第41話

「組織が何かをするのは、指針によれば十三時過ぎ。ただ、これは僕たちが異変に気づいて舞台に駆け寄る時間で、実際にはもう少し早い段階で始めると思っています」

「今が十一時十五分だから、あと二時間弱ですね」


「そう。ちょっと時間があるけど、少なくとも十二時までは待機ですね。その時間までは、秋葉自身も店番をしていることになってますし、周りの目もあるから指針を守るでしょう。そのあとは、学園祭を見て回る、としか書いてありませんから、監視が必要です。各校舎の屋上に、高島さんを筆頭に、警視庁からの応援部隊が配置されています」


「よくもまあ、課長が許可を出したよね」

「昨日の段階で、応援もやむなし、って話はしてましたからね。すぐに掛け合ってもらいました。統括官も動いてくれたみたいで、ついさっき、配置についたと高島さんから連絡がありましたよ。僕たちは舞台の裏手で秋葉を待ち伏せして、秋葉が舞台に上がるのを阻止します」


「俺の出番はその時ですか?」

「うん。別で合図を出すから、思いっきりやっちゃって」

 志村が後輩相手で気安い雰囲気のまま、物騒なことを言う。

「思いっきりって、やってもらうこっちが言うのも何だけど、気が引けない?」


 志村から電話で聞いたのがそれだった。実行するのは岩本、そういう段取りだということは知っていても、指針を管理運営する職員として、この判断は本当に正しいのか、自信がなかった。河田もきっと同じように逡巡したのだろうが、志村の気概に押しやられてしまったはずだ。まさに中間管理職の鑑だ。


「いいんですよ。雪辱を晴らすのに相応しいです」

「敵の裏をかくなら、このくらい思い切ったことをしないと、効果がありませんよ」

 志村の声に、頷く。不安は消えない。おそらく、これから先、今日のことを何度も思い返し、その度に後悔するのだろう。秩序を守るために秩序を犯す。この矛盾を内包したまま、自分は生きていけるのだろうか。


 秋葉たちは彼らの信念のために戦い、自分たちは指針を守るために彼らと対峙しようとしている。これまで積み上げた歴史の果てに今日という日があり、自分たちはその渦中にいる。

 十二時までの間、吾妻はじっと身を縮こませて心の声に耳を傾けていた。煩悶するだけで時間はあっという間に過ぎていく。志村が「時間ですね。移動しましょう」と言い、立ち上がる。岩本がそれに続き、吾妻も体を起こした。


「移動って、どこにいくの?」

 ラウンジを出ていく後ろ姿に問いかける。

「隣の七号館に移動します。とりあえず」

 建物名で答えるあたり、すっかり学生気分なのだろう。建物の名前も位置関係もわからない側としてはもっと明確な説明を期待していたのだが、あとをついていけばいいか、とも思う。


「七号館はここと同じで鍵は空いているので」

 岩本が付け加える。また学生の振りをするのかと思うと気恥ずかしい。素知らぬ顔で扉を抜け、来た道には戻らずにキャンパス中央を貫く通路を歩き、六号館に沿って右に曲がる。こちらも人通りは多い。店はないが、店頭の混雑を避けたい意識が別の混乱を招いているのだ。右側通行の雰囲気だが、まれに正面から人垣を掻き分けてやってくる人もいて、体をよじってどうにかスペースを捻出する。


 そうして流れに沿って移動しながら、七号館らしき建物の入り口に辿り着く。岩本が先頭に立ち、扉を開ける。最後の自分が慎重にドアを閉めると、外の騒ぎが遠のいていく。モルタルの少し煤けた壁に年代を感じる。間引かれた薄明かりにぼんやりと浮かぶ景色は、学び舎というよりは廃病院といった趣だ。廊下の端に位置するそこには、すぐ傍に階段があった。


「地下に降ります」

 今度は志村が先立って降りていく。古い建物に地下があるのは意外だったが、それ以上にそこに入り込むことに驚く。

「地下に行って、それからどうするの?」


「三号館に向かいます。あの舞台、ちょうど三号館の入り口前にあるんです」

「地下で繋がってるの?」

「都心の駅みたいですよね。冬とか便利ですよ。いちいち外に出なくてもいいので」

 階段に反響する声が弾んでいる。


「俺はあんまり使わないですね。外歩いた方が絶対に早いし」

「一長一短、いや、どっちでもいいよ」

 相反する二人の意見に嘆息で返すうちに、地下の廊下に出た。殺風景なのは上の階と同じだが、左側、上では扉のあったところは確かに廊下が続いていた。


「左側に行けば三号館です。地上は組織の監視があるかもしれませんからね。こっちから回ります」

 地下の廊下は地上よりもさらに静かだった。自分たちの立てる声と足音だけがモルタルの壁に鈍く響く。廊下の左右には書庫や資料室が並び、慇懃な空気を醸していた。


「こういうところは人目を避けるには都合がいいです。普段でさえ誰も来ませんからね」

「ここを通ると、『あゆみ』の愚痴とか言い合いしてる人を見ますよ」

「そうなんだ」

「課長が聞いたら卒倒しそうですけどね。通り一辺倒の統制はどこかで歪みが発生します。こういう小さなオアシスがあるおかげで、重大な違反行為が未然に防がれている面もあるんだと思います」


「あの人には、そういうのがなかったのかな」

「どうでしょうね。真面目な人ほど追い詰められると突飛な行動をとる、っていうのもあるかもしれませんけど……。自分の考えが通らないからって世間を敵視しても何も変わりませんよ」

 吾妻の独り言に、志村が諭すようなことを言う。


「その秋葉って人、本当は何を考えているでしょうね」

 岩本が言い、吾妻に視線を向けた。

「本当はって、何か別の目的があるってこと?」

「いえ、確信があるわけじゃないんですけど……。勝てる試合かどうか、そのくらいわかりそうじゃないですか。今日だって、わざわざこの場所に先輩たちが来るように仕向けて、何をするかわからないまでも、捕まる可能性があることくらい想像つくと思うんですよね」


「それは……」

 頭の中にある何かを指そうとして、それがどこにもないことに気づく。端から溢れ瓦解していく感覚だけがこめかみに疼痛を走らせた。

「捕まえて、本人の口から話してもらうしかないかもな」

「探偵失格ですね」

「しがない公務員には過ぎた事態なのかもしれない」


 志村の感慨は、少しわかる気がする。廊下の突き当たり、左を向けば地上へと連なる階段があった。今は、ここを登る以外にできることはない。確かに、できることは少ない。一段登るごとに込み上げる緊張が、吾妻の視野を狭窄させる。代わりに、頭の中のイメージが現実と置き換わっていく。舞台裏に立つ自分、近づいてくる秋葉、険しい顔を向ける志村。何事が話し、悲しく笑う秋葉が、赤く染まっていく——。

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