第3話

 最後の客を送り出し、二十一時に今日の営業は終わった。片付けや明日の準備をして、「じゃあ、明日もよろしくね」と秋葉に言われれば一日の仕事は終了だ。

「お疲れ様でした」

 茜は控え室で着替え、まだ仕事を残す秋葉に声をかけ、店を出た。


 路地の暗がりに街灯が浮かんでいる。光に羽虫や蛾が群がり、チラチラと視界を揺らした。光に集まる虫は、月明かりを目指して飛んでいるらしい。月ならまっすぐ飛んでも方角は変わらないが、電灯ではそうもいかない。動けば光源までの角度も変化し、月を目指している虫たちは月が移動したと思い込み、灯りの周りを旋回するのだ。


 まやかしの果てを求めて飛ぶ哀れな虫たち。本能の赴くままに飛び回るがゆえ、人の文明に翻弄され、素直に生きることさえ困難な運命を背負ってしまった。その時はどうしてか、それが自分の姿に重なった。現実に諦念を抱いているわけではない。それにはまだ早すぎる。砂浜に書いた文字が波に洗われるように、心の中に芽生えた一種の虚無感はすぐに跡形もなく消える。


 世界は常に茜の思惑とは無関係に時を刻み、明日を与え続ける。今日とほとんど変わらない明日が、もうじきやってくる。そうやって無意識との狭間で茜が煩悶していても、歩みは止められない。眼前の視界が開け、駅へと続く幹線道路に出た。

 ビルの谷間を吹く風が秋を連れてくる。すっかり涼しさを感じられるようになった空気に、思考で熱くなった頭が冷やされていく。内側に向けられていた意識を外に向け、歩道を行き交う人の流れに自身を馴染ませる。


 大学はまだ始まっていないというのに、街は学生で溢れていた。決して真面目に勉強をしてきたわけではない茜であっても、そうした喧騒や人いきれは苦手だった。駅前のロータリーにたむろしているのは、目的も目標もなく衝動的に刹那的に生きる学生だ、と茜は嫌悪感を抱いた。


 そんな学生たちでごった返す駅舎に入る気になれない茜は、ロータリーの手前で左に曲がり、駅ビルの向かいの歩道を歩いた。すうっと雑踏が遠のき、茜の足元を街灯が照らす。片側一車線の道路は車の往来もまばらで、左右の商店もとばりを降ろしていた。登り坂になっている通りをしばらく歩くと、道路を挟んで反対の歩道にぽっかりと光が差し込む場所があった。


 茜はその光に吸い込まれるように足を早めた。そこは最近、茜が足しげく通っているカフェだった。シアトル系のチェーン店といった趣の看板を掲げているが、深夜まで営業していて、その落ち着いた雰囲気が気に入っていた。茜は店の前に敷かれた横断歩道を渡ってドアを押し開き、カウンターでカフェラテを注文した。


 カップを受け取り、窓際の空いている席に腰掛ける。リーフ模様のラテアートが施されたカップを傾け、湯気と一緒にスチームミルクを口に含む。じんわりとした温かさが口腔に広がり、僅かに流れ込んだエスプレッソの苦味が遅れて舌の上を駆け抜けていく。


 二十二時になろうとしている時間をスマートフォンの画面に確かめ、茜はほうと息を吐いた。大学が夏休みに入った頃から、アルバイトの終わりにこの店に立ち寄るのが日課になっていた。赤ら顔の学生と同じ電車に乗り合わせるくらいなら、多少帰宅時間が遅くなっても座って帰れる終電間際の方がよかった。遅く帰ればそれだけ部屋のエアコン代が浮くという打算も働いていた。冷房の効いた店でホットドリンクを飲むという背徳感も手伝い、すっかりルーティン化したこの二時間弱の時間が、今は愛おしかった。


 独りになる時間は貴重だ。学生であっても完全に社会から切り離されているわけではない。アルバイトの最中は当然として、大学に行けば友人たちと適切な距離感で行動する必要があったし、行き帰りの電車でも、乗客という役割に徹しなければいけない。何もせず、ただ穏やかに過ぎていく時間が、茜には何よりの贅沢だった。

 ぼんやりと窓の外を眺めていた瞳の端に小さな違和感を覚えたのは、席について三十分ほど経った頃だった。最初は、それが何か分からなかった。それこそ、街灯と車のヘッドライトが茜に錯覚を見せているのだと誤解したくらいだ。しかし、それにしては動きが緩慢で、左右に揺れながら近づいてくるそれが人だと認識された瞬間、茜は目を逸らすことができなくなった。


 純白のワンピースを纏った少女がそこにいた。まるで絹糸のように繊細な黒髪が秋風に揺れている。頭髪の乱れを気にする素振りはなく、目を伏せ、やや俯き加減で歩く様子が茜の網膜に焼きつく。何も考えられず、茜はその姿をただ見つめた。カフェに面した歩道、その右側からゆっくりと降りてくる少女の姿が少しずつ大きくなり、顔の輪郭が次第にはっきりしてくる。笑っているのか泣いているのか、その表情から感情を読み取ることはできなかったが、口元が絶えず動いているのは見てとれた。


 そしてまた、サイレンが鳴る。またかと思ったのも束の間、頭の奥にまで響く音に瞼を閉じる。息さえも漏らさないようにじっと気配を消す。そうしてしばらくしてから顔を上げると、もう少女はいなかった。窓に顔を近づけ、道路を覗き込んだ。街灯が不安げに夜道を照らしているだけで、常闇の向こうまでは見通すことができなかった。

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