第8話

 サイレンの音が聞こえたような気がして、茜は一瞬身構えた。けれど、前に座る絵梨香はグラスに手を伸ばす動作を続け、秋葉もすくっと立ち上がったところで、どうやら気のせいだと気づく。心が騒ぎ、鬼胎に蝕まれた胸の奥が痛みさえ訴えているようで、隣に秋葉が来ても、すぐに反応できなかった。


「……そういえば、さっき学園祭の話をしてた?」

 少しだけ間を置いて、秋葉が絵梨香に話しかけた。茜は遅れてゆっくりと左に体をずらし、いよいよ強く脈打つ心臓の鼓動を耳元で感じながら、それでも平静を装うのに必死になった。


「毎年ですけど、この時期は出店のコンセプトで揉めるんです。なかなかいいアイディアが出なくて、みんなイライラしちゃって」

「それは大変」

 秋葉が茜の言い方を真似、絵梨香がそれに「思ってませんよね」と返す。普段なら微笑ましく思うやりとりも、あまり耳に入ってこない。秋葉と絵梨香の前だから、このくらいで済んでいるのだと自分に言い聞かせる。危ない。秋葉にも絵梨香にも、いつも助けられてばかりだ。


 バーコードのことは、もう忘れよう。家に帰ったらきっと、また思い出すだろうが、今は忘れよう。忘れよう、今に集中しなければいけない。

「そんなことないよ。僕もね、実は色々と考えているんだけど、目玉になる企画が思いつかなくてね」

「だったら、コラボっていうか、一緒にやってみるっていうのはどうですか?」

 茜は、精一杯の虚勢で不安を封殺し、明るい声を出した。

「一緒にって、八幡さんのサークルと共同で店を出すってこと?」


「そうです。お店は、学生と直に触れることで更なる知名度アップ、絵梨香のサークルは、カフェのノウハウを吸収するチャンスだし、何より秋葉さんを戦力にできる」

「それは、私たちは願ったり叶ったりだけど……」

 絵梨香が当惑の視線を秋葉に送る。

「茜ちゃんは、時々とんでもないことを言うよね」秋葉がじっと腕を組み、考える素振りをしたが、それも僅かな時間だった。すぐに相好を崩し、茜と絵梨香を交互に見ながら、「でも、面白そうだし、やってみるか」と言った。


「いいんですか?」

「カフェの店主としてただ店を開くよりも、君たちに混じった方が刺激になりそうだ。茜ちゃんの言うことは的を射ていると思うし、僕自身もやってみたい。サークルの代表の人と一度話をしてみるだけでも、何かが変わるかもしれないね」

 秋葉はうんうんと頷くと、カウンター下の小物入れから名刺を取り出し、連絡先を書き込んでいるようだった。


「店の番号と、僕の個人の携帯番号。みんなと相談して、興味があれば連絡をくれると嬉しい」

「分かりました。幹事長に伝えます。なんか、すごいことになりそうですね」

「どうかな、口うるさいのが二人増えるだけかもしれないよ」

「二人って、私もですか?」

「言い出しっぺが外野なんてそれこそ面白くないでしょ。違う環境で育まれた常識同士がぶつかって、そうして新しい価値が生まれるんだ」

 秋葉が諭すように言う。


「そっか、そうですよね。でも、ちゃんとできるかな」

「大丈夫。うちの幹事長が何て言うか次第のところはあるけど、やるとなったら一緒に頑張ろ」

「絵梨香がそこまで言うなら、やってみようかな」

「いいね。実現したら、きっと楽しい」


 会話はそこで一旦途切れる。茜は脇のあたりにじんわりと湿気を感じた。すでに引きつつある冷や汗は、改めて、この不安定な日常のあり様を茜に示した。

 何をしていても、油断してはいけない。小さい頃から明に暗に教えられてきた生きる術は、こういう事態を引き起こさないためのものだ。それなのに、危うく秋葉の接近に気づかず、会話の契機を潰してしまうところだった。


 秋葉がうんうんと頷きながら元いたカウンター脇の椅子に戻ると、茜は再び絵梨香と向き合った。

「サークルもだけどさ、明日は面談? みたいなのがあるんだ」

 名刺を財布にしまいながら、絵梨香が言った。

「何それ?」

「神田先生が、授業で書いたレポートのことで何か話があるみたいで」

「神田先生の逆鱗にでも触れたわけ?」


 神田といえば、茜も知っている。三十代にして西洋史コースの准教授で、ゼミの人気も高いらしい。歴史を土台にいくつか本も出していて、茜も読んだことがあった。

 ゼミならまだしも、授業のレポート程度で呼び出しとは、余程内容がよかったか教育的に看過できないかのどちらかで、絵梨香の場合、間違いなく後者だ。

「そんなことないと思うんだけど。憂鬱だ」

「ユー、鬱」


「そんなこと言ってると、いつか後ろから刺されるかもよ」

「犯人は大学の同級生だ」

「証拠は残してないはずなのに」

 冗談の言い合いは、不安を少しだけ和らげる。お互いに自然と表情が緩み、「私、もう死んでるの?」と茜が物騒なことを言っても、絵梨香の笑顔は変わらなかった。

「茜の屍は私が越えるから」行き場のないやりとりはそうして終息し、また話題が変わる。それもいつものことだ。「そういえば、明後日は大丈夫?」

「うん。パフェ楽しみ」


 新宿御苑にほど近い雑居ビルに美味しいスイーツ屋があるから行こうと、絵梨香に誘われていた。絵梨香と出かけるのは久しぶりだった。

「それな。人気だからさ、予約しとかないと」

「買い物もしたいし」

「秋物?」

「ううん。コスメ」

「新色でも出た?」

「現場百間だよ」

「見てから考えるってこと?」

「そうそう」


 自分の容姿に自信はなくても、おしゃれをしたい気持ちはある。雑誌を見て研究するほど熱心ではなくても、たまには店で今のトレンドを見てみたい。あやふやな虚栄心は、絵梨香からすれば中途半端な軽口と思われているかもしれない。

「じゃあ帰りに寄ってみよ」

「うん」

 絵梨香がカップに手を添え、ストローをくわえるのを見ながら、茜は思った。茜の心持ちに寄り添ってくれる絵梨香を、大切にしたい。けれど、こういう時に限って、それを伝える言葉を茜は持ち合わせていないのだった。

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