第45話
「吾妻さん……」
「あの人が心配かな。僕としても、お店の常連さんだから優しくしてあげたいんだ。大丈夫、手荒なことはしないよ、眠ってもらうだけだから」」
「秋葉さん、明日のことは今日次第って昨日言ってましたよね。眠ってもらうって、それだけじゃないですよね?」
「そういえば、昨日はこの間の合宿の種明かしをしただけだったね。明日は、厚生局の人にも学園祭に来てもらう。今日はその招待状を渡すんだよ」
「やっぱり、そうですよね」
秋葉の言う種明かし、その全貌は話を聞いただけでは理解できなかったが、その場所に厚生局の人が来るのは道理だった。
「学園祭、大変なことになりそう」
茜はボソリと呟いた。二日目は本当に開催されるのか、それさえ不安になる。
「ゼロをイチにする時は必ずやってくる。学生さんたちの時間を奪ってしまうことになるのは申し訳ないと思うけど、繁華街やオフィス街で実行するよりは、影響は少ないはずだよ」
「確かにそうかもしれませんけど……」
絵梨香は端に寄せた椅子に座り、秋葉の宣誓も耳に入っていないと思うほどに考え込んでいた。
「さて、あと三十分くらいでやってくるから、二人はこの場所で待機していて。中山さんが店に入ったらメッセージを送ってくれればいいから」
秋葉はそう言い残し、事務所を出て行った。
「あと三十分だってさ。なんだか緊張してきた。何もしないのにね」
「……そうだね」
絵梨香はやはり上の空で、腕を組んだまま、じっと視線を落としたままだ。
秋葉から渡された方のスマートフォンの画面をつけ、メッセージアプリを表示する。秋葉とのやりとりを映すページに切り替えて、あとは中山が厚生局の人たちを引き連れてやってくるのを待つだけだ。
秋葉の言うことに従っているとはいえ、自分の意志でこの場所に留まっていることに、不思議な高揚感を覚える。画面越しのカフェの様子は普段見ることのない角度のためか新鮮で、ここに敵——そう表現するとなおさらだ——がやってくるというのはスリリングでもある。
内省をしているうちに時間は緩やかに過ぎていて、気づけば二時半を回っていた。もういつ中山が来てもおかしくない。茜はメッセージアプリを開き、下書きをしたためる。
そこではたと絵梨香が立ち上がった。勢いに呆気に取られ、「どうしたの?」と声をかける頃には、絵梨香は事務所のドアの前に立っていた。
「ちょっと、出かけてくる」
「今から? もう中山さんとか来ちゃうよ」
「かち合わないようにするから」
絵梨香は目を合わせることなく言うと、本当にそのまま事務所を出てしまった。
厚生局の人と秋葉が邂逅する場面を見たくないのだろうか。昏倒し、一方的にこちらの思惑に引きずり込まれる姿は、それがもし自分の知る人なら目にしたくはない。身勝手を責める気持ちにはなれず、茜はひとまずモニターに視線を戻した。
相変わらず薄暗いカフェの様子が映るそれをじっと眺める。店の中の光景なのに、画面越しに見るそれはいかにも他人行儀で、知らない場所、例えばニュース映像に流れる地方の街並みや街頭ポスターの風景のように思えた。
秋葉がいないことがそう感じさせるのだろうか、と外に拡散しようとする茜の意識が、画面の端に走った光の揺れる気配に引き戻される。視線を向けると、モニターの端から手と足が出てきて、中山の姿が映し出されたところだった。中山はカメラに一瞥を向け、小さく手を振って、奥の厨房へ体を滑り込ませる。予定通り、事態は進行しているらしい。
厨房のドアが閉まるそのタイミングで、再び光が揺れる。ついに厚生局の人たちがやってきた。光と角度の加減で顔はよく見えない。揃いのつなぎを着ているようだ。背格好で、最初に入ってきたのが女性、後から入ってきたのが男性だと見当をつける。
茜はスマートフォンのロックを解除し、書いておいた文字を送信した。来ました。句点を入れても五文字の言葉。たったこれだけで、この二人は秋葉の罠にかかってしまう。
女性がフロアの中央寄り、男性がカウンター寄りに立ち、周囲を見回している。口元が動いているのが分かる。声が聞こえなくても、何を話しているのかは想像がつく。投降を呼びかけているのだろう。
顔を見合わせ、言葉を交わす様子の二人が、一斉に体を捻った。そのすぐあと、一瞬だったが窓の向こうを人影が横切るのも見えた。中山が陽動をかけたのだ。このタイミングで駆け出す人影を、見逃すはずがない。秋葉はそう言っていた。その言葉通り、男性の方がすぐさまあとを追い、店を出ていく。
女性の方は迷った様子で、足を出したり引っ込めたりして、ドアの方とカウンターを交互に見ていたが、すぐにその視線がドアの方に釘付けになった。
女性が何かを話している。秋葉が入ってきたのだろう。しばらく立ったまま話していた女性が、カウンターの椅子に腰掛けた。その後ろを秋葉が歩き、カウンターに入っていく。
秋葉と向かい合う形になった女性は、差し出された水をすぐに飲み、体をもぞもぞと揺らしていた。飲んじゃった、と思いながらひとつ息を吐いた時、ドアの開く音がした。「絵梨香、大丈夫——」と言いながら顔を上げたその先に立っていたのは、中山だった。
「ねえ、絵梨香ちゃんだっけ? あの子が走って行っちゃったんだけど」
眉間に皺を寄せて不満げに語る中山の言葉に、茜はモニターに視線を戻した。さっきの影は絵梨香だったのか? 全身の皮膚が沸騰するような熱を発し、茜は飛び上がった。そのままの勢いで中山が立つドアに迫った。横を通り抜けようとしたところで、左腕を掴まれる。
「ちょっと、あんたが出てくのはまずいって」
「分かってますけど、絵梨香を独りにはできません」
横目でじっと睨んでいるうちに、根負けしたのか、中山が手の力を緩めた。「そんな怖い顔しないでよ。……私もついていくからね」
「すいません」
「空っぽの謝罪なんていらないよ。それより、足音とか気をつけて」
手を離す中山に一瞥を向け、少しだけ頭を下げた。
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