす。習慣のようにロックを解除し、何気なくSNSを開こうとした——その瞬間。

カチッ。

画面が唐突に暗転し、見たことのないアプリが起動した。

「……?」

こんなアプリ、インストールした覚えはない。タイトルには、簡素な文字が浮かんでいる。

《未来ニュース》

無機質なデザインの画面。中央に表示された一文を目にした瞬間、悠斗の思考は凍りついた。

——「1週間後:椎名可憐、芸能界引退」

息を飲む。

——引退? 椎名可憐が?

理解が追いつかない。彼女は今、国民的アイドルだ。スキャンダル一つなく、テレビにも雑誌にも引っ張りだこ。ステージの上で輝き、ファンを魅了し、絶大な人気を誇る存在。その彼女が……

たった一週間後に、芸能界を去る?

「なんだよこれ……」

知らず、声が漏れた。

手が震える。もう一度、画面を見直す。誤報かもしれない、悪質なフェイクニュースかもしれない。しかし、どこを探しても「記事の出典」や「投稿者」の情報はない。そこにあるのは、ただ淡々とした事実の羅列だけ。

スクロールする。次のニュースを探そうと指を動かすが、何も表示されない。このアプリには、たった一つの未来だけが記されていた。

椎名可憐の引退。

悠斗の心臓が、異様な速さで鼓動を刻む。

なぜ可憐が引退するのか。誰かに強制されたのか。それとも、彼女自身が決めたことなのか。

そもそも、このニュースは本当に「未来」なのか。

「……ただのデマだよな」

考えれば考えるほど、胸の奥にざらついた不安が広がっていく。

そして——その視界の端に、彼女の姿が映った。

教室の一角。窓際に座る椎名可憐。昼休みの喧騒の中で、彼女だけがどこか浮いているように見えた。常に誰かから話しかけられているが、その目はどこか上の空だ。

悠斗は、初めて彼女の横顔をまじまじと見つめた。

——その表情には、どこか寂しげな影が差している。

まるで、この未来を彼女自身が知っているかのように。


 放課後。

陽が傾き始め、教室の窓から射し込む夕陽が長い影を作り出していた。ほとんどの生徒は帰宅したか、部活動へ向かったのか、教室にはもう数人しか残っていない。その静寂の中、悠斗は一人、躊躇していた。

彼女に、話しかけるべきかどうか——。

椎名可憐は、今、一人で窓際に座っている。制服のリボンを少し緩め、頬杖をついて外を眺めながら。昼休みのあの時と同じ、どこか遠くを見つめるような横顔。その姿が、なぜかひどく儚く見えた。

(俺、推しと同じクラスになったんだよな……)

まだ現実感がない。けれど、もし「未来ニュース」に書かれていたことが本当なら——悠斗は、今この瞬間を逃してはいけない気がした。

意を決して、机を離れる。足音がやけに大きく聞こえる。

「……あの」

声をかけると、可憐は驚いたように顔を上げた。

悠斗は喉が詰まるのを感じながらも、なんとか言葉を絞り出す。

「どうして……転校してきたんですか?」

一瞬、教室の空気が止まったような気がした。

可憐の瞳が、悠斗を捉える。琥珀色の瞳。その奥に、一瞬だけ揺れるものがあった——何かを迷うような、探るような、それでいて戸惑うような。

だが、次の瞬間には、その表情はすぐに柔らかな微笑みに変わる。

「ちょっと疲れちゃって……」

彼女は言った。

「普通の高校生活がしてみたくなったの」

その言葉は、あまりにもシンプルで、あまりにもありふれている。だが、悠斗はそこに拭いきれない違和感を覚えた。

彼女の笑顔は完璧だ。アイドルとして何千回も繰り返してきたであろう、人を惹きつけるための微笑み。けれど、その目の奥には——ほんの一瞬だけ見えた影があった。

悠斗は、それが何なのか知りたいのだ。

「……疲れたって、何かあったんですか?」

気づけば、もう一歩踏み込んでいた。

可憐の笑顔が、少しだけ揺らぐ。

「……ううん、大したことじゃないよ」

そう言って彼女は視線を逸らし、再び窓の外へと目を向ける。

窓の外には、赤く染まる夕空。沈みゆく太陽が、世界を茜色に染めていた。

悠斗は、その横顔を見つめながら、

彼女は何かを隠している。

 なんとなく、そう感じた。

そして、その「何か」は、悠斗が見た未来ニュースと、きっと関係がある、ような気がしていた。


  翌日、椎名可憐はいつもと変わらぬ笑顔でクラスに溶け込んでいた。

「可憐ちゃん、一緒にご飯食べよ!」

「昨日のドラマ見た? 可憐ちゃんが出てたやつ!」

「ねえねえ、放課後カラオケ行かない?」

彼女の周囲には、自然と人が集まる。誰もが彼女と話したがり、誰もが彼女の笑顔に魅了されていた。

可憐は、そんな期待に応えるように、完璧なアイドルの笑顔で微笑んだ。

「うん、一緒に食べよう!」

「ドラマ見てくれたの? ありがとう!」

「カラオケ……行ってみたい!」

けれど、その姿を見つめながら、悠斗の胸にはどうしても拭えない違和感が広がっていった。

(本当に……何もないのだろうか)

確かに、彼女は笑顔だった。周囲の誰もが疑いを持たないほどに、屈託なく、眩しいほどの笑顔だった。

——でも、その目の奥は、違っていた……ような気がする。

最初に気づいたのは、ほんの些細な仕草だ。

ふとした瞬間、誰もいないのに背後を気にする。

誰かが彼女を呼んだわけでもないのに、可憐は何度も小さく肩をすくめるようにして振り返っていた。まるで、そこに何者かの気配を感じ取っているかのように——。

けれど、振り返った先には、誰もいない。悠斗が見ても、そこにはただ、普通の教室があるだけだった。

何かに怯えたように窓の外を見る。

授業中、窓際の席に座る可憐は、何度も窓の外を気にしていた。

最初は、ただの退屈からだと思った。けれど、その視線は明らかに違う。ただ景色を眺めているわけではない。

誰かを探している。

もしくは、誰かがそこにいることを確かめているような——。

悠斗がそっと視線を向けたとき、可憐の頬にうっすらと浮かんでいた笑みが、ほんの一瞬だけ消えたのを見た。

——怯えている?

悠斗の背筋に、じわりと冷たいものが走る。

(……いや、まさか)

けれど、確信へと変わる決定的な瞬間は、昼休みの出来事だった。

クラスメイトと談笑していた可憐の表情が、ふいに強張った。

誰も気づかないほどの一瞬。だが、悠斗は見逃さなかった。

彼女は、何かを見た。

窓の外なのか、廊下なのか、それとも別の何かだったのか——悠斗には分からない。ただ、確かにその瞬間、可憐の表情は凍りついた。

そして、彼女の口から、かすかに漏れた。

「……また……」

また。

その言葉が示すものは、彼女にとって「知らないもの」ではない。

知っている何か。繰り返し現れる何か。

悠斗の鼓動が速まる。

(可憐は……何かから逃げている?)

昨日の言葉——「ちょっと疲れちゃって」

その何気ない一言の裏には、ただの疲労や気分転換では説明できない何かがあった。

悠斗は、この違和感を見逃すべきではないと直感した。

そして、それと同時に、彼の脳裏には昨日の「未来ニュース」の文字が浮かぶ。

「1週間後:椎名可憐、芸能界引退」

(このニュースは……本当に、ただの偶然なのか)

悠斗は、可憐の横顔を見つめる。彼女はもう、普段の笑顔に戻っていた。

——けれど、その瞳の奥には、やはり影が宿っていた。


 次の日の放課後。

教室の喧騒が静まり、窓の外には淡い茜色が広がっている。部活へ向かう生徒たちの足音が廊下に響く中、悠斗は一人、机に突っ伏していた。

頭の中は、ぐるぐると渦を巻く疑問と不安で埋め尽くされている。

(可憐は、何かから逃げている——)

悠斗はスマホを取り出した。

(……あの「未来ニュース」、もう一度見てみるか)

正直、バカげているとは思った。こんなアプリが何なのかも分からないし、そもそも「未来のニュース」なんてあり得ない話だ。

けれど——

「1週間後:椎名可憐、芸能界引退」

それが、ただの偶然とは思えなかった。

(もし、本当に未来が書かれているとしたら……)

指先が震える。画面をタップし、再びアプリを開く。

——その瞬間、血の気が引いた。

そこには、新しい記事が表示されていた。

「1週間後:椎名可憐、事故死」

……事故死⁉︎

悠斗の心臓が跳ねる。喉が詰まる。

「嘘だろ……?」

かすれた声が漏れる。

昨日までは「引退」だったはずだ。それが——「死」に変わった?

何がどうなっているのか。未来は変わるのか。それとも——未来の結末は、すでに決まっているのか。

スマホを持つ手に、じんわりと汗が滲む。

(可憐は……死ぬ……?)

悠斗の脳裏に、数日間の彼女の様子がフラッシュバックする。

怯えた目。背後を気にする仕草。窓の外を見つめる焦燥。そして、かすかに漏れた「また……」の言葉。

まるで、自分が何かに追われていることを知っているかのようだ。

(この未来を、変えることはできないのか)

悠斗の手が、強くスマホを握りしめる。

悠斗は立ち上がり、放課後の教室で、可憐を真正面から見つめた。

「椎名、さん。何かあったんですか?」

「え……?」

一瞬戸惑いつつも、彼女はいつものように微笑んだ。まるで何事もなかったかのように、穏やかに、どこまでも自然に。

だが、その笑顔が嘘だということを、悠斗はすでに知っている。

「正直に話してほしいんです」

悠斗の声は、予想以上に強くなった。

「転校してきた理由も、本当に『普通の高校生活』を送りたいだけなんですか? 今日だって、ずっと何かを気にしてたような気がしたんですが」

一瞬、可憐の目が揺れる。

けれど、すぐにまた、あの完璧なアイドルの微笑みが形作られた。

「……私のこと、そんなに気にしてくれるんだ?」

「誤魔化さないで」

悠斗は、ぐっと拳を握りしめた。

「俺は……ただ、椎名さんが心配なんです」

可憐はしばらく悠斗を見つめていた。瞳の奥には、言いようのない迷いが浮かんでいる。

しかし、彼女は結局、首を横に振った。

「大丈夫だよ。本当に、なんでもないの」

そして、微笑んだまま、軽やかに教室を後にした。

悠斗は、ただその背中を見送ることしかできなかった。


その夜——。

『助けて』

悠斗がスマホを見たとき、心臓が跳ねた。

可憐からのメッセージが届いていた。

たった一言。

その文字を見た瞬間、悠斗は息が詰まった。

放課後のあの笑顔とは、まるで正反対の言葉。

「……何があったんだ」

動揺しながら、メッセージを開く。そこには、住所が添えられていた。

悠斗の家から、そう遠くない場所——市街地から少し外れた、人気の少ないエリア。

(早く、行かなきゃ……!)

考えている暇はなかった。

悠斗はスマホを握りしめ、すぐに家を飛び出した。


指定された場所に着いたとき、悠斗は息をのんだ。

可憐がいた。

薄暗い街灯の下、彼女は腕を抱くようにして立ち尽くしていた。

アイドルとしての華やかな雰囲気は影を潜め、そこにいるのは、ただひとり震える少女だった。

悠斗は駆け寄る。

「可憐!」

可憐は、悠斗の顔を見て、初めて安堵したように表情を緩めた。

だが、すぐに、唇を噛みしめる。

「私……もう何度も、殺されかけてるの」

「……っ!」

悠斗の背筋に、氷の刃が這い上がる。

「それ……どういうことなんだ……?」

可憐は震える手でスマホを握りしめながら、かすれた声で呟いた。

「最初は……ただの偶然だと思った。でも、気づいたの。これは偶然なんかじゃないって」

「誰かに狙われてるのか?」

悠斗の問いに、可憐は小さく首を振った。

「分からない……でも、一つだけ確かなことがあるの」

彼女は、強張った顔で言った。

「私、このままだと、本当に殺される——」

悠斗の手が、ぎゅっと固く握りしめられる。

(未来ニュースの……『1週間後、事故死』っていうのは……)

「可憐、その『殺されかけた』っていうの、詳しく話してくれ」

悠斗は、彼女の震える手をそっと握った。

何が起きているのか、まだ分からない。

けれど——悠斗の胸には、ただひとつの確信があった。

(……俺が、助けなきゃいけない)

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