1 ナナシのナナセくん

 これ以上迷惑はかけられない。

 だから高校は、今まで僕が住んでいたところから少し遠方の進学校に通うことにした。そうして、親元を離れて高校の寮に入ったのが、早一か月前のこと。

 五月のこの時期になっても尚。

 結論から言うと、高校にも、寮にも、僕は全く馴染めていなかった。


 あんなに美しかった通学路の桜並木は、もはや見る影もなく、今では青々とした真新しい葉に、そよ風が当たって揺れていた。

 四月はギクシャクしながら歩いた、寮から学校までの道のりも、不格好に着こなしていたパキッとしたブレザーの制服も、今は何でもないものになった。

 僕が通っている私立鹿治華学園(通称シカ学)は、謎に小高い所に学園を構えており、整備されているから本来よりはましなのだろうが、ずっと緩やかな坂道を歩かなければならない。

 そんなプチ僻地ともいえようものなのに、シカ学は以外にも、地元では有名なマンモス校として名をはせていた。どうしたってみんなこんなところに、と言いたくなるが、僕もそのみんなに含まれるからこの話は一旦終わりにしよう。

 校門を通り、靴箱で学校指定の上履きに履き替えた。

 一年生のクラスは一階にある。僕のクラスは一年一組、そのままそこを目指す。

 長い廊下を歩く間、『ナナシのナナセくん』という言葉が笑い声に乗って聞こえてきた。

 これは僕のことを指す。正直あまりピンとは来ていないけれど。


 一年一組の教室のドアを開けた。

「おはよう―」

 目の前に、人が立っていた。

「おはよう、七星君」

 それはこのクラスの委員長、佐山さんだった。僕が「おはよう、委員長」と言うそれより前に、佐山さんは細いフチの眼鏡を一度クイっとして、

「七星君、あのね。キミ、今日からこのクラスじゃないの。後は先生の指示に従ってね」  ぴしゃん。

 そう言って、僕の鼻先寸前、今しがた僕が開けたドアは佐山さんによって閉められた。



 薄々馴染めていないと感じていたけれど、今日、僕は初めて教室に入ることも許されなかったのだった。

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 七星と書いてナナセと読む。

 その名前のせいではないけれど、小さいころは空ばかりを見上げていたらしい。

  何事にも興味が薄く、朝から晩までボーッと空ばかり見ているものだから、大人たちはほとほと困り果ててしまったとよく聞かされた。 

 何度病院へ担いで行っても結果は異常なし。「ただ空が好きな子です」と医者が言った時、それならばと雲や星座、宇宙に関しての図鑑を買い与えてくれたが、それにもあまり手をつけず(多分探せば今もきれいな状態で残っているはずだ)。

 僕は空だけにしか興味を示さなかった。

 何を与えても興味が空から移らず、同年代の子ともあまり遊ばず、口も利かずで、僕は次第に孤立していった。


 でも、実のところ、昔のことはほとんど覚えていない。ぽっかりと抜けている。

 何処そこに行ったのが楽しかったとか、小学校で学ぶ国語の教科書の内容とか、小さい頃の思い出といったらこれということや、『ナナシのナナセくん』のあだ名の所以とか―。それらの一切を、僕は思い出せない。

 ―まさかずっと空だけを見ていたわけではあるまいなと、時々考えてはゾッとする。

 空の何がそんなに僕を執着させるのかは分からないがしかし。今振り返ってみると、それは友達に嫌われるはずだと思うし、そんな奴が高校でうまくいくはずもないとはわかっていた。

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