第31話
「少量をパック詰めしているなら衛生的だね。こういう苦労が成功の第一歩だよ」
メニュー班の表情がその一言で晴れやかなものになる。
「さて、それじゃあコーヒー淹れてみようか」秋葉は続けてそう言うと、ミルで挽かれたコーヒー豆を覗き込んだ。
「粒度はちょうどいいね」
満足そうな声に、周りの空気が和らぎ、そのままコーヒーの淹れ方講座が始まる。上原や辰巳も手近な椅子に座り、秋葉の手元を食い入るように見つめる形になり、絵梨香と茜は、目配せをしてからゆっくりと机を離れた。
次のやりとりまでの数十秒間が、『あゆみ』に時折登場する遊びの時間だった。素早く周りに目を配る。みんな自分の作業に集中している様子で、こちらの動きを気にする素振りはなかった。小さな声で、絵梨香が話し始める。
「今日の台詞、書いたの絶対秋葉さんだよね。私のパーソナリティどうなってるわけ?」
「あんまり知らないんだから、しょうがないんじゃない? わざとってことはないと思うけど」
「でも、上原も真琴も麻央ちゃんも普段に近かったし、私だけあんなんだよ」
「大丈夫だって、悪意があるわけじゃないと思うよ。これ以上人気者になったら困るでしょ?」
宥めるつもりが、つい余計なことを言ってしまう。案の定、はっとした顔をした絵梨香がむくれる。
「私、絶対そんなこと言わない」
「分かったってば。それより、このあとだよ、よく分かんないのは」
「うん。でも、行くしかないんでしょ? あの人の指示ってことなんだから」
このあと、茜は「忘れ物がある」という理由でこの部屋を抜け出し、ダンスルームに向かうことになっていた。しかも、そこから先は「自由時間」とだけ書かれ、一ページ分の白紙のあと、またこの部屋に戻る、とあった。
勝手にしろ、というのが一番困る。久しぶりの『あゆみ』にどこか郷愁めいたものを感じていた茜は、迫り来る現実に不安感を増していた。
「不安でも前に進むしかない、そんなことを秋葉さん言ってたよね」
もう少しで「遊び」も終わりだ。
「うん」
小声でのやりとりを済ませ、秋葉の近くに歩み寄る。ドリッパーにお湯が注がれ、甘く広がるコーヒーの香りが鼻腔をくすぐる。もっとこの香りの中にいたい、と思う。できることなら、不安は回避したい。秋葉の話に共感しても、それを体現する覚悟は、なかなか持てない。
「秋葉さん、向こうの部屋に忘れ物しちゃったので、取りに行ってきます」
「うん」
笑顔で秋葉に送り出され、存在しない忘れ物を取りに、絵梨香と連れ立って廊下に出た。
「私も一緒っていうのがね、どうも釈然としない」
ドアの前で、絵梨香がぼそりと言う。茜は苦笑いをして一つ息を吐き、ドアを開けた。
誰もいない、そう思っていた。でも、確かに大会議室に入ってから、沙織の姿を見ていなかったことに、その彼女の姿を見て思い至った。正確には、その声を聞いて、そう思った。
カーテンの掛かった壁を背に、沙織は澄んだ声を出していた。胸に手を当て、それこそ心の底から最後のひとひらを絞り出すように、伸びやかな声に言葉を乗せ、朗々と旋律を奏でていた。
言葉が音楽になって、体を突き抜けていく。楽器の演奏とは何かが違う。オーケストラや吹奏楽の楽器は、音色の違いはあってもそれは音階をなぞる旋律という意味では同じだ。これは一体何なのだろう。かといってただ台詞を聞いているのとも違う。
茜の視線に気づいてもなお、沙織は声を出すのをやめなかった。旋律に合わせ、胸から掌を離し、腕を伸ばして足を踏み出す。顎を上げ、空を見るように目を細める。天に想いを届ける、そんな意思さえ感じる。
自分のようにはならないで、と声を出す沙織は、伸ばした腕を胸元に戻し、祈りを捧げる仕草をする。一際高い声に、全身の毛穴が開くようなむず痒さを感じ、けれどその不快感以上の感情が体の芯から溢れてきた。
気づけば涙が流れていた。鼻の奥がじんわり熱を帯びている。胸の中に沙織の言葉が充満し、それが濁流となって茜の涙腺を押し広げているようだった。
ダンスホールに広がる声が余韻を残す中、沙織が深々と礼をした。鼻をすすりながら拍手をする。悲しみや不安以外で涙を流したのは、思えば初めてだった。隣に立つ絵梨香も似たような表情で、マスカラが少々崩れている。
「ご清聴ありがとうございました。って結構恥ずかしいですね」
「今のは、一体なんなの?」
「これも物語と同じく、失われたもののひとつですよ。歌って言うんです」
「うた……」と茜は知らず声を漏らした。その語感を口の中で味わう。
「うた、言葉に合わせて声に音程をつけて、メロディーに沿って、歌うんです」
「歌を歌う、ってわけ?」
「ちょっとおかしいですよね」
「もしかして、あの時も歌ってたの?」
「あの時って、いつですか?」
「結構心当たりがあるんだ? 私、一度見たことがあるの。夜に駅の近くのカフェから、通りを歩く沙織ちゃんを……。思い返してみると、そういえば口を開けたり閉じたり、あの時は何か喋ってるんだと思ってたけど」
合点がいったのか、沙織は何度か頷いた。
「あの時は、ちょっと口づさんでました。練習する場所もないし、サイレンが鳴る時くらいしか自由に歌えないんです」
はにかむ沙織の声音が茜の耳朶を打つ。その意味するところに、頭の芯が熱くなる。
「皮肉な感じがする」
絵梨香の感じ方とは違う、この違和感は、けれど確かめるしかない。
「サイレンが鳴ること、それを知ってるの?」
「知ってるっていうか、そうですね。お兄、兄に……」
サイレンが鳴ることを、上原は知っている。それは、上原も『劇団』の構成員ということだ。そしてそれを知るこの娘も——。
「待って、ってことは、二人とも『劇団』の人ってこと?」
茜の疑問を絵梨香が口に出した。『劇団』と呼ばれる組織は、高校生にまでその触手を伸ばしているということだ。秋葉の思惑はどこまで広がっているのだろう。想像することさえ恐ろしく思え、茜は間違いであってほしい、と願った。けれど、悪びれる様子もなく首を縦に振る沙織に、淡い期待はすぐに瓦解した。
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