2 雷鳴の下、定命の者たちは跪く
桃谷は、周囲に広がる光景に一瞥をくれると、静かに腕を上げた。その動きに呼応するように、周囲の空間が一瞬歪む。少女も護衛たちも、倒れている襲撃者たちすら、まるで見えない手で掴まれるように空中へ浮き上がる。そして、次の瞬間――すべての存在が淡い光と共に消え去った。
異空間に放り込んだ、という表現が正しいのだろう。目の前に広がっていた荒れた大地の光景は一変し、彼らの姿は完全に消え去っている。桃谷が腕を下ろすと同時に、光の残滓すら散り、辺りには静寂が戻った。
そして桃谷は、軌道上から確認していた、彼女らの母国へと転移した。
姿が消え、一瞬で王都の上空に出現する。
「転移は成功したな。」
桃谷は静かに通信機越しに報告する。その声は冷静で、感情の揺らぎが一切感じられない。
ハルミが軽快な調子で応じる。
「うん、特に妨害もなかったみたいやな。」
彼女の声には、いつもの気楽さの裏に慎重さが含まれていた。
桃谷は、改めて自分たちの存在を見守る何者かの気配を感じ取ろうと意識を研ぎ澄ませる。この星の文明の未熟さは明らかだが、その影には、桃谷が警戒する未知の先進文明の気配が漂っていた。
「ご主人、そんでこの星には隠れとる先進文明があると思っとるんやね?」
ハルミが確認するように尋ねる。
「あぁ、ハルミもだろう?」
桃谷の問いかけに、ハルミは即答した。
「もちろんや。わかっとると思うけど、あんまり派手に手の内は見せんといてな。向こうがまだ様子見しとる段階かもしれんからな。」
桃谷は軽く頷きながら答えた。
「あぁ、俺でもそうする。先進文明なら、手の内を知るまでは動かないはずだ。」
彼は、自分自身がこれまで戦ってきた数多の文明の中で学んだ戦略を、相手も使ってくることを当然と考えていた。
桃谷の目が、視界の下方に広がる風景を捕らえる。目に映るのは、この星の「大国」の首都――とはいえ、桃谷の目には、ただの少し大きめな村に過ぎない。それが、軌道上から事前に把握していた通りの光景だった。
石造りの城壁に囲まれた王都は、建築物が密集し、中央には王城と思われる建物がそびえ立っている。その全体的な規模や構造の単純さは、桃谷にとって巨大建造物に慣れた先進文明の感覚からすると、どこか滑稽さすら感じさせるものだった。
「ふん、これがこの星の“首都”か。」
桃谷は鼻を鳴らしながら呟いた。
その声には、皮肉と冷静な分析の両方が混じっていた。彼の目には、この文明の未熟さがあまりにも露骨に映り、それがむしろ警戒心を煽っていた。この星に本当に先進文明が存在するのなら、この王都はその隠れ蓑に過ぎないのではないか――そんな考えが、彼の頭をよぎる。
桃谷が目の前に広がる首都の風景を眺めると、ため息が漏れた。この星の文明がいかに遅れているかを改めて実感する。視界に映るのは、青銅製の道具を使い、動物に乗った人々が歩く街。街並みはどこも石造りの建物が主体で、雨や風をしのぐために木材や漆喰が雑然と使われている。王城と呼ばれる中央の建物も三階建てが限界らしく、その規模と技術は桃谷がかつて目にしたどの文明とも比較にならない。
「大国の首都とはいえ、これじゃあ豚小屋だな……。」
桃谷のつぶやきには、嫌悪と呆れが入り混じっていた。道端に積み上げられた排泄物の山、通りのいたるところに漂う腐敗した臭気――衛生という概念がほとんど存在しないのだろう。人々はその中で平然と生活を営んでいるが、桃谷にとってはこの光景こそが異世界の象徴のように思えた。
特にひどいのは排泄物だ。街の片隅に目をやると、裸足の子供がその上で遊び回り、大人たちはそれを気にも留めていない。桃谷の目にはその光景がまるで地獄絵図のように映った。彼は無意識に鼻をつまみ、通信機越しにハルミに問いかける。 「ハルミ、この星の文明は、どれくらい前の地球に相当する?」
通信の向こうから、ハルミの軽快な声が返ってくる。
「まぁ、中世ヨーロッパの下層民くらいちゃうか? ただし、もっと汚いけどな。」
桃谷はその答えに苦笑し、視線を街全体に向け直した。確かに、彼の知識の中にある地球の中世と似ている。しかし、この地域における不潔さや技術の遅れはそれをはるかに凌駕しているようだった。
「まぁ、どの時代だろうと、こういう所では同じだな。」
桃谷はそう呟きながら街を一望し、この環境が生む人々の価値観と倫理観を考えた。道端で人が倒れていても誰も助けず、助けたとしてもそこには何らかの見返りを求める視線が絡む。助け合いや共存という概念はあるにせよ、それは極めて条件付きのもので、状況が変われば簡単に崩れ去るものだろう。
王城と呼ばれる建物にも目を向けてみる。その石造りの外壁は立派に見えるが、大砲や近代的な兵器に耐えられるような代物ではない。実際、この程度の防壁は桃谷の持つ技術ならば簡単に破壊できるだろう。むしろ、彼にとって重要なのは、この王城がどのように機能しているか――そこに何があるかという点だ。
桃谷は視界を鋭く見据え、身軽な動きで王城の二階にある大きな窓へと音もなく降り立った。窓枠に足をかけ、中の様子を窺う彼の目に飛び込んできたのは、重々しい空気の中で交わされる激しい議論だった。そこは謁見の間――重厚な装飾の柱が立ち並び、天井のシャンデリアがかすかに揺れている。だが、豪華な空間に似つかわしくない焦燥感と怒声が満ちていた。
部屋の中央には長い会議机が置かれ、その周りを謀反者たちが取り囲んでいる。先ほどこの国を乗っ取ったばかりの首謀者――第二位の大臣と呼ばれる男が、疲れ果てた表情で頭を抱えていた。
「この国の問題はあまりにも根深い。暴君を討ち果たしたところで、すぐに良くなるわけではない!」
彼の鋭い声が響き渡り、他の重臣たちは口々に意見を述べる。
「早急に隣国の援助を取り付けねば、冬が越せん!」
「領地から隠匿されている貯えを徴収するため、兵を派遣しました。報告が戻るのは数日以内です。」
「それで足りるか? 一刻も早く民衆を納得させ、秩序を回復させなければ!」
桃谷はそのやり取りを冷静に観察していた。彼の顎に手が触れ、眉間にわずかな皺が刻まれる。頭の中では、先ほどまでの戦闘と、そこで逃げおおせた「姫君」の姿が脳裏を過ぎっていた。
「ハルミ。」
通信機を指で軽く叩きながら、彼は静かに語りかける。
「これが例の義憤による謀反、だよな?」
「せやで。」
ハルミの軽快な声が応じる。
「暴虐の王様をぶっ倒して、悪党一味を粛清するって話や。まぁ、さっき殺された姫さんはその一派の生き残りやけど……ギリギリまで逃げたけど無駄やったな。」
「なるほどな。」
桃谷の目が室内に再び向けられる。謀反者たちは、自分たちの正義を信じて動いているのだろうが、その方法が理に適っているとは思えない。議論の中で飛び交う言葉は、理想よりも焦燥と現実への対応に終始していた。
「それでも、根本的な問題は農民からの搾取だろう。この文明レベルなら、それが避けられない構造なんだろうな。」
彼の言葉には皮肉めいた響きが含まれていた。
「そらしゃーないで。技術も制度も遅れとる世界やしな。せやけど、今のあいつらは少なくとも真面目に国を建て直そうとしてるわ。」
桃谷は短く鼻を鳴らすと、腰を軽く落とし、慎重に窓から部屋の中へ降り立った。足音ひとつ立てず、影のようにその場に溶け込む彼の姿を、誰一人として気づいていない。彼は謀反者たちの動きを見極めつつ、この国の未来にどれほどの希望が残されているのかを探ろうとしていた。
桃谷は窓際に立ったまま少し考え込んだ。この場をどう収めるべきか。彼らの議論を長く聞いている時間も、じっくり観察する余裕もない。彼は短く息をつき、状況を手早く制圧することを決意した。
通信機越しにハルミが気楽な口調で言う。
「ご主人、どうするつもりや?」
「派手に行くさ。」桃谷が呟くと、彼の指先から放たれたわずかなエネルギーが、窓の外に向かって走った。
次の瞬間――空は突然暗転し、轟音とともに雷鳴が轟く。王城の周囲を取り囲むように雨が降り注ぎ、激しい雷雨が一気に城内の雰囲気を変えた。窓を叩きつける雨粒と稲光の中、謁見の間には突如として不気味な風が吹き込む。その風は冷たく、部屋の中のロウソクの炎を揺らし、帳を激しく揺らした。
「な、何だこれは!?」
重臣たちは次々と立ち上がり、狼狽した声を上げる。中には机の下に隠れる者や、入口の方へ逃げようとする者もいた。その混乱の中、桃谷の身体がゆっくりと宙に浮き上がった。暗闇と雷光に包まれる彼の姿は、圧倒的な存在感を放ち、目に映る全員の動きを凍らせた。
「人間たちよ、俺を見ろ。」
低く響く声が謁見の間に轟き、人々は悲鳴を上げながらその場で硬直した。全員の視線が、浮かぶ桃谷に釘付けになる。その姿は、まさに神がかった威容そのものだった。
だがその大仰な物言いに、通信機越しのハルミが吹き出す音が耳元に響く。
「ぷっ、何やそれ!大げさすぎやって!」
桃谷は眉をひそめながら、小声で返した。「代わりにお前が交渉するか?」
「ごめんごめん、勘弁して。」ハルミの軽口が響くが、桃谷はそのまま気に留めず、再び人々に向き直った。
「俺は戦争卿、御国桃谷だ。」
部屋中の人々が再び息を呑む。彼の言葉に宿る重みは、この国の誰一人として理解できない異質さを孕んでいた。桃谷はさらに言葉を続ける。
「俺は戦の神である。この地上に降り立つことは稀だが、お前たちの行いには感服した。見事な謀反であったぞ、定命の者どもよ。」
その言葉を聞いた途端、重臣たちはさらに困惑し、一部は地面にひれ伏す者まで現れる。室内は完全に桃谷の一言一言に支配され、誰も声を上げることができない。
「こんな茶番で十分だろう。」桃谷が小さく呟くと、通信機越しにハルミが今度こそ声を抑えられず、大笑いを響かせた。
桃谷は謁見の間の空気を一変させる中で、思わず眉をひそめた。豪奢な内装に隠れてはいるが、この部屋に充満する不潔な臭気は、文明の遅れを体現するようなものだった。垢や汚物の臭いが鼻をつき、人々がまとう衣服もただの布切れでしかないように見える。その布すら、長い間洗われた形跡がないのか、変色し汚れていた。桃谷は不快感を押し殺し、威厳を保ったまま話を続けた。
彼の目が、狼狽える重臣たちの中でも比較的冷静さを保っている一人の男を捉える。王座の近くで、表面上は毅然とした態度を取っているが、その手が微かに震えている様子から、この男が首謀者であることは明らかだった。
「定命の者よ、名乗るがいい。」
桃谷の声が低く響き、全員の注意がその男に集中する。男は一瞬息を呑んだが、他の重臣たちほどひどく狼狽えてはいなかった。既に恐慌をきたして逃げ出した者もいる中、この男は逃げるという選択肢を拒んだらしい。
やがてその男――大臣は、一礼しながらゆっくりと口を開いた。
「我が名は……ロード・アレクサンドル・ド・ヴァロワ。」
その声はかすかに震えながらも、自身の権威を示そうとする力が込められていた。「偉大なる戦の神、御国桃谷よ、歓迎いたします。」
桃谷は彼の言葉を聞きながら、無言のまま視線を鋭く光らせた。そして、軽く指を動かすと、彼の内なる能力が働き、大臣の脳内をスキャンする。桃谷にとって、この行為はほぼ無意識的なものであったが、アレクサンドルにとってはただの沈黙に見える。
スキャンによって、アレクサンドルの思考が桃谷の中に流れ込む。彼は目の前の存在――桃谷の神性を疑いながらも、それを完全に否定することはできないでいた。この現状に圧倒されつつも、自分の名を軽々しく告げたことに対する不安を抱き、その背景には、「この神は何をしに現れたのだろうか?」という疑念が渦巻いていた。
さらに、彼の脳内からは、謀反を起こした動機や、今後の計画、そしてその裏に潜む焦燥感が次々と浮かび上がってきた。アレクサンドルの本心には、確かにこの国を立て直したいという意志がある。しかし同時に、権力を握ったことによる興奮と、果たしてそれを維持できるかという不安が混在していた。
桃谷はその情報を瞬時に整理すると、無表情のままアレクサンドルに向き直った。
「アレクサンドル・ド・ヴァロワ……。」
その名を口にした瞬間、アレクサンドルの表情が僅かに引きつる。その響きには、彼の名が神に刻まれたかのような威圧感が宿っていた。
「お前の行動には、確かに理がある。しかし、その理だけでは、この国を導くには足りぬ。」
桃谷の言葉が重く部屋に響き渡り、アレクサンドルをはじめとする全員がその場に凍りついた。
「俺が助けてやろう。」
桃谷は空中でゆっくりと腕を上げ、その手から光の波紋を放つ。すると先ほど異空間へと放り込んだ王女と護衛たちの姿が、淡い光と共に部屋の中央に現れた。
彼らの手足は光り輝く縄で固く縛られ、口には同じく光の猿轡が嚙まされていた。彼らの動きは完全に封じられており、まるで展示物のように床に並べられる。
桃谷は重臣たちの驚愕の視線を受けながら、冷静に言い放った。
「逃げた王女とその護衛たちを捕えてきた。」
しかし、その場にいた誰もが困惑の表情を浮かべ、王女と護衛たちの姿を見つめている。その反応に桃谷は薄く笑みを浮かべた。もちろん予想通りだ――王女と護衛たちは、先ほど桃谷の手によって改造されていた。荒れ果てた姿から、先進文明の力によって、健康的で美麗な容姿を与えられ、まるで別人のようになっていたのだ。
王女の肌は真珠のように輝き、その顔立ちは対称的で、どの時代の美の基準でも卓越している。護衛たちも同様に、たくましさと洗練を兼ね備えた姿となっていた。その変貌ぶりに、重臣たちは誰もが言葉を失っている。
その中で、ついに首謀者のアレクサンドルが口を開いた。
「し、失礼ながら神よ。そのかた……がたらは……」
言葉を選びながらも、彼は王女と護衛たちをじっと見つめる。その姿は確かに美しいが、彼の記憶にある王女たちとは似ても似つかない。
アレクサンドルは続けて言いかける。
「……逃げた王女と一行とは……似ても似つきませぬ。」
彼はその場で息を呑み、冷汗を浮かべながら、言葉を慎重に選ぶ。もしこれが本当に神の力による奇跡であるならば、安易に異論を唱えることは神への不敬に当たるかもしれない。しかし、あまりにも別人のように見える相手を前に、疑念を完全に抑えることはできなかった。
「どうした、アレクサンドル?」
桃谷はその心中を知りつつ、あえて冷ややかな声で問いかけた。その言葉には、アレクサンドルの疑念を試すような響きが込められている。
アレクサンドルはぐっと歯を食いしばり、膝を軽く折り曲げて敬意を示しつつ答えた。
「神よ、何卒ご容赦を。私どもの目には、これほどまでに美しい方々が、先ほどの王女と護衛に見えませぬ……」
彼は「別人と間違えたのでは?」と言いかけるのを必死に堪え、戦の神を名乗る桃谷の機嫌を損ねないように言葉を選んでいた。しかし、そのすべての思考は、桃谷の能力によって完全に読み取られている。
桃谷は少し鼻を鳴らし、軽い口調で言い放った。
「人間とは愚かなものだな。目に映るものだけで全てを判断するのか。」
その言葉を聞いたアレクサンドルは慌てて首を振り、何とか弁解しようとするが、桃谷の冷たい視線が彼を封じた。
「よく聞け、定命の者ども。」
桃谷は再び威厳を込めて語り出した。「彼女たちを改造したのは、この私だ。汚れきった姿を浄化し、神が扱うに相応しい容姿を与えたまでのことだ。」
重臣たちはますます恐れを抱きながら、桃谷の言葉に耳を傾けるしかなかった。その一方で、王女と護衛たちは必死に体を動かそうとするが、桃谷の光の縄は微動だにしない。
桃谷は静かに腕を振り、王女たちの口を封じていた光の猿轡を解除した。その瞬間、謁見の間に響き渡ったのは、怒りと恨みの入り混じった激しい声だった。
「アレクサンドル! あんたよくも裏切ってくれたわね!」
「この裏切り者め! 一族を滅ぼしておいて、よくも平然と座っていられるわね!」
美しさの極みとも言える王女と護衛たちが、次々とアレクサンドルに罵声を浴びせる。その迫力と怒りに満ちた表情は、この場にいる全員を凍りつかせるほどだった。
アレクサンドルは一瞬言葉を失い、驚愕の表情で彼女たちを見つめた。そのあまりの変貌ぶりに最初は戸惑っていたが、その声や仕草、罵倒の内容から、彼はやがて彼女が本当に逃げた王女――ロゼリア姫であると悟った。
「本当に……ロゼリア姫なのか?」
彼の声には動揺と恐怖、そして長らく隠されていた怒りが混じっていた。「こ、この悪女め! よくも生きて戻ってきたな! この儂が直接殺してくれる!」
彼は床に転がっていた剣を素早く拾い上げると、ロゼリア姫に向かって駆け寄ろうとした。しかし、その動きは桃谷の一言でピタリと止まる。
「止まれ、定命の者よ。」
桃谷が冷然と告げると、その言葉にはまるで見えない鎖がついているかのように、アレクサンドルの身体はその場で硬直した。
アレクサンドルは目を見開き、驚愕と恐れを隠せないまま桃谷を見上げた。すぐに膝を折り、平伏の姿勢を取る。その行為は、一見すると神への服従のように見えたが、実際は違った。彼の声が震えながらも懇願の色を帯びる。
「お、恐れながら神よ!」アレクサンドルは頭を深々と下げながら必死に言葉を紡ぐ。「この者たちの所業は人のものではありませぬ! どうか、この場で疾く死を与えてくだされ!」
桃谷はアレクサンドルを冷たく見下ろし、静かに言った。
「全てわかっておる。」
彼の言葉に含まれる圧力は、部屋全体を支配していた。「この者たちは俺が裁くと言っている。有無は言わせぬ。」
そう言うと桃谷は軽く指を動かし、アレクサンドルが手にしていた剣を指差した。その瞬間、剣はまるで内側から砕けるように、鋭い音を立てて粉々に崩れ落ちた。その破片は光の粒となり、空中に溶けるように消えていった。
アレクサンドルは剣の砕ける様を目の当たりにし、内臓が縮み上がるような恐怖を感じた。顔が蒼白になり、震えが止まらない。それでも彼は食い下がるように、再び桃谷に向かって訴えた。
「神よ! この者たちは、民を虐げ、一族を滅ぼし、血の風呂に浸かるような所業を繰り返してきたのです!」
彼の声は震えながらも、なおも桃谷に懇願する。「どうか……そのような者どもに情けを与えず、この場で裁きを!」
桃谷はその言葉を黙って聞きながら、彼の訴えに一切動じることなく、冷たく見下ろしていた。
桃谷はなおも騒ぎ立てる王女たちを冷ややかに一瞥すると、指を軽く動かした。それだけで、王女たちと護衛は再び淡い光と共にその場から消え去り、異空間へと放り込まれる。謁見の間に戻った静寂は、一瞬で重苦しいものへと変わった。
桃谷は腕を組みながら部屋の中央に立ち、冷静な口調で肝心の話題に切り込んだ。
「そのようなことより定命の者たちよ――隣国の軍が迫ってきているぞ。」
その一言は、部屋に残っていた者たちにまるで雷鳴のような衝撃を与えた。重臣たちは互いに顔を見合わせ、困惑と恐怖が混じった表情を浮かべている。誰一人として言葉を発せず、ただ呆然と桃谷を見つめているだけだった。
アレクサンドルも驚愕の表情を浮かべ、何度か瞬きをしては口を開こうとするが、言葉が出ない。ようやく彼が絞り出したのは、震える声での一言だった。
「いま……何と、仰られたのですか?」
桃谷はわずかに眉をひそめ、あきれた様子で繰り返した。
「隣国の軍、三万が迫っていると言ったのだ。」
彼は冷静な声で続ける。「お前たちは体よく使われたのだ。隣国に謀反を支援され、成功しようが失敗しようが関係ない。いずれ侵攻を受け、混乱するこの国を奪われる――そういうことだ。」
その説明を聞いた瞬間、部屋の空気は一層重くなった。残った重臣たちは全員が蒼白になり、一様に黙り込んでいる。アレクサンドルはその言葉の意味を理解しようと必死だった。だが、あまりにも唐突な現実に、彼の脳は処理が追いつかない。
沈黙の中、通信機越しにハルミの声が響いた。彼女は皮肉を込めながらしみじみと語った。
「裏切者に裏切らせたあと、好待遇で迎えられるわけがないやろ。結局、ぜーんぶペロリと食べられるのがオチやで。」
ハルミの言葉には軽い調子が含まれていたが、その内容は非情そのものだった。
桃谷はふっと鼻を鳴らし、部屋の全員を見回すように視線を巡らせた。そして、腕を組み直しながら鋭い声で告げる。
「まだ王女の処遇が大事か?」
その言葉に、アレクサンドルをはじめ重臣たちは言葉を失った。王女や護衛たちの存在が、いかに目の前の現実と比べて取るに足らない問題かを、彼らはようやく理解し始めたのだ。
アレクサンドルは膝をついたまま、俯き加減で震える声を漏らした。
「……そんな……隣国が、ここまで計画していたとは……。」
桃谷は冷たく見下ろしながら言葉を続ける。
「お前たちは気づくのが遅すぎる。だがまだ手遅れではない。俺が助けてやる。」
その一言に、アレクサンドルを含めた全員が驚きの表情を浮かべた。
桃谷が軽く手を上げると、荒れ狂っていた嵐が嘘のように静まり返った。轟々と鳴り響いていた風の音は消え、雨の滴すらもその動きを止める。異様な静寂の中で、重臣たちや護衛たちは桃谷の動作を目を丸くして見つめるしかなかった。その場の誰もが、この男の力がどこまで及ぶのか計り知れず、ただ息を飲むばかりだ。
「隣国の軍は軽装の先行部隊を送り込み、内通者と連携してここまでの関門を突破している。」
桃谷は冷淡な声で語り出した。視線はどこにも定められず、彼自身が全てを見透かしているような印象を与える。その言葉には焦燥も、怒りも、鼓舞の気配も一切ない。ただ事実だけが機械的に告げられていた。
「明日にはここに着くだろう。助けてはやるが、軍容くらい整えておけ。俺はもう休むことにする。」
その言葉に、アレクサンドルをはじめとする重臣たちは顔を見合わせた。彼の言葉には、士気を高める意図も、味方を安心させる配慮も一切なかった。ただ冷ややかで突き放した調子であり、その心中を読むことすら叶わない。その場にいた者たちの間には不安と狼狽が広がる。果たして本当に助けてもらえるのか――いや、そもそもこの男にとって「助ける」とはどういう意味なのかすら誰にも分からなかった。
もちろん、桃谷たちの視点からすれば、たかが3万程度の地上軍など取るに足らない問題だ。衛星軌道上から一撃の砲撃を加えれば、軍勢そのものを跡形もなく吹き飛ばすことができる。それでも、桃谷がわざわざ「助けてやる」と口にした理由は何か――それを知る者はいなかった。
桃谷はそんな彼らの動揺には一切目をくれず、ふわりと宙へ浮き上がる。その動きは滑らかで、まるで空間そのものと調和しているかのようだった。そして彼は、汚れにまみれたこの王城の上空に新たな楕円形の浮遊スペースを構築した。その表面は滑らかで透明感があり、内部には清潔な環境を保証するためのシステムが備わっている。
浮遊スペースの中に入ると、桃谷の身体を浄化シャワーが激しく洗い流し始めた。汚物や埃が剥ぎ取られ、細かい粒子となって空間に吸い込まれていく。通常、桃谷が所属する文明では、こうした浄化は一瞬で完了するのが一般的だ。しかし、彼はあえて温水シャワーを使用していた。それは地球人である彼の個人的な趣味であり、わざと不便な手段を選んでいるようにも見える。
「ひゃー! くっせぇ! きたねぇ!」
シャワーの中から響いた彼の声は、どこか楽しげで滑稽ですらあった。
「汚物系の訓練もしてるが、たまんねぇな……。」
彼は湯気の中で肩をすくめ、満足げに息を吐いた。温水の心地よさに浸りながらも、先ほどまでの不快感に眉をしかめる。その表情には、彼がこれまで幾多の戦場を渡り歩いてきた中で培われた耐性が見て取れるが、同時に「嫌なものは嫌だ」といった地球人らしい素朴な感情も滲んでいた。
しばらくシャワーで汚れを念入りに落とした後、桃谷は身に着けていた服を投げ捨てるようにして次の部屋へと進んだ。扉を越えた瞬間、桃谷の姿は海パン一枚となっている。その引き締まった体は細身ながら筋肉質で、どの角度から見ても無駄がなく、その整った顔立ちと相まって、桃谷の美青年ぶりを一層引き立てていた。
次の部屋は、明らかにこの浮遊スペースの外観からは想像もつかないほど広大だった。内部空間が拡張されていることは一目瞭然で、壁面には光沢のある滑らかな素材が使用され、柔らかな照明が室内を包み込んでいる。その中央に移動すると、桃谷は手を軽く振った。すると、ぬるい温水が床から湧き上がり、部屋全体にゆっくりと広がり始めた。部屋全体をまるで巨大な浴室に変化させるような光景だ。
桃谷は壁や床を自在に変形させ、中央にテーブルを作り出すと、その周りに椅子をいくつか配置した。その動きは自然で手慣れており、これが彼の日常の一部であることを感じさせる。そしてテーブルの上に目をやった瞬間、そこに一人の少女が横たわったままで現れた。
少女は美しかった。小柄で白い肌、柔らかな茶色のウェーブヘアをポニーテールにまとめ、スレンダーな体つきながら豊かな胸が印象的だった。彼女は水着姿で横たわり、桃谷が少し近づいたところで、ぱっちりとエメラルド色の大きな瞳を開けた。その瞳は生き生きと輝き、起き上がると同時に元気よく周囲を見渡す。
「あれ? ご主人、ウチの簡易ボディ作ったん?」
その少女――ハルミが、驚いた様子で尋ねた。その声はどこか軽やかで親しみやすい調子だったが、その背後に確かな知性を感じさせる。
桃谷は彼女の隣に椅子を作り、疲れた様子でそこに腰を下ろした。肩を軽く落としながら、ぼそりと呟く。
「お前の探査用ボディが届くまで待てるかよ。」
彼はテーブルの上のハルミを一瞥し、わずかに目を細める。
「帝国の美形ばっかり見慣れていると、現地人が汚すぎて疲れるんだ。」
桃谷はそう言い放ち、椅子の背にもたれかかった。その仕草には心底疲労している様子がありつつも、どこか皮肉交じりの軽口を叩く余裕が残っているようだった。
ハルミは自身の姿を見下ろしてから、満足そうに微笑みを浮かべた。
「なるほどなぁ。そんな理由でウチの簡易ボディを作るとは、やっぱりご主人らしいわ。」
彼女はそう言うと、軽く身を伸ばしながら周囲を見回し、改めて居心地の良さそうな空間を堪能するように深く息を吸い込んだ。
桃谷が作り出したこの簡易ボディは、彼女の人格を一時的に稼働させるためのものであり、本来の探査用ボディとは機能も性能も異なる。しかし、彼女自身はそれを特に気にすることもなく、むしろ状況を楽しんでいるように見えた。
「仮なのはわかるんやけど、ホンマにこの体、中身スカスカやん……」
ハルミは腕を振り回したり、その場で軽く跳び上がったりして、自身の簡易ボディの感覚を確かめていた。その動作は人間と見分けがつかないほど自然で滑らかだが、彼女の表情には明らかに不満が漂っている。普段から高次文明で設計された高度な戦闘用ボディを使用している彼女にとって、この簡易ボディの性能はあまりにも物足りないのだ。
桃谷はそんなハルミの姿をちらりと見ながら、軽く肩をすくめた。
「さぁ、ゲストでも呼ぼうか。」
そう言いながら彼が腕を軽く振ると、空間に亀裂が走るように揺らぎが生じ、そこから先ほど異空間に放り込まれていたロゼリア姫とその護衛が姿を現した。
ロゼリア姫は高貴な美貌を与えられた赤髪の少女で、その華やかな容姿は貴族としての風格をまとっている。しかし、今の彼女は豪奢なドレスではなく、簡素な水着姿だった。その不釣り合いさがどこか滑稽さを感じさせる。護衛として現れたのは、凛々しい雰囲気を漂わせる女戦士と、控えめでおっとりした侍女の二人。いずれも水着姿で、状況を全く飲み込めていないようだった。
ハルミはその光景を見て、呆れたように眉をしかめた。
「あー、このご主人サービスシーン早すぎへん? 風呂好きとか言うてるけど、どうにかして全員水着にするための方便にしてへん?」
桃谷はその指摘に、怪しげな口調で返答した。
「ハハッ、ナニヲイッテイルンダイ? オレハジュンゼンタルフロズキサ、日本書紀ニモニホンジンハフロズキダトシルサレテル。俺は風呂が好きだぞ」
その芝居がかった返答に、ハルミは大きな溜息をつく。
「ほんまご主人、そんなん言い訳にもならんからな……。」
しかしその言葉には、呆れながらもどこか諦めのような温かさも含まれていた。彼女は桃谷の性格をよく理解しているからこそ、これ以上追及する気も起きないのだろう。
一方、突然現れたロゼリア姫たちは、完全に困惑していた。異空間から突然現れただけでなく、見知らぬ空間で水着姿にされているという状況が理解できず、姫と侍女は顔を赤らめながらきょろきょろと辺りを見回していた。女戦士は緊張した様子で警戒心を露わにしながら、桃谷に対峙する。
「ここはどこだ! 私たちをどうするつもりだ!」
彼女の鋭い声が響くが、桃谷はその言葉を気に留める様子もなく、ただ微笑みを浮かべて椅子にもたれかかった。
「落ち着けよ。別に危害を加えるつもりはない。今はな。」
彼は肩を軽くすくめ、視線をハルミに向けた。
「俺はただ、少しリラックスしたいだけだ。それに……どうせ戦争ばかりしてるんだから、少しぐらい休むべきだろ?」
その言葉に、女戦士は困惑した表情を浮かべながらも、一瞬だけ剣を引く素振りを見せた。ロゼリア姫もようやく状況を把握し始めたのか、小さな声で侍女に指示を飛ばしつつ、桃谷をじっと見つめる。
「……あんた、一体何者なの?」
彼女の震える声には恐怖と好奇心が入り混じっていた。
桃谷はその問いには答えず、ただ不敵な笑みを浮かべるだけだった。
「俺たちはこの世界の外から来た。」
桃谷は低い声で言い放った。その言葉には不思議な力が宿っており、相手の耳に深く染み渡るようだった。とはいえ、彼は惑星や宇宙などの言葉を避け、現地人が理解しやすい表現を選んで話を続ける。
「俺は新エルダリアン帝国、戦争卿、御国桃谷だ。」
ロゼリアとその護衛たちは、困惑した表情を浮かべた。彼の発する言葉に含まれる意味が、完全には飲み込めていないのだろう。それでも、その佇まいから放たれる圧倒的な威圧感と静謐な雰囲気が、彼らを口を挟むことすら躊躇させていた。
その一方で、桃谷の隣にいる少女のような存在――ハルミ――が、ふわりと明るい声を響かせた。
「ウチはご主人のサポートをしとる機械生命体――って言うても、たぶんわからんよなぁ。」
ロゼリアたちはその明るい口調に少しだけ気を緩めたようだったが、次の瞬間、ハルミはにっこりと笑いながら続けた。
「せやから、不思議な力で命を持った人形の種族やと思ってくれたらええで。それに……ウチ、ご主人と結婚しとるんや!」
その発言を聞いた瞬間、ロゼリアの目が丸く見開かれ、護衛たちが一斉に顔を見合わせた。だが彼らの驚きはまだ序章にすぎなかった。
「ほら、証拠や。」
ハルミはおもむろに自身の左手を持ち上げると、まるで普通のことのようにその手首をひねり始めた。次の瞬間、手首は滑らかに外れ、その断面が現れる。そこには筋肉や血管のようなものに似た構造が見え隠れしていたが、明らかに生体ではない――金属と光る何かが絡み合い、脈動するように動いているのだ。
「ウチの身体はこうなっとるんやで。」
ハルミは軽やかに言いながら、その手首を外したままロゼリアに差し出す。その断面から漂う異質な雰囲気と、生命のように動く金属の構造を見て、ロゼリアたちは絶句した。
護衛の一人がとっさに剣を構え直し、ハルミを鋭く睨みつけた。
「魔物か? それとも悪魔の眷属か!」
彼の声は明らかに怯えを含んでいた。
「ちゃうちゃう。」
ハルミは慌てる様子もなく、手首を再びはめ直すと軽く腕を振って見せた。
「ウチらはそんな恐い存在やないよ。むしろ……」
そう言いながら、彼女はロゼリアに向けて親しげな微笑みを浮かべた。
「ご主人は、あんたらを助けるために来たんやで。」
その言葉にロゼリアの眉がピクリと動く。彼女の表情にはまだ疑念が残っていたが、桃谷の鋭い視線とハルミの朗らかな態度が奇妙な均衡を保ち、緊張に包まれた空気が少しずつ和らぎ始めた。
「……助けるために来た、だと?」
ロゼリアは慎重に言葉を選びながら尋ねた。
桃谷は静かに頷き、短く答えた。
「そうだ。ただし、信じるかどうかは、お前次第だ。」
彼の冷静で簡潔な言葉は、ロゼリアたちに新たな疑念と興味を同時に抱かせた。それでも、彼の威厳ある態度に気圧され、誰も深く追及することはできなかった。
桃谷は「俺たちは助けに来た」と口にしながらも、表情には一切出さずに通信機越しにハルミへ内心の愚痴を送った。
『助けに来たかどうかなんてわからんぞ。俺たちの行いが本当に助けになるのかどうかも、わからん。』
ハルミからの返答は軽やかだが、どこか含みのあるものだった。
『この場でそんな細かい定義、いちいち議論するんか? それに、何だかんだ言って、結局いつも助けてしまうやん、ご主人。』
桃谷は目の前のロゼリアたちに視線を向けたまま、ため息をつくように返す。
『俺がただ甘いだけだ。』
ハルミはその言葉に短く笑い、あっさりと返答を切り捨てる。
『甘くてもどうでもええわ、そんな定義。』
そのやり取りで満足したのか、ハルミは通信を切り、再びロゼリアたちに向き直った。
「あんたらの考え方とウチらの考え方は、まるで違っとる。ウチは正直言うて、あんたらの考え方を尊重するつもりはあらへん。」
その言葉に、ロゼリアたちの間にざわめきが走る。護衛たちは再び剣を構え直そうとするが、ハルミの言葉は止まることなく続いた。
「そやけど、ご主人――この人やけどな――は、あんたらと話をしてみたいらしいんよ。」
桃谷はわずかに眉をひそめたが、否定することなく静かに立ち続けた。その態度には、言葉以上の意志が宿っているようだった。
ハルミは軽く肩をすくめ、ロゼリアたちをじっと見据えると、口調をわざと砕けたものに変えた。
「わかりやすくしよか。あんたら、ぎょーさん人殺ししとるみたいやん? 遊び感覚で拷問までしとるんやろ。」
その言葉にロゼリアの顔が一瞬引きつる。護衛たちも険しい表情になり、ハルミを睨みつけるが、彼女は意に介さない。
「ウチらの世界では、そんなことするのんは重犯罪やで。ほぼほぼ処刑される行為や。ハッキリ言うけどな、ウチはあんたら、死んだ方がえぇと思ってる。」
ロゼリアたちの表情がさらに険しくなり、護衛たちは剣の柄を握りしめた。だが、ハルミはその様子を見ても、なおも続けた。
「そやけど、ご主人は違うんよ。」
ハルミは桃谷を振り返り、わずかに眉を寄せた。
「いくつかの視点からやけどな、ご主人は、あんたらを更生させる――いや、反省させるっちゅうか、変えられるもんなら変えてみて、その結果どうなるのかを見てみたいんやって。」
その言葉に、ロゼリアは顔を真っ赤にして叫んだ。
「ふざけないで! あたしは王女なのよ!」
彼女の声はヒステリックなまでに高まり、周囲の空気を震わせる。
「あたしは王家の血を引く高貴な存在! あんたたちのような下賤な輩なんか、名前を聞くことさえ恐れ多いの! ひれ伏しなさい! この場で罰を与えてあげるわ!」
彼女の命令が下されるや否や、護衛の一人――筋骨隆々とした女戦士が剣を抜き放ち、桃谷へ向けて一閃を放った。その動きには迷いがなく、致命傷を与えるつもりで振り下ろされた。
だが、桃谷は微動だにせず、その場で剣を迎えた。彼の表情は悩ましげで、まるで別の何かを考えているかのようだ。
青銅の剣が桃谷の肌に触れ、鋭い音を立てながら斬り裂いた。だが、傷口からは一滴の血も流れない。それどころか、斬られた皮膚はすぐに再生し、何事もなかったかのように閉じてしまった。護衛の女戦士が驚愕の表情を浮かべ、再び剣を突き立てるが、結果は同じだった。桃谷の傷は瞬時に塞がり、彼の身体には何の影響も及ぼさない。
その光景を見たロゼリアは言葉を失い、護衛たちも動きを止めた。その場に立つ桃谷は、傷一つない身体を保ちながら、ただ静かにその剣先を見下ろしていた。
ハルミは苛立ちを露わにし、桃谷へ言葉を投げかける。
「なぁ、ご主人! こんなケダモノどもをホンマに更生させるん?」
彼女の声には明らかな不満と呆れが混じっていた。
桃谷はその問いに対して何も答えず、ただ視線をゆっくりとロゼリアに向けた。その目には迷いと、どこか拭いきれない疲労が宿っていた。
桃谷は目の前で苛立つハルミに向けて、不満そうに、しかし辛抱強い口調で述べた。
「文明が異なっているんだ。反応が異なって当然だ。」
その言葉には、どこか割り切れない感情がにじんでいた。ハルミはそんな桃谷を一瞥すると、剣を振りかざしたまま焦る女戦士に視線を移した。
「しゃーないな。」
そう呟くと、彼女は一瞬で女戦士の間合いに飛び込み、その腕を無造作に掴んだ。女戦士が抵抗する間もなく、ハルミは彼女の身体を軽々と持ち上げると、元の位置に戻して投げるように手放した。女戦士は驚きと屈辱の表情を浮かべながらも、倒れ込むように地面に叩きつけられた。
ハルミはその場に立ち、ロゼリアたちを見渡しながら言葉を続けた。
「さて、ご主人があんたらを更生させる動機について、わかりやすく説明したるわ。」
彼女は指を一本立てた。
「まず、1つ目。文明レベルが未開過ぎて仕方がない。」
ハルミの目には、どこか呆れたような色が浮かんでいた。
「拷問とか人殺しを遊びにしとる時点で、あんたらの文明はウチらから見たら赤ん坊みたいなもんや。そんな未熟な世界をほっとけるほど、ウチのご主人は冷酷な人間やないんよ。」
次に、指を二本立てる。
「2つ目。ロゼリア、あんたや。」
ハルミの言葉に、ロゼリアは表情を硬くした。
「あんたは王族として育てられたかもしれんけど、そういう教育があかんかったんや。そもそも、そんな環境を拒む余裕も選択肢も無かったんやないん? だからご主人は、更生のチャンスくらい与えたろうと思っとるわけや。」
最後に、指を三本立ててハルミは肩をすくめた。
「そして、3つ目。」
その声にはどこか冷静さが戻っていたが、鋭い響きも含まれていた。
「ご主人やな。ご主人は、戦争でぎょーさん人を殺しすぎてもうて、メンタルやられてしもうたんや。あんたらみたいなちゃちな人殺しを相手にしても、殺すのに迷ってしまうくらいにな。」
ハルミはじっとロゼリアを見据えた。
「それが原因で、ご主人は“殺さない理由”を探してしまうんや。」
その言葉を聞いた瞬間、桃谷はわずかに顔色を変えた。だが、それは不快感からではなかった。ハルミの言葉が彼の記憶の奥底に触れ、戦争で繰り返してきた無数の人殺しの記憶を呼び起こしたからだ。
桃谷の目は静かに伏せられ、その視線には一瞬の影が差した。彼の胸中をよぎるのは、かつての戦場の惨劇――そして、自分が奪い続けた無数の命の重み。
ロゼリアはそんな桃谷の変化に気づくことなく、ただハルミの言葉に激昂して声を張り上げた。
「そんなこと、何の理由にもならないわ! 私たちは高貴な血を受け継いでいるのよ! あなたたちみたいな存在にとやかく言われる筋合いなんてない!」
その声を聞きながらも、桃谷は何も言わず、ただじっとロゼリアを見据えていた。その瞳の奥には、憐れみとも、別の感情とも取れる深い色が宿っていた。
ハルミは苛立ちを隠さず、ロゼリアたちに向けて言葉を放った。
「ウチはあんたらを助けるなんて反対や。そもそもあんたら、さっき殺されとったからな。わざわざ蘇生してまで更生させようとか、ホンマ勘弁して欲しいわ。」
その辛辣な言葉に、ロゼリアたちは反発するように顔を歪める。しかし、桃谷は静かに首を横に振り、悩ましげな声で指摘した。
「しかし、ロゼリアの受けた教育を見たが……彼女は拷問や殺しを愛し、楽しむように育てられていた。確かに、包丁を振り回した者は罰されるべきだ。だが、振り回された包丁そのものをへし折ることが正しいのか?」
その言葉に、ハルミは一瞬言葉を失った。そして、少しだけトーンを落として口を開く。
「それには同意するで。殺人鬼として育てられたんは認めるわ。」
桃谷は静かに頷き、続けた。
「ならば聞くが――強制的な教育下で育成された少年兵を、一般の犯罪者として裁くべきか? クメールルージュの少年兵や、黄巾党の少年兵も、彼らは社会復帰を促された。」
桃谷の声には静かながらも揺るぎない意志が込められていた。
「殺人を命じられ、教育されてきた者に対して、安易に死を与えるのではなく、議論を尽くし、本人が変わる可能性を考慮すべきではないか?」
その言葉を聞いて、ハルミは困ったように息を吐いた。
「……ご主人が! よくわからん単語で何言うとるかわからんやろうけど、聞いての通りや。」
彼女はロゼリアたちに向き直り、嫌そうな表情を浮かべながら言葉を続けた。
「ご主人は、正しい行いとは何かを探そうとしとる。ウチの『今すぐ処断してしまえ』っちゅうのは、確かに安易やし性急や。そやから――今は我慢したるで。」
ハルミの苛立ちが残る口調にも、どこか納得を受け入れたような色が混じっていた。それを聞いたロゼリアは混乱した表情を浮かべながらも、桃谷をじっと睨みつけた。その瞳には、自らの置かれた状況を理解できない苛立ちと、自分を助けようとする相手への複雑な感情が入り混じっていた。
桃谷はロゼリアの視線を正面から受け止めると、静かに言葉を紡いだ。
「君に強制されてきた価値観と行動は否定しよう。しかし、それは君自身の本質ではないと俺は仮定している。……だから、選べるようにしてやる。その先で何をするかは、君次第だ。」
ロゼリアはその言葉に何かを返そうとしたが、声が出なかった。ただ、桃谷の言葉に押し黙り、彼の眼差しの強さに圧倒されているようだった。
「で、ここからどうするん?」
ハルミが低い声で不満そうに問いかけると、彼女の足音が静かに響いた。彼女はロゼリアたちに向かって一歩踏み出す。その鋭い視線は彼女たちを射抜くようで、場の空気を冷たく張り詰めさせた。
護衛の女戦士が動揺を隠せないまま前に出る。薄汚れた防具をまとったその姿勢には、ロゼリアを守るという意志がにじみ出ていた。しかし、その足はわずかに震え、彼女の瞳には恐れの色が浮かんでいる。それを見たハルミは立ち止まると、彼女に鋭い殺意を込めた視線を向けた。
「……!」
護衛は何か言葉を発しようとしたが、ハルミの目の力に押され、息を詰まらせた。その場で動きを止め、彼女の視線を避けるように俯く。
「いいか、あんたとその侍女は事情が違う。」
ハルミの言葉は冷たく、鋭い刃のように刺さる。
「金で人殺しに参加しとる。生きてるだけでも感謝することや。」
しかし、その途中で――乾いた音が場を裂いた。
「黙りなさい、この下郎ども!」
ロゼリアが声を荒らげると同時に、ハルミの頬を平手で張ったのだ。その音は室内に鋭く響き、全員の視線を引き寄せた。
ハルミは一瞬目を見開いた。彼女の中から感情が消えたかのように、冷たい無表情が広がる。その沈黙が、次に来る何かを予感させ、場の緊張を一層高めた。そして、彼女の手がゆっくりと握りしめられる――拳が硬く、白くなるほどに。
「……殴ったら殴り返されるんや、ドアホが。」
ハルミは静かに言葉を吐き捨てると、拳を振り上げた。その動きは迷いなく、容赦のかけらもなかった。
だが次の瞬間、轟音が部屋を揺らした――衝撃波が発生するほどの一撃を放つ直前、桃谷がハルミの後ろに瞬間移動するかのように立ち塞がったのだ。彼の手がハルミの拳をぴたりと止めた。
「おいおいおいおい、ハルミ。やりすぎだ。」
桃谷の声は低く静かだが、その中には警告の色が混じっている。その手はハルミの腕を軽く制するだけで、圧倒的な力を感じさせた。
ハルミは桃谷の存在に気付いてかっと目を見開いたが、次にはっとして拳を下ろした。彼女の息遣いは荒く、怒りが今にも爆発しそうだったが、桃谷の冷静な瞳に睨まれると、その感情を飲み込むように顔を背けた。
一方、ロゼリアは桃谷の制止が遅れたことで、その場に吹き飛ばされ、後ろのお湯に沈んでいた。頭から冷たい液体に浸かり、気絶しているのか、反応はない。彼女が作り出していた尊大さは、跡形もなく消え失せた。
侍女や護衛たちは、恐怖と混乱に凍りついている。何をするべきなのか――それすらも判断できないほど怯えきっていた。
「よー覚えときや。」
ハルミが深く息を吐き、再びロゼリアに視線を投げる。その目には、先ほどの怒りとは違う冷たい何かが宿っていた。
彼女の言葉は、冷たい部屋の空気をさらに凍りつかせた。誰一人として動けず、ただ息を呑む音だけが響いていた。
「参ったな。ここまで荒れるとは。」
桃谷が静かに嘆息しながらハルミの肩に手を置いた。肩越しに覗き込む彼の表情は穏やかだったが、どこか疲れた色がにじんでいる。その大きな手の温かさに、ハルミは一瞬肩をすくめたが、やがて諦めたように身を預けた。
「ごめん、ちょっとやりすぎたわ。」
ハルミの声には後悔の色が含まれていた。だが、それを言葉にするのは苦手なようで、視線を逸らしながらぽつりと呟いた。
「いや。」
桃谷は軽く首を振り、優しく彼女の肩を叩いた。その仕草には、怒りや責める気配は一切ない。むしろ、何かを包み込むような落ち着きがあった。
「ロゼリアを少し連れ出す。その侍女と女戦士は個室に軟禁しておけ。」
「……どうするん?」
ハルミがためらいがちに問いかける。彼女の視線は桃谷を見つめていたが、少し不安そうだった。
「とりあえず、空でも飛んでみようかと思っている。」
淡々とした桃谷の答えに、ハルミは短く頷いた。
「わかった。」
それだけで、二人の間には必要な意思疎通が済んだ。桃谷が軽く指を振ると、お湯に沈んでいたロゼリアの身体がふわりと持ち上がる。彼女の身体は半重力に包まれたように宙を漂い、滴る水は瞬時に蒸発して消えた。
次いで、桃谷がもう一度手を振ると、部屋全体が不思議な光に包まれる。すると、床に溜まっていたお湯が一滴残らず消え失せ、ハルミや侍女、護衛たちの濡れていた服も乾き、水着だった装いが活動に適した服へと瞬時に変わっていく。
気絶しているロゼリアを背負った桃谷は、軽やかな足取りで部屋の中央へ進む。次の瞬間、何の前触れもなく壁にぽっかりと穴が開いた。そこからは、日暮れの外界が赤い光を差し込んでいる。
「……あの、その……」
ハルミがぽつりと声を漏らした。その顔には申し訳なさそうな罪悪感が浮かんでいる。彼女は言葉を選ぶように少し間を置いた後、続けた。
「やりすぎてしもうて……ごめん。」
桃谷は振り返り、軽く微笑んだ。その顔には責める気配はなく、むしろ彼女を気遣うような温かさが滲んでいる。
「いや、仕方がないことだ。」
彼はわざわざハルミの隣に戻ると、そっと肩に腕を回した。その仕草には、彼女を安心させようとする意図が明らかに込められていた。ハルミは目を伏せたままだったが、その顔には少しだけ安堵の色が浮かんでいる。
桃谷は小さく頷き、再びロゼリアを背負い直すと、穴の向こうへと歩き出した。外の空気は少し冷たく、夜が近いことを感じさせた。夕焼けに染まる空を見上げると、桃谷はふわりと浮かび上がり、ロゼリアを抱えたまま音もなく飛び立った。
ハルミは彼の背中を見送り、ほんの少しだけ不安そうな目を向けたが、すぐに表情を切り替えた。彼女にはまだやるべきことが残っている。侍女と護衛を個室に誘導し、軟禁するという雑務。それは単調な仕事だが、ハルミにとっては必要な気晴らしのようなものだった。
部屋の中に残された者たちが困惑しながらも従う中で、ハルミは心の中で小さく呟いた。
「……やりすぎたのは、ほんまに悪かったわ。」
彼女は自分自身を戒めるようにそう言葉を飲み込み、次の作業へと取り掛かっていった。
一方、空を舞う桃谷の瞳には、これから向かう場所へのわずかな緊張と期待が宿っていた。抱えられたロゼリアの気絶した表情は未だ穏やかではなかったが、彼の顔には迷いのない決意が漂っている。
「しばらく飛んでみたら、何か見えるかもしれないな。」
桃谷はそう呟き、風を切って遥か遠くの空へと進んでいった――。
「起きたまえ。」
桃谷は空を飛びながら、隣で宙に浮かべたロゼリアに穏やかな声で呼びかけた。彼は手を軽く動かし、彼女の意識を覚醒させるための刺激を与える。その瞬間、ロゼリアの体が小さく反応し、微かなうめき声が漏れた。
やがて、彼女の瞼が震え、ゆっくりと開く。意識を取り戻したロゼリアは、ぼんやりとした瞳で周囲を見渡した。
「……ここは……?」
彼女の声はかすかに震え、不安の色を隠せない。周囲には燃えるような夕焼けが広がり、日暮れにも関わらず十分な明るさがある。風が彼女の髪をそよがせる中、ロゼリアは自分が宙に浮いていることに気づいた。
「きゃああっ!」
彼女は突然悲鳴を上げ、全身を激しく動かして暴れ出した。しかし、桃谷が操る力場によって完全に固定されているため、ロゼリアの動きは何の影響も及ぼさない。宙で浮遊しながらも、彼女はあたかも地に足がついていない恐怖に抗おうと必死だった。
「高いところに来るのは初めてだろう?」
桃谷が冷静にそう言った。彼の声にはどこか余裕が漂い、状況を軽く受け流しているように見える。その問いには確信が込められていた。彼はロゼリアの記憶をスキャン済みで、彼女が空に上がる経験など一度もなかったことを知っている。だが、あえて会話を装うことで、彼女を落ち着かせようと試みているのだった。
「な、なんなのよこれ!」
ロゼリアは息を切らしながら叫ぶ。怒りと恐怖が混ざり合ったその声は、夕焼けの空にかき消されることなく響いた。
「飛んでいるんだ、空をな。」
桃谷は相変わらず淡々とした口調で返す。その態度が彼女の怒りをさらに煽ったのか、ロゼリアの目には苛立ちが浮かんだ。
「あんた……! なんなのよ、これ! あたしが何をしたっていうのよ!」
ロゼリアの声は怒りに震えていた。自分がなぜこんな状況に置かれたのか、理解できず苛立ちが募っているようだった。
その問いかけを聞いた瞬間、桃谷は一瞬だけ驚いたように目を細めた。だが、すぐにその表情は冷静なものに戻る。
「あぁ、さっきハルミに殴られたのは記憶が飛んだのか。」
桃谷は小さく息をつき、軽く肩をすくめた。
「殴られ損だな、君も。」
ロゼリアはその言葉にますます憤りを感じたのか、さらに激しくもがくように体を動かした。しかし、力場に囚われた彼女の抵抗は無駄に終わるだけだった。
「この状況を作り出したのは私だが、暴れてもどうにもならないよ。落ちないし、君が傷つくこともない。」
桃谷はあくまで冷静な口調で言葉を続ける。その声には、彼女を安心させようとする意図が含まれているようでもあった。
ロゼリアは怒りを抑えきれず桃谷を睨みつけたが、彼の表情が微塵も動じないことに気付くと、次第に疲れたように肩を落とした。
「……で、私はこれからどうなるのよ。」
ロゼリアは声を絞り出すように問いかけた。彼女の目には恐れが混じっており、それを隠そうとする気丈さも感じられた。
桃谷はその質問には答えず、彼女の瞳をじっと見つめながら、宙を飛び続けた。彼の目には、何かを試そうとするかのような探求の色が浮かんでいた――。
「なんだ、会話をする気にはなったのか。『下郎と話なんかできない』みたいに言うかと思ったんだがな。」
桃谷は、軽く肩をすくめながらロゼリアに向かって挑発的な口調でそう言い放った。その声には、あからさまな余裕がにじみ出ており、どこか面白がっているような調子すら感じられる。
ロゼリアの顔に浮かんでいた困惑は、途端に激しい怒りへと変わった。赤毛のツインテールが揺れ、彼女の瞳には炎のような敵意が宿る。
「当たり前じゃない! 誰があんたなんかと話したいのよ!」
彼女は声を張り上げ、その小柄な身体を精一杯使って怒りをぶつける。桃谷を睨むその目は、まるで目の前の相手を焼き尽くすかのように鋭く輝いていた。
桃谷は、そんな彼女の反応に笑みを浮かべると、右手をわずかに上げた。次の瞬間――ロゼリアの身体はまるで見えない力に引き寄せられるように宙に浮かび上がった。
「きゃああっ!」
突然の出来事にロゼリアは悲鳴を上げる。その声が空間に響く中、彼女は激しく空中で振り回され、再び桃谷の隣へと戻された。地面に足が着くと、ロゼリアはふらつきながら姿勢を立て直し、震える声で桃谷を睨みつけた。
「……な、何するのよ!」
涙目になりながらも、その言葉には怯えよりも怒りが込められている。彼女の赤い瞳には決して屈しないという強い意思が宿っていた。
桃谷は、ロゼリアの脳内を読み取った。その中には彼に対する敵愾心がさらに強まっているのが明確に感じ取れた。それを確認した桃谷は、口元に小さな笑みを浮かべた。
「高所での恐怖心は抑制しているとはいえ、キミはとんでもなく気が強いな、驚きだよ。」
彼はその言葉に心底感心したような響きを込め、軽く肩をすくめて続ける。
「まぁ、少し荒っぽかったか。……ちょっと漏らしたようだが、悪かったな。」
その謝罪とも言えない軽口に、ロゼリアの怒りは頂点に達しそうだったが、同時に彼女自身の体力も限界に近づいていた。それでも、彼女の燃えるような敵意が揺らぐことはない。その気の強さに、桃谷は内心で感服せざるを得なかった。
「見てみろ、世界はとんでもなく広いだろう?」
桃谷はロゼリアが思わず漏らしてしまった汚れを、手早く痕跡も残さず消去した。とりあえず、怒りの炎を鎮めるために、世界の広さで彼女を感動させることにしたのだ。桃谷の持つ文明レベルであれば、心を直接作り変える手段も取れたが、それは最終手段として慎重に温存しておくつもりだった。確かに効率は悪いかもしれない。しかし、桃谷はこの試みを通じて、人の心がどのように動くのか、その本質を知りたかったのだ。
まるでデジタル音楽の便利さを捨て、わざわざアナログレコードの音を楽しむ心理のように。
ロゼリアは、ふとその言葉に押されるように周囲を見回した。未だ怒りは瞳に宿っていたが、その表情にはどこか微かな変化が現れ始めていた。口元の硬さが少しだけ緩み、心のどこかが揺れたのかもしれない。
「ここは……どこなの?」
彼女の声には、困惑とほんの少しの興味が滲んでいた。
「キミの国の上空だよ。ほら、あの下に見える小さなものが、キミの国だ。」
桃谷は肩越しに指を差した。
眼下に広がるのは、未開の平原やなだらかな丘陵、深い緑の森だった。地平線まで続く雄大な風景の中、ロゼリアが先ほどまで過ごしていた国は、まるで砂粒のように小さな集落にしか見えない。その広大な景色に、ロゼリアは一瞬息を飲んだ。目の前に広がるこの世界が、彼女の知る狭い現実を覆い隠すかのように存在していたのだ。
「何を言っているの? あの小さなものが、あたしの国なわけがないじゃない。」
ロゼリアは鼻で笑い、桃谷を嘲るような視線を向けた。その態度には、いつものように自信と高慢さが滲んでいる。
「まぁ、そうだろうな。」
桃谷は肩をすくめ、特に気にした様子もなく再び降下を始めた。音もなく降りていくその動きに、ロゼリアの態度が徐々に変化していく。眼下の景色が急速に拡大し、平原や森の中に、彼女がよく知る建物や町並みがはっきりと姿を現したのだ。
ロゼリアは息を呑み、言葉を失った。ただ呆然と、その景色を凝視するばかりだった。
「どうだ? キミの国だろう?」
桃谷は淡々と問いかけるが、ロゼリアは何も答えない。その瞳には、怒りと驚愕、そしてわずかな戸惑いが混じり合っていた。
桃谷は一度静かに高度を上げると、今度はロゼリアと並ぶように飛行を始めた。
「よし、ちょっと別の大陸に行ってみるか。」
彼の言葉と同時に、飛行速度は急激に加速した。風の音が唸り、二人は一気に海原を越えていく。ロゼリアは驚きのあまり声も出せないまま、目の前に次々と変わる景色に見入っていた。やがて海の向こうに別の大陸が姿を現す。
その沿岸部には大きな港が築かれ、金属製の軍艦が整然と並んでいた。さらに内陸には、4階建てほどの工業ビルが立ち並び、繁華街には人々が行き交っている。その全体が、煙を吐く工場や軍事施設とともに、活気と緊張感を漂わせていた。この星の表面的な文明としては、非常に発達した地域のようだ。
「俺の所属する帝国と比べるとまだまだだが、この星では進んでいる国だな。」
桃谷はその大陸を見渡しながら、淡々と解説を始めた。
「こ、これはなんなの? どこに来たの!?」
ロゼリアは目を見開き、混乱と興奮が入り交じった声を上げる。
「キミたちの大陸の裏側だな。」
桃谷は平然と答える。
「この国は侵略戦争を行っている。ライバルとなる国と激しく戦っている状態だ。おそらく、まだキミたちの大陸の存在には気づいていないだろうし、情報も得ていないだろう。」
その言葉に、ロゼリアの表情が一瞬硬直した。彼女にとって「自分の国」という枠の外に、これほどまでに異なる世界が存在するとは想像もしていなかったのだ。
ロゼリアの驚愕と困惑の入り混じった表情を見た桃谷は、興味深げに腕を組んだ。その姿には冷静な観察者としての鋭さが漂っていた。
「ふむ、いい反応だな。新しい衝撃的な知識を与えると、心を開きやすくなるか……。」
独り言のように呟きながら、桃谷は再び速度を上げて飛行を開始した。目標は、その国が行っている戦争の最前線だ。
しばらくすると、眼下には鬱蒼とした森林が広がり、その中で陣地を奪い合う戦闘の様子が見えてきた。兵士たちは分厚い木々の間に身を潜めながら銃火を交わしており、両軍が拮抗している様子が伝わってくる。そして、空中ではさらに激しい戦いが繰り広げられていた。複数の航空機が空を切り裂きながら飛び交い、制空権を巡って争っているのだ。
「面白い……。」
桃谷はその光景を眺めながら、興味深げに口元を綻ばせた。
空中の戦闘に参加している航空機は、2つの異なる種族の技術を反映していた。一方はエンジンを搭載した機械式飛行機。頑丈な金属のボディと力強いプロペラで空を駆け、音を響かせている。機体を操るのは、小柄ながら筋肉質でたくましい人型種族だ。その動きは直線的で、一撃離脱を狙う戦法が主な戦術のようだった。ただし、小回りの利きに欠ける点が目立ち、継続戦闘には不向きな様子だ。
対するもう一方の航空機は、念動力によって空を舞う機体だった。機械的な動力ではなく、操縦者の意志力によって直接制御されているらしい。金属のボディの中で操縦者たちは座禅を組み、集中力を研ぎ澄ませて機体を操作している。その操縦者たちは細身で繊細な印象を与える人型種族であり、動きは滑らかで流麗だ。最高速度では機械式機体に劣るが、縦横無尽に動き回り、機動戦で優位に立とうとしていた。
桃谷は両陣営の航空機が描く軌跡を目で追いながら、冷静に戦況を分析していた。
「なるほど……どちらも一長一短があるな。」
彼の声には淡々とした調子があるが、その内心には、新たな知識への探求心が燃えているのが見て取れる。
空中では戦いが熾烈さを増し、炎上した機体が煙を上げながら森へと墜落していく。それを見下ろす桃谷の視線には、どこか冷徹な鋭さと同時に、わずかな哀れみが漂っていた。
「あ、あれはなんなの? 空を飛んで、戦っているの? ワイバーンではなく?」
ロゼリアの声には、明らかな困惑と動揺が滲んでいた。彼女の瞳は、空中で激しく交錯する航空機たちに釘付けになっている。
「ワイバーン……飛ぶトカゲのことだな。」
桃谷は彼女の疑問に冷静に答える。その声は淡々としているが、彼自身もロゼリアの認識との違いを興味深げに観察しているようだった。
「キミたちの大陸の文明圏では、ワイバーンを飼いならし、航空戦力としているのだったな。まぁ、この大陸では、あれらの人工兵器がそれに置き換わっている。生き物ではなく、機械が戦空を支配しているんだ。」
桃谷がそう評していると、空を舞う機体の中で最前線を飛ぶ何人かのパイロットが、桃谷とロゼリアの姿を発見したようだった。地上から何千メートルも上空に、なぜか二人の人影が宙に浮いている――この明らかに異常な光景に、彼らは目を見張った。
「なんだ……あれは?」
目のいいパイロットたちが通信を通じて報告を交わし始める。桃谷の通信機には、その会話の断片が傍受され、聞こえてきた。
「こちらサンダーバード2、戦闘空域内で浮遊する二人組を確認。人型、武装の有無は不明。」
「……サンダーバード1でも確認。だが、なんの情報もない。あれは何だ?」
「異常だ。上空に人間が浮いているだと? 見間違いではないか?」
複数のパイロットが驚愕の報告を交わしつつ、念のために互いに確認を取っていた。どちらの陣営も同じ結論――「情報不足」――に達しているが、それ以上深追いできない。空中での戦闘が熾烈さを増しており、目の前の敵機から注意を逸らす余裕がないのだ。
その混乱は地上部隊にも波及し、双方の地上部隊に偵察班からの報告が飛び込む。地上の視線もまた、次第に空の二人へと向けられ始めた。謎の人影――戦場の異物に、好奇心と警戒心が入り混じった注目が集まる。
桃谷は冷静にその状況を見つめていたが、やがて軽く肩をすくめ、静かに言葉を発した。
「少し介入してみるか。」
「えっ!?」
ロゼリアは驚愕の声を上げ、桃谷を振り返った。その顔には明らかな恐怖と不安が浮かんでいる。
「ちょ、ちょっと待って! 何をするつもりなのよ!」
しかし、桃谷は特に彼女の反応を気にした様子もなく、少し口元を緩めながら答える。
「興味深いからな。彼らがどう反応するか見てみよう。」
ロゼリアはその言葉にさらに困惑し、必死に何かを言おうとするが、桃谷はすでに視線を戦闘空域に向け直していた。その姿からは揺るぎない意志が感じられた。
桃谷は静かにフードを被り直し、伸びたローブの袖口に手を隠した。その仕草はまるで儀式のようにゆっくりとした動きだったが、その袖口から突如としてカラフルな火花が散り始める。赤、青、金――鮮やかな光の粒が空中で弧を描き、次第に数を増していく。それらは生き物のように空を飛び交い、やがて航空機や地上の兵士たちへと降り注ぎ始めた。
桃谷はロゼリアを伴い、迷うことなく戦域の中心へと突入する。その動きは優雅で冷静、そして異様なまでに静かだった。しかし、彼らの登場は戦場全体に新たな緊張を生み出した。
この星には恒星が無いため、空はここでも、夕闇が再現されていた。しかし、桃谷が放つ火花がその一帯を昼間のように照らし始める。光は雲間を切り裂き、目の前の戦場を鮮烈に浮かび上がらせた。その光量は圧倒的で、あまりの明るさに兵士たちの目が眩み、戦闘機のパイロットたちが操縦に苦労するほどだった。
「な、なにをしてるのよ!?」
ロゼリアは恐怖と困惑が入り混じった声を上げ、桃谷の隣で叫んだ。彼女にとって、この状況は理解不能なものだった。
桃谷は視線を戦場に向けたまま、落ち着いた声で答える。
「光を当ててるだけさ。誰も殺さない――それが肝心だ。」
彼の口調は淡々としていたが、その言葉には冷静な計算が滲んでいた。
光は降り注ぎながら地面や機体に触れるが、それは破壊を伴わない。ただ周囲を一層明るくし、兵士やパイロットの動きを照らし出すだけだった。
「誰も殺さなければ、俺の戦闘能力は見誤られるだろうな。」
桃谷は独り言のように続けた。その目には微かな鋭さと意図が宿っている。
「見誤らなかったやつ、見誤ったやつ……どちらにしろ利用価値がある。」
ロゼリアはその言葉に呆然とし、ただ桃谷を見上げるばかりだった。目の前の状況と彼の言葉があまりにかけ離れているように感じられたからだ。しかし、桃谷の声には確かな自信があり、その行動には一片の迷いもなかった。
光の中で、混乱する兵士たちとパイロットたちが次々と通信を交わしている。
「……何だこの光は? 敵の新兵器か?」
「被害はないが、視界が……!」
「全員、慎重に行動しろ! この光に近づくな!」
混乱が戦場全体に波及する中、桃谷は光の中心で、静かに次の一手を考えていた。
「あまりに被害が無くても、戦場伝説扱いになりそうだな。」
桃谷は軽く苦笑しながら呟いた。その声はどこか楽しげで、緊張感に満ちた戦場の空気とは対照的だった。
「よし、航空機は落としておこう。」
彼の右袖から、光の網がゆっくりと広がり始める。その輝きは一瞬で戦場の空を染め上げ、まるで生命を持ったかのように滑らかに動き出す。
桃谷は光の網を広げたまま、両軍の戦闘機の間を軽やかに飛び交った。そして、次々と航空機を捕えていく。網に捉えられた機体は、その力場によって完全に保護され、どれ一つとして破壊されることはなかった。しかし、その機体を失ったパイロットたちは、混乱と恐怖に陥り、通信が飛び交い始めた。
「な、なんだ!? 網に捕まった……!?」
「敵だ! 新兵器だ! いや……どちらの軍でもないぞ!」
「視界が取れない、状況が不明だ! 全機、回避せよ!」
短時間で両軍の戦闘機はすべて捕えられ、空中も地上も通信の混乱が極みに達した。その様子を見ながら、桃谷はふと静かに呟いた。
「偉大なる先人たちよ……受け継がれしすべての知恵に感謝いたします。」
彼はそのまま低空飛行に移り、それぞれの軍の陣地へと接近した。そして、網に捕らえられた航空機のパイロットたちを、機体から分離させると、正確にそれぞれの陣地へ投げ落とした。パイロットたちは光の網をすり抜け、地面に転がり落ちたが、怪我一つない様子だった。
「な、なにをしてるの!? なにを!?」
ロゼリアは状況を理解できず、叫ぶように問い詰めた。彼女にとって空を飛ぶという行為自体が初めての体験であり、ましてやこの奇妙で圧倒的な行動の意味など、まったく想像もつかなかった。
桃谷は、ロゼリアの問いを無視するように、冷静に網に機体だけを残して高度を上げていった。
しかし、その時だった――戦域から少し離れた方向から、一閃の光線が桃谷を狙い飛んできた。彼はそれを即座に察知し、優雅に身をかわす。その動きは計算され尽くしたような自然さで、光線は虚しく空を切った。
「ほう……。」
桃谷は軽く笑みを浮かべると、今度は袖口から白い光の弾を放った。それはこれまでのカラフルな火花とは異なるもので、より強い威圧感を放っていた。
光の弾は森の一角、先ほど光線が放たれた地点に着弾し、小さな爆発を引き起こした。煙と火花が一瞬だけ立ち上ったが、桃谷はそれを顧みることもなく、そのまま静かに離脱を続けた。速度を上げ、ロゼリアを伴いながら、元の大陸へと戻り始める。
「ふむ、最後のあれは、さっきの国々の文明レベルを超えたレーザーだったな。」
桃谷は通信機を操作し、ハルミに呼びかけた。
すると、通信の向こうからハルミの声が響く。
「同感やね。そんなに高度なものやないけど、自動照準付きの携行レーザータレットやったで。スキャンしたら、箱の中に隠れてたみたいやな。」
「ふむ……どちらの軍だ?」
「細い方の種族やな。念動力で飛ばしとる方や。技術体系はまるで異なるで。」
ハルミの冷静な分析に、桃谷は短く頷いた。
「なるほど。手の内を少し見せてもらったな。」
桃谷の声には、どこか静かな満足感が含まれていた。そして、その目にはすでに次の行動を計算するような光が宿っている。
「ハルミ、携行レーザータレットが全力だと思うか?」
桃谷はすでにロゼリアの国へと戻り、明日の戦場になりそうな広大な平原に足を踏み入れていた。先ほど鹵獲した航空機たちは整然と並べられ、その異様な光景が静寂の中で不気味な存在感を放っている。ロゼリアは疲れたのか、離れた所でへたり込んでいた。
通信の向こうからハルミが即座に答える。
「いいや、あれは量産品やろうね。」
彼女の声は落ち着いているが、どこか冷静な分析者の鋭さが漂っていた。
「俺たちを探るために、低レベルの技術をあえて出してきた可能性は?」
桃谷は鹵獲した航空機の列を見渡しながら、さらに問いを投げかけた。その口調は慎重そのもので、相手の意図を見極めようとする意志が明確だった。
「いや、事前に用意されとったわけやないと思うわ。」
ハルミの声には確信が感じられる。
「あの箱、中身はスキャンできへんかったけど、前からあそこに持ち込まれとった。他の目的のために設置されてただけやないかな。」
桃谷はその言葉に一瞬考え込んだ。
「俺たちの文明レベルを探るために、使用を許可した可能性は?」
「うーん……何とも言えへんな。」
ハルミが少し考えるように間を置いてから答える。
「ただ、今は脅しで撃ち返された光弾にビビッて、逃げ出しとる感じやな。傍受した射撃の指令通信は『未確認飛行物体を神器で撃て』って内容やったで。」
桃谷はその言葉を聞いて、低く唸った。
「神器、か……。そういう言い回しを好む攻撃的な先進文明はどこだ?」
今度はハルミが少し困ったように黙り込む。しばらくして、慎重な口調で答えた。
「情報が足りへん状態でピックアップしても、余計な先入観になるだけやない?」
「それもそうだな。」
桃谷は短く頷きながら、並べられた航空機を再度眺めた。夕闇に沈みかけた平原の中で、それらは異質な存在として沈黙している。
「タレットの構造スキャンから、該当文明を特定する手がかりは得られないか?」
「それも、今んとこ難しいな。」
ハルミの声には申し訳なさが滲んでいるが、冷静な分析を続ける。
「構造がめっちゃ簡素やねん。完全に合理化された量産品や。正直、データが足りへんから、どの文明のもんかまではわからん。」
桃谷は腕を組み、しばらく考え込む。
「量産品か……。しかし、合理化された技術である分、背後にある文明の質は侮れないな。」
その声には慎重さと警戒心が含まれていた。
一帯に沈黙が広がり、桃谷は並べた航空機たちの間をゆっくりと歩き始めた。その足音は小さく、平原に響いていく。
「レーザータレットが俺たちを狙っていないとした場合、本来の目的は何だったと思う?」
桃谷は、平原に並べられた航空機を一瞥しながら問いかけた。その目は、目の前の状況を冷静に分析しようとする鋭い光を宿している。
「使った彼らの脳はスキャンできるか?」
さらなる問いを重ねる桃谷に対し、通信の向こうでハルミが即座に答えた。
「航空機は撃ち落とせるし、人間に撃っても即死やと思うわ。あのレーザータレットは単純直線射撃専用やから、曲射とかはできへん仕様やな。森の中に設置されとったから、対人やなくて航空機対策やないかな?」
ハルミの声には冷静さがあったが、その背後には慎重な思考の跡も感じられた。
「今、母艦から探査用の子機を向かわせとる。あと十分もしたら接近スキャンで使っとった奴らの脳味噌を丸裸にしたるで。」
だが、桃谷はすぐに手を上げてそれを制止した。
「いや、それはやめておけ。」
彼の声には静かながら強い意志が込められていた。
「子機中継で逆ハックされても困る。母艦も含めて、軌道上から退避させろ。高次文明が潜んでいる可能性があるなら、即座にプランをすべて切り替える。」
その言葉に、ハルミが短く息を飲むのが通信越しにもわかる。だが、彼女はすぐに気を取り直し、応じた。
「ホンマやな……ウチとしたことが、ちょっと軽率やったわ。恥ずかしい限りや。」
彼女の声にはわずかな自嘲が滲んでいたが、即座に続ける。
「わかった、母艦を軌道上から退避させるわ。高次文明対応のプランに完全移行するで。」
桃谷は短く頷き、静かに視線を地平線へと向けた。夕闇が迫る空の下、彼の瞳には何かを見通そうとする強い意志が浮かんでいる。
大嘘である。
ハルミは失敗などしていない。むしろ、彼女の手際は完璧そのものだった。惑星の軌道上から母艦を退避させつつ、彼女は次の手を確実に進めていた。
惑星の表面上の存在は、ほぼ軌道上からのスキャンで把握されている。この文明の技術レベルでは、スキャンが不可能な物品など存在しない――むしろ、それこそが要注意対象であるとハルミは理解していた。
事実、スキャン不能な箱から、周辺の文明レベルを超越したレーザータレットが出現した瞬間、ハルミと桃谷は即座に判断を切り替えていた。
「高次文明がこの惑星に潜んでいる」。その仮説を軸に、新たなプランが展開される。
以降の行動には、慎重に設定された制限が課される。惑星に投入する技術レベルは極力抑えられ、桃谷を含め投入されたものは全て回収しない方針だ。そして、こちら側の存在を隠し通すためには、“適度な愚かさ”と“失敗の演出”が欠かせない。すぐに子機を投入しようとしたのもその一つだ。
ハルミ――機械生命体として母艦の中枢と一体化した彼女は、淡々と後方へビーコンを発射した。それは、定期的に射出される報告用の装置だ。本国には既に経過報告を送信済みだが、ビーコンにはこれまでの詳細な経緯が詰め込まれている。受信が遅れた場合でも、適切な報告と指示が下されるように設計されているのだ。
そして、ハルミが今、準備を進めているのは『支援物資』だ。もちろん、本物の物資ではない。
投下ポッドには低級なエンジニアリングマテリアルのインゴットが積み込まれている。これらは、ビーコン付きケースに収められ、絶妙な調整のもと惑星の大気圏突入に『失敗』するよう設定されている。
ポッドは空中分解し、回収困難な山中や海中に落下する予定だ。回収されても、破壊されても、無視されても――いずれの場合でも情報を得られるよう細心の計画が練られている。
ハルミの動きは止まらない。無駄のない思考と行動が交差しながら、彼女の人工的な神経網は常に惑星全体をスキャンし、状況を俯瞰していた。惑星の未知の存在が何であれ、こちら側が主導権を握り続ける。そのためには、失敗さえも一つの「戦術」として利用するのだ。
「ハルミ、プランAG3-SG5-0016に基づいて、支援物資を投下してくれ。」
桃谷は通信機越しに簡潔に指示を下した。その声は平静そのものであり、指令を伝えるだけの無駄のないものだった。
「準備中やで。」
ハルミの軽快な返答が返る。
「投下先、そこの近くの平原でええかな?」
通信越しのやり取りには、事前の打ち合わせの欠片すら見られない。それでも、両者の間にある共通理解が、わずかな言葉のやり取りで全てを進行させる。
「そうだな、それで頼む。」
桃谷は軽く頷くと続けた。
「到着まで十分ぐらいか?」
「そんなもんかな。何か特定の希望物資ある?」
ハルミの声には相変わらず余裕が漂っている。投下準備が粛々と進められる中、彼女は予定を確認するように軽く問いかけた。
桃谷は短く息を吐き、冷静に応じた。
「いや、特にはない。計画通りのものを頼む。」
プランAG3-SG5-0016――。それは、桃谷の出身惑星である地球の民間怪談に基づいた暗号計画だった。
「ひらがなのア行3番目(AG3)、サ行5番目(SG5)」。その文字を繋げると『ウソ』になる。高次文明相手の高度な情報戦術として考案された符号だ。
高次文明が持つ技術力は侮れない。彼らは記憶のスキャンや、わずかな会話の断片から他言語の翻訳を成立させる能力を持つ。単なる会話から情報を盗み取られるリスクが常にある中、この符号は巧妙な仕掛けとして機能する。
例えば、**「あいうえお」「かきくけこ」**といった文字そのもののルールは、高速翻訳の仕組みだけでは解明されない。
頻出する単語や文脈から翻訳を成立させていくシステムは、文法ルールは分析できても言語そのもののルールはわからないからだ。
もし符号が漏れた場合、それはどこかから記憶の読み出しが行われたという確たる証拠になる――すなわち、敵がどこまで侵入してきたかの境界線を判定する指標となるのだ。
また、現地にいる桃谷自身も、この情報戦の一端を担っていた。
彼の記憶はあらかじめ改変されており、例えば「日本語」の文字体系である「あいうえお」に関する認識や欺瞞作戦への記憶は完全に書き換えられている。これにより、万が一桃谷の記憶が直接スキャンされた場合でも、相手のスキャンや侵入が母艦の記録にまで到達できたかどうかを確実に判定できる仕組みになっているのだ。
ハルミの声が通信機越しに響く。
「ほな、支援物資の準備完了や。投下先の最終座標、これでええな?」
彼女の言葉には、すでに確信が込められている。投下予定のポッドには「支援物資」として、低級エンジニアリングマテリアルのインゴットが詰め込まれている。だが、それは実際の支援物資ではなく、情報戦のためのトリガー装置だった。
「問題ない。」
桃谷は通信機に短く返事を送る。以降、このやり取りはさらに偽装色を強める予定だ。すべては高次文明に対する欺瞞行動の一環であり、その綿密さは常に最優先される。
ハルミは母艦内で着々と準備を進めながら、心の中で淡々と計算を続けていた。もし敵が支援物資を回収すれば、あるいは破壊すれば、その行為そのものが情報の端緒となる。そして、それを見落とすことは決してない。
惑星上に降り立った桃谷と、軌道上からすべてを見守るハルミ。彼らの目に見えない情報戦は、静かに、だが確実に進行していた。
母艦から放たれた投下ポッドが、惑星の大気圏へ向けて射出された。ポッドは設計通りの理想的な軌道を描き、静かに雲海に突入していく。しかし――。
分厚い雲層を突き抜けるその途中、予期せぬ問題が発生した。激しい雷雲がポッドを包み込み、稲妻が立て続けにその外殻を打ち付ける。瞬く間に損傷が広がり、ポッドの一部が破損。軌道が狂い始める。
さらなる落雷が追い打ちをかける中、ポッドは空中分解を始め、中に詰め込まれたインゴットケースを次々と吐き出していった。煌めく金属片と破片が火を噴きながら、惑星の空を舞い散る。大気圏の中で巻き起こる壮大な失敗劇――だが、それは見事に計画の範囲内だった。
通信機から、どこか申し訳なさそうなハルミの声が響く。
「ご主人、ごめん。突入失敗したわ。投下ポッドに落雷で損傷があったみたいや。」
桃谷はふむ、と短く唸りながら、燃え盛る破片が雲の切れ間から次々と降り注いでいく様をじっと見上げていた。彼の顔に動揺の色はない。むしろ、何かを確かめるような冷静さが漂っている。
「だいぶバラバラになったな。」
桃谷は呟くように言い、落下する破片の行方を見つめながら続けた。
「回収は容易そうか?」
通信機越しに少しの沈黙が流れる。やがて、ハルミが慎重な口調で応じた。
「いや、どれもあんまりえぇとこに落ちへんな。平原でもなく、山中や海中ばっかりや。……しゃーないな、もう一回送るわ。」
桃谷は軽く頷き、短く答える。
「あぁ、頼む。」
投下ポッドの中身が広範囲にばら撒かれたことで、この惑星に新たな「撒き餌」が振りまかれた形となる。それぞれのケースがどのように扱われるか――回収されるのか、破壊されるのか、あるいは完全に放置されるのか――その全てが、ハルミの計画に組み込まれている。
桃谷の視線の先、地上へと降り注ぐ破片とケースが、火の粉を散らしながら次々と姿を消していく。
「……派手に飛び散ったな」
桃谷は、一人ごちるように呟いた。視線の先では、燃え盛る破片とケースが地上へと散らばっていく。その表情には、目の前の状況を冷静に受け入れる色が浮かんでいる。彼にとって、ただの物資投下の失敗――そう思わせるだけの記憶しか残されていないのだ。
通信機越しに、ハルミの静かな声が届いた。
「ご主人、追加の投下準備が整っとる。再投入はあと数分で可能やで。」
その口調は淡々としているが、裏には計算された意図が隠されている。通信が傍受される可能性を意識した、無駄のない報告に徹しているのだ。
桃谷は、ハルミの言葉に短く頷く。
「あぁ、頼む。」
それ以上の言葉は不要だった。彼の中では、支援物資が単に失敗しただけという認識であるため、それ以上深入りする理由もなかった。
母艦内のハルミは、通信を切ると同時に冷静に次の手を進めていた。全ては計画通りだ。投入された支援物資の一部が失敗し、地上へばらまかれる――その一連の流れこそが「偽装プラン」の要であり、桃谷の知らないところで進行している作戦の本質であった。
今度は、投下された支援物資は計画通り平原に着地した。桃谷は赤毛の少女ロゼリアを伴い、慎重に物資の回収を終えると、地上に設置した簡易拠点へと戻った。拠点は国の上空に静かに浮かび、その存在を地上から窺い知る術はない。
地上では労働ボットが稼働を始めていた。支援物資に内包されたマテリアルを用い、効率よく自身の複製を生産していく。機械仕掛けの労働者たちは黙々と作業を続け、拠点の基盤をさらに強固なものへと拡張していく。
明日になれば、隣国の軍がこの地に到達するだろう。桃谷にはその動きを封じるための行動計画が既にあった。だが今は、動くべき時ではない。
簡易拠点の薄暗い室内。桃谷は部屋の灯りを静かに消し、一人で隅に座り込んだ。
暗闇の中、無音の空間に彼の気配だけが漂う。彼の脳裏をよぎるのは、過去の記憶――戦争で殺した者たちの顔や、耳に焼き付いた叫び声、吐き捨てるような言葉の数々。
彼らはどれも同じだった。死の直前に表れた絶望と恐怖の色。その多くが正義を信じて戦った者たちだった。かつて彼もまた同じように戦った――守るために、奪われたものを取り返すために、命を懸けて戦場に立った。それが唯一の道だったのだと、何度も自分に言い聞かせてきた。だがその記憶の重みは、今も彼の心を蝕み続けている。
眠ることはない。彼のボディは眠りを必要としないよう設計されているため、疲労が行動に影響を与えることはない。だが、眠らないことで押し寄せてくるのは、絶え間なく続く暗い思考だった。
桃谷はわずかに震える手で膝を抱え、顔を伏せた。その心の中は、冷たく暗い闇に満ちていた。光の一切届かない深淵――それが彼の今の心境そのものだった。
明日が来れば、また戦いが始まる。その準備は既に整っている。労働ボットが築き上げる拠点、計画された行動、全てが彼を支える道具だ。だが、それを使うのは桃谷自身であり、そこに心の安らぎはない。ただ義務感と覚悟だけが彼を突き動かしていた。
目を閉じることなく、桃谷はそのまま時間の流れを感じていた。自らに押し寄せる暗い思考を拒む術もなく、ただ明日の行動開始を待つ。その孤独な姿は、静寂の中でどこか壊れかけた彫像のように映っていた。
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