過去 2

 そんなある日、男が目の前に現れた。男はミコを廊下で見つけると、「やあ」とまるで昔の友達に会ったかのように手を上げた。

「おじさん、私が見えるの」

「そうだよ。君がミコちゃんかな」

 男は廊下に佇むミコに歩み寄るとしゃがんで目線を合わせた。優しそうな表情を浮かべているのは分かる。だが、顔が認識できない。顔があるのは分かるが、それが情報として魂に入ってこないのだ。

「ママに会いたいんだね。家に帰りたいんだね」

 ミコは頷いた。

「じゃあ、おじさんがいいことを教えてあげよう。」

男は優しい笑みを浮かべた。

「ミコちゃんは他の人の中に入れるんだよ。だから、ミコちゃんのお友達の中に入ってお母さんと一緒にくらそう。幸せになろう」

 ミコは男に教えられたとおり、団地に入居した母子家庭の家族の部屋に入ることにした。

 ドアは閉まっているが、ミコはそれをすり抜けて部屋の中に入る。

 ミコの目の前にぐっすりと眠っている母娘がいた。ミコと同い年くらいの女の子だ。

 幸せそうな、何の心配もなさそうな顔で眠っている。

 その子の頭に近づくと、簡単にその子の中に入ることができた。久しぶりの体だ。温かい。感覚がある。

 ミコの中に幸せという感情が久しぶりに復活した。


 ミコは今までにないくらい幸福だった。そのお母さんは優しく、懸命に女手一つで女の子を育てていた。その日々は忙しないながらもしっかりとした愛情に裏付けされたものだった。ミコの脳内でたまに、「元の子」の悲鳴がきこえたが、無視した。

 可哀そうな気もしたが、あの地獄の様な世界に戻る気はしなかった。

 女の子は幼稚園へ通わせてもらっていた。人間の体に入ればミコも団地の外へ短時間なら出ることができるようだった。幼稚園ではお友達が優しく遊んでくれた。


 しかし、その幸福も終わりが来る。

 お母さんがある日、ミコを酷くしかった。前の人生での習慣で、ミコはつい友達のものを取ってしまうことがあった。


 そのことで酷く叱られた。

「そんなことする子は家の子じゃありません」

 ミコはそのお母さんの言葉を聞いた途端、何か嫌なものが自分の中を駆け巡ったのが分かった。何かがおかしい。昨日までの幸福が音を立てて崩れていくようだ。今まで感じていなかった不快感で体が震えた。

 そうだ。この女の人もほんとうはミコの本当のお母さんじゃなかった。本当のお母さんならこんなひどいことミコに言わない。ミコを嫌いにならない。

 ミコの中で何かが膨れ上がり、足元から灰色の水が溢れだしたのが分かった。お母さんだった女の人は悲鳴を上げ、ミコから溢れだした水の中に腰を付き、そのまま消えた。

 ミコが女の子の体から出ていくと、女の子の体はミコから溢れだした水の中に倒れ伏し、同じようにその中へ消えていった。


 それからは同じことの繰り返しだった。お母さんになってくれそうな人の所に行き、娘の体に入る。でもいつかはその生活に終わりが来てしまう。いつしか、ミコがいるタンクの中の世界は広がり、無限に広がる広大な水の世界と化していた。その中に今までミコがこちらに引きずり込んだ無数の母と娘が浮遊している。

 やめようかと思うことはない。しばらくすると、胸が悲しさと寂しさで胸が締め付けられるのだ。

 

 やがてミコの姿は人間とはかけ離れたものになった。緑色のからだ。まだらに落ちた髪の毛。見ようによっては水死体にも河童のようにも見える。だが、どうでもいい。どうせ、ミコに気が付く人間なんていないのだから。

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