第6話:熾火(おきび)の祭祀場・下
階段を下り、先程の篝火まで戻って来た。
盾を背負いつつ、腕には先程の男性が貸してくれた布を抱えたままアルトは物陰でそっと様子を窺っている。
緊張しているのか、若干挙動がぎこちない。
―大丈夫だよ、ほら深呼吸深呼吸。
そう言うと、彼は目を瞑って深呼吸を始める。
そんなアルトの上で、私は篝火の付近に座っている火守の巫女を名乗った女性を眺めた。
目元は布と蝋で完全に隠れているが、面立ちは整っている。露出は全くない服装だが、身体のラインはかなり際どく出ていた。
これは…私でも対面で会話するのはちょっと躊躇うかもしれない。それぐらいの美しさを彼女は秘めていた。
この世界の女性が普段どんな格好をするかは私には分からないが、ヨーロッパ中世辺りを参考にするならばかなり蠱惑的な服装かもしれない。
「…ル、ルクス。ルクス」
小声で囁かれ、意識をアルトに戻した。声が頼りない。顔を覗くともっと頼りない顔をしていた。
―落ち着いた?
「お、落ち着きはしたんだが…その…、巫女様に礼を述べるとして、だけど」
―うん。
「ど、どう切り出せば良いんだろうか…」
そう来るかぁ。まぁ、会話が本当に苦手なのだから仕方が無いのだろうが。
―そ、そうだなぁ…あの、とかから始めて名前を呼ぶとかで切り出したらどうかな。
「な、成程…いや、それもそうか。名前を呼んで話を切り出すのが普通だよな…」
何で忘れていたんだろう、と素で呟いている。
―君の場合、暫くあの牢獄に居たんだろう? 人に会わなさ過ぎて、対話の方法が分からなくなってるんじゃないかな。
「…確かに2、3年は経っているかもしれない。オスカーと俺は、本来同い年の筈なんだけど…年上になってたな」
―えっ…そうなのか。ひょっとして不死になると歳を取らなくなるのかな。
「取らない訳じゃないのだろうが…肉体年齢の流れが遅くなるのかもしれない」
そんなちょっとした会話をしていたら、漸く緊張がほぐれて来たらしい。
もう一度深呼吸をすると、よし、とアルトは小さく呟いた。
恐る恐るの体で巫女の方へと歩み寄る。
彼の足音に気付いてか、彼女はふと此方へと顔を向けた。そして、ふと笑みを浮かべる。
少しアルトが怯んだ気配がしたものの、彼は足を止めなかった。
目の前までやって来たのを感じたのか、彼女も立ち上がる。
「…あ、の。ひ、火守の巫女、様」
「はい、何でしょうか」
すこしどもってはいたが、言葉にはなっていた。
名を呼ばれた彼女は、首を傾げる。
緊張しているのかアルトの顔は真っ赤になっていた。肌が白い所為か、顔に血が昇るとかなり目立つ。
「先程は、ありがごうございました。…お、お陰で、元の姿に戻れたよう、です」
「それは…お役に立てたようで何よりです、巡礼様」
そう返すと、巫女は丁寧なお辞儀をした。釣られてかアルトもお辞儀する。
「改めて、ようこそお越し下さいました。火の巡礼様、私は火守の巫女と申します」
「は、はい。ええと俺…あぁい、いや私は、アルト、です」
「アルト様ですね、宜しくお願いします」
漸く言えたい事を言えたからか、アルトは安堵の息を吐いた。
そんな彼を不思議そうに巫女は見詰めていたが、再度口を開く。
「アルト様。巡礼のやり方は、外の国でお聞きになられていますか?」
「やり方…いいえ。こ、小人の国には、巡礼に関する詳しい文献は…残っていません」
アルトはふるふると頭を振った。一言目が一番緊張したのだろう、徐々に呂律は滑らかになってきている。
彼女の雰囲気が柔らかいから話しやすいのかもしれない。
「そうなのですね…。ご案内いたします、ついて来て頂けますか?」
「わ、分かりました」
頷く彼を連れ立って、巫女はまず中央の篝火へとやって来た。
「不死の篝火について、まずはお話ししましょう」
「はい」
大人しくアルトは頷いている。その瞳には緊張から少し解放された為か、好奇心らしきものが浮かんでいた。
「この篝火は、かつての不死の英雄様がたの骨をくべております。後進の為に残された不死の楔です」
「楔…それは、少しだけ耳にしました。不死となった者は、呪いと共に篝火に縛られると」
篝火は一定の強さのまま、揺らぐ事なく燃え続けている。その火は穏やかでありながら、明るい。
「はい。…アルト様、何処かお怪我をなさっていませんか」
「怪我…あ、そ、そう言えば…」
アルトはそっと自分の肋骨の辺りに触れた。確か、牢獄の辺りで大きな球に轢かれていなかっただろうか。
その際に肋骨が折れたと言っていたような…。
―アルト、もしかして怪我は治っていないのかい。
そう尋ねると、心中で自信なさげな返答が来た。
『痛みは聖杯瓶で回復したから消えていたんだが…骨の具合はそのままかもしれない』
そうだったのか。平気そうにしていたから完全に治ったと思っていたのだが…もしや聖杯瓶では怪我そのものは治らないのだろうか。
「聖杯瓶で、回復はしましたが…怪我はそのままかもしれません」
「そうなのですね…。篝火は不死を縛る楔であると同時に、肉体の損傷を戻す業を宿しています。火にお触れ下さい」
そう告げられ、アルトは恐る恐る篝火へと手を伸ばす。
すると――篝火は一際大きく燃え上がった。
驚いて固まった彼の手に吸い付くように火が伸び…火の粉が舞うとまた大人しくなる。
困惑した様に手を見ている彼に、巫女はどうですかと尋ねて来た。
「あ、は、はい。…確かに、怪我は治った、気が…します」
「それは何よりです。…聖杯瓶をお持ちならば、使った分も篝火で回復が出来ます。ご活用下さいませ」
「聖杯瓶も、ですか。凄いな…分かりました」
本当に、篝火は不死にとっては無くてはならない物らしい。怪我の状態も戻せて、一時的に回復を促せる聖杯瓶も中身を補充出来るとは。
都合が良いぐらい便利だなぁとは思ったが…これも、かつての英雄達が積み重ねてくれた成果なのかもしれない。
続けて彼女は篝火を囲む祭壇の1つへとアルトを誘導する。
「此方は、旅立つ際に利用するものです。別の役割もありますが…それは、後々お話ししましょう」
「これが…です、か?」
「はい。祭壇の裏側をご覧頂けますか」
祭壇の裏側をアルトと一緒に覗くと、碑文らしきものが刻んである。それは、弱々しいながらも青い光を発していた。
―読めるかい?
『…これ、多分ロンブラントで使われている古い文字だ。俺では僅かにしか読めないが…』
そう難しい顔をしているアルトの横で、彼女はその文字を読み上げてくれた。
「白き地、ローンウィルとあります。これは、克てのロンブラントの王…彼等の治めていた地へと転送を行う石碑でもあるのです」
「ローンウィルへ…では、王の地は5つあるのですか」
そうアルトが訊き返すと、彼女は頷く。
「はい。克てこの国を治めていた王は、時代は違えど5人です。その地へと赴き、遺された火種を此方へと持ち帰る…それが、火の巡礼様の使命となります」
「成程…」
王の地を巡って目的のものを回収する。だから巡礼なのか。
「ただ、お気を付け下さいませ。火種を扱うにはそれ相応の力が必要になります。それぞれの地には、巡礼様を試す為の門番が置かれているでしょう」
「それは…試練なのですね」
それに対し巫女は頷き、アルトに向き直った。
「はい。…ですが、そのまま送り出す事は致しません。私には、貴方様をお助けする業が御座います」
「業…ですか」
「巡礼様、ソールをお持ちですね? それも、肉体を動かすのに必要なソールより、多めにお持ち頂いているかと」
「確かに…余らせては、いる、のかな?」
アルトは自信無さそうであった。
外の国ではソールが可視化される方が珍しいと言っていたので、普段可視化されないものを大量に持っている感覚が判らないのかもしれない。
「私は肉体の内側に溢れるソールを拝借して、貴方様の力へと変える事が出来ます」
「ソールを、ですか…」
―ほー。能力を強化するみたいなものかもね。
『た、多分…? 祈祷等で一時的な肉体の強化は出来る筈だが…それを永久的に施せるのかな』
RPGゲームで例えるとレベルアップみたいなものをソールでする、みたいなものなのか。
「巡礼に向かわれる前に、私にお声掛け下さいませ。私は、巡礼様の為にここに居ます。…貴方様の力に、なりたいのです」
「あ…ありがとう、ございます」
戸惑っているアルトは照れているのかちょっと頬が赤かった。迫害されていたのなら、碌に善意や好意を向けられてもいないだろう。
「――私からの説明は以上になります。気になる事があれば、またお尋ねを」
彼女とアルトは再び篝火の近くへと戻って来た。
「はい。…あの、1つ訊いても良いでしょうか」
「どうぞ」
アルトは抱えっぱなしだった布を見ている。
「その、禊ぎの時に…男の人から身体を拭く物を頂いたんです。その方にお礼を言いたいのですが…」
「それは…トマス様でしょうか。でしたら、あちらに居られます」
そう言って彼女は別の方向を指差した。広い通路の様になっており、そちらには何名か人影がある。
「この祭祀場には、巡礼様をお助けする方が他にもいらっしゃいます。是非お話をお聞きになられて下さい」
「は、はい。お世話になりました…また後で、伺います」
「えぇ。お待ちしております」
アルトは一礼すると、彼女の傍を離れた。
少し離れた位置で立ち止まった彼は、ほうと大きく息を吐く。
―大丈夫かい。
『だ、大丈夫…ちゃんと、話せて良かった』
―うん、話せてたね。偉いよ。
『え、偉いかな…? 普通の人は会話なんて簡単、じゃないかい』
―そうでもないさ。本来、対話ってかなり難しいんだ。ちゃんと出来たんだから、自分を褒めても良いと思うよ。
『そうかな…』
―そうさ。偉いよ。
そう返すと、彼はまた黙ったまま顔を赤くしてしまった。
成人男性に対する感想ではないが…こう言う所に何だか可愛さを感じる。女々しいと言うか、初々しいのだ。反応が。
―ふふ。さ、まだまだ話さないといけないだろう。
からかい調子でそう告げると、アルトはハッとした顔になった。
『そ、そうだった。が、頑張らないと』
―言葉に詰まったら、助けるよ。
「…ありがとう」
最後の科白だけ、彼は小さく声に出していた。やっぱりアルトは誠実だ。
火守の巫女が指し示していた方向へ進んで直ぐに、別の人物に先に遭遇した。
3m離れた辺りで立ち止まり、アルトは様子を窺っている。
『あれは…人?』
最初は赤い襤褸布の塊が椅子に乗っているのかと思っていた。しかしよく見れば人の形をしている。
―人…だねぇ。
どうやら、赤い襤褸布の衣装を身に纏った老人であるらしい。体型から察するに女性だろうか。
『寝てるのなら…起こしたら拙いかなぁ』
アルトはひとまず横をそっと通過しようとしていたが…不意に老婆が顔を上げた。
「わっ…?! あっ…も、申し訳ない」
飛び上がって慌てて謝るアルトを気にする事も無く、老婆は首を傾げる。
「おや…そこにいらっしゃるのは、もしや火の巡礼様ですかな?」
「は、はい」
驚きから立ち直れていないのか目が泳いでいる。
老婆の瞳は白く濁っていた。恐らく、目は視えていないのだろう。
「懐かしい気配が致しました故に。…ようこそ、祭祀場へ。儂は灰読みの侍女ですじゃ」
「灰読み…?」
「えぇ。このロンブラントでは”完全に”死ぬと皆、灰となります。婆めはその灰から物語を読み取って、貴方様に貴重な用品を調達する役割を仰せつかっておりまする」
「…では、こちらに遺灰を持ってくると良いので、しょうか?」
「はい」
そう言うと、灰読みの侍女はにっこりと笑った。
「儂は語り部です。この国の物語を、灰を用いて貴方にお伝えいたしましょう。…そこから、貴方のお役に立つ様なものも生まれましょうぞ」
「わ、分かりました。遺灰を手に入れたら、持って来ます」
若干概念的な話になっていたが、一応アルトは納得したらしい。
ではまた、と侍女は言うと下を向いて動かなくなった。眠っているのかじっとしているだけなのか、こちらからは察せれない。
『び、びっくりした…』
―びっくりしたねぇ…。
胸の辺りにそっと手を添えている。ただまぁ、いきなりとは言えちゃんと会話は成り立っていたので安心した。
気を取り直し、先に進む。奥の突き当りで何かをやっている人影が見えた。薄暗いので若干見え辛いが…あれは…。
―あれは、鍛冶仕事をしてる、のかな…。
『多分そうかな…うん、直剣を研いでるね』
筋骨隆々とした半裸の男性が、砥石を使って直剣の手入れをしているらしい。蓬髪も長い髭も白い。50代ぐらいだろうか。
こちらに歩み寄って来る人影を確認し、男性が顔を上げた。
「お…あんたもしや、新しい火の巡礼さんかい」
アルトが頷くと、男はにっかりと破顔する。
「はは、長らくここにゃあ巡礼が来なかったんだが…こりゃぁめでてぇなぁ。俺はギャラハー、ただの鍛冶師だ」
「ギャラハー様、ですね。えぇと、俺はアルトと申します」
伸ばされた手と握手しながらぎくしゃくしている彼を、ギャラハーは豪快に笑い飛ばした。
「様ぁ要らねえよ、ギャラハーで良いさ。俺は巡礼に使える側だからな」
そう言ってどんどんと背中を叩かれ、アルトは目を白黒している。勢いについていけていない。
しかしギャラハーが気持ちの良い性格をしているからか、怯えている様子は無かった。
「す、すみません。お、私はその、元は侍従だったので…」
「あぁ成程、あんたも仕える側だったんだな。ま、慣れてくれ」
そう言うと、彼はアルトが腰に佩いている直剣に視線を向ける。
「それで早速だがあんたの得物、ちょいと預かっておこうか。見るからに随分と古そうだが」
「あ、そ、そうです、ね。ええと、武器の方は拾い物、なんですが…」
佩いていた直剣と、背負っていた盾をギャラハーに渡す。すると、盾の方を見た彼が驚いた様な表情を見せた。
「おいおい、この盾ぁどうしたんだ? かなり珍しいもんだな…変わった戦技まで付いているじゃないか」
1匹の狼と月を意匠にした青い盾である。確か、亡くなったオスカーが本来の持ち主だった筈だ。
しかし戦技とは何だろうか。何となく語感から理解は出来そうだが…一応後で聞いておこう。
「これは…友の遺品です。彼が、魔術学院を卒業した際に学長から賜った物なんですが…」
「成程なぁ…元の持ち主の奴も、かなり大事に使ってたんだな。しっかり手入れされている…よし、任せな。剣は研ぎ直して、盾は綺麗にしてやるとも」
「ありがとうございます。あ、あの、ギャラハーさん」
直ぐに作業に取り掛かろうとしたギャラハーを、アルトは引き留めた。何だいと片眉を上げた彼に、抱えていた布を見せる。
「この布を貸してくれた人を探しているんですが…トマスと言う名前だと聞きました」
「あぁ、それならあっちに居るぞ。一番荷物が多いから、奥の方で何やかんややってるのさ」
ギャラハーが指差した方向をアルトと一緒に見る。右側の、曲がり角の奥の方だった。
礼を述べ、そこを離れる。後程装備を返却してくれるだろう。
言われた通りに奥に進むと、ようやく件の人物に再会できた。
『あ、さっきの人…かな』
何やら大量の荷物に囲まれて、帳簿らしきものを記している最中だった。
足音に気付いた彼がこちらを向く。アルトの姿を確認し、笑いかけてくれた。
「やぁ、巡礼様。調子はどうかね」
「あ、お、お陰、様で。何とかいつもの姿には、なれました」
それは良かったと男性はにこにことしている。
「俺はトマス、道具屋のトマスだ。旅に出るのならうちで是非買い物をしていって下さいな」
「道具屋さん…ですか。あ、でも…私は今、持ち合わせが…」
困った顔をするアルトに、トマスははてと不思議そうな顔をする。
「おや、ソールはお持ちじゃないのかい」
「ソール…? も、もしや貨幣での取引ではないのですか」
「ん? あぁそうか、外の国では売り買いは貨幣で行っているんだったな、すまないすまない」
がしがしとトマスは申し訳なさそうに頭を掻いている。
「ロンブラントでは、ソールで取引をするのさ。貨幣はあっても意味がない、精々目立つ道標くらいにはなるだろうが…」
「ソールで取引を…そうなのですね」
何と、ロンブラントでは貨幣はあっても買い物には使えないらしい。
ただ、ソールで取引とは…一体全体どうやるのだろうか。
「まずはやり方を教えようか。これを見て欲しい」
そう言って、トマスは小瓶らしきものをアルトに渡してきた。何の変哲も無い透明な瓶だったが、文字らしきものがうっすらと刻まれている。文字の外観は、篝火の周辺に在った祭壇に刻まれていたものと似ていた。
「これは…?」
「こいつは”計量のソール瓶”って奴だ。これは、強く握るとその中にソールが流れ込む仕組みなんだ。ロンブラントでは商人全員がこれを持っている」
続いてトマスは持っていた帳簿を見せた。
「そんで、こいつに品揃えや値段が書かれているの、分かるかい?」
「あ、はい。この文字は…外の国のものと、同じなんですね」
「そうだね。ロンブラントでは俺みたいな小人も暮らしている。だから、神人の作った古い文字と、外の国と同じ共通の文字と二種類使われているのさ」
こっちは俺達小人用の帳簿さ、とトマスはそれをひらひらと揺らした。
「帳簿と小瓶は繋がっていてね、取引が成立したら帳簿にチェックを入れる。そうだなぁ…何か試しに買ってみるかい」
そう言って、彼は少し横に退いた。後ろには大きな木箱やら鞄やら、商品らしきものが並べられている。
どれも興味を引くようなものだったが、いかんせん品数が多い。
「え、えーと…」
買うつもりはあるのだろうが、いきなりそう言われても困るのだろう。アルトは悩んでいる。
ここはあれだ、店主に訊くべきだ。
―おススメを買ったら良いんじゃないかな?
『あ、それが…良い、かも』
そう助言すると、アルトは躊躇いがちにトマスにおススメの商品を尋ねた。
「おっそうだねぇ…おススメは道具鞄かな?」
トマスが持ち上げたのは、ウェストポーチ程のサイズの革製の鞄だった。ベルトとかに着けれるタイプだろうか。
「調合道具一式とか旅に役立つ物が入ったお得な鞄だよ。こいつはそうだな…600ソールかな?」
「600…多分、買えます。あ、あとその、これも…買い取っても、良いですか?」
そう言ったアルトが抱えていた布を見せた。トマスはおや、と目を丸くしている。
「それかい? 元々お渡しするつもりだったものだし、わざわざ買って貰う必要は無いんだが…そうだなぁ。じゃあそいつは30ソールで」
苦笑しながらトマスは帳簿に書き足す。そこともう1つにチェックを入れ、アルトが持っている小瓶の口の辺りをペンで叩いた。
こんこん、と固い音が鳴る。
すると――不思議な事に、いきなり小瓶の中に白い靄が湧く。それは半分にも満たない量で止まり、小瓶の中で渦巻いていた。
「これは…私が持っていた、ソールですか?」
「そうだよ。そいつで630ぐらいだな…ほら、商品だ」
道具鞄と小瓶を交換し、どうやらこれで取引は完了したらしい。
アルトは初めての体験に興味津々と言う様子だったが、取引を終えて改めてトマスに礼を述べた。
「ありがとうございます。なにぶん、こちらでは不慣れな事が多いので…勉強になりました」
「ははは。丁寧なお方だなぁ、こちらこそ取引してくれてありがとうな」
また来ます、と会釈をしてそこから離れる。
見えない位置まで行くと、そこでアルトは壁に背をつけた。
『へ、変じゃなかったかな…』
―お疲れ様、アルト。大丈夫だったよ。
『本当?』
―うん。
ほっと息を吐き、彼は天井を見詰めている。偶々だろうが、私と視線が合う。赤い瞳からは、彼の感情は察せれない。
そうしたまま暫くぼんやりとしていたが、やがてアルトはぽつりと呟いた。
「…見た目の事で、何も言われなかったの…初めてだ」
―…そっか。
フロイデンでは、しょっちゅうそう言った目に遭っていたのかもしれない。
その科白は、どこと無く寂しげだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます