ブルーブラックの憧れ

芹沢紅葉

第1話

「書けなかった?」

「はい。一文字も」

 今回対談することになった世間をにぎやかせる目玉の男は笑顔で答える。インタビューに来た男も、その受け答えは予想していなかったようで、これは面白い取材になりそうだと身を乗り出した。

 インタビューに答える男は、黒木くろきと言った。つい最近、新人賞を取った二十二歳の大学生で、ちまたでは先進気鋭せんしんきえいの小説家とささやかれている。そんな彼は、かつての自分を振り返った時に、一文字も書けなかったと言った。

「僕、物語を書くなんてしたことなかったんですよ。ネタはあったんですけど」

「では、初めて書いた物語で受賞された?」

「はい。そうなります」

 彼のまだ唯一しかない作品は、冒険心をくすぐられる表現が多彩で、読んでいるうちに引き込まれてしまう。気が付けば長い旅を終えたような読後感が、人気にんきはくした。

 それをインタビュアーも味わっているから、思わず感心して言った。

「では、文才があったということですね」

「いえ、僕には書く才能なんてないと思います。憧れてはいましたけど」

 じゃあ、どうして今回こんな経緯を辿ったのか。不思議に思ったインタビュアーの表情から察したのか、黒木は少しはにかんで言った。

「教わったんです。大事な人に」


 常に持ち歩いていた大事なノートをどこかに落とした。誰にも中を見られたくない一心で、放課後の校内中を駆け回る。

 静けさのある廊下を行ったり来たりしていると、遠くから笑い声が聞こえてきた。思わずビクッと肩が跳ねる。

 僕の下手くそな字を読解できるような人なんていないだろうとは思うけれど、万が一がある。もしも、中身を知られたら大事おおごとだ。だけど、ノートはどこを探しても見つからない。ノートのことを知られたくなくて焦った僕はきっと挙動不審に見えたのだろう。声のする方向からやってきた、通りすがっていく女子生徒たちが気持ち悪そうに僕を見て、足早に教室へと入っていった。

 四月の中旬に、まだ大きめの制服に着られている感が否めないのは仕方ない。だって、中学校に入学したてだ。だからこそ、まだノートの存在自体を知られたくなかった。あれは僕の全てが詰まったものであり、同時に、秘密だ。

 図書室に行ったときはまだ持っていた、と思い出す。今日の社会科で調べ物をした時に行ったから、もしかしたら。そう思って僕は別館の一階にある図書室へと向かう。人気ひとけの少ない廊下を走って、戸を開くと図書委員らしき一人の女子生徒がいるだけで、後は誰もいなかった。

 その生徒も僕をチラリと見るだけで、別に声をかけたりしてくるわけではない。この学校では、勉強するために図書室を使うような生徒がいないのだろう。

 僕は授業で使った席の辺りを探してみたけれど、ノートは見つからなかった。ここじゃないなら、後は思いつく場所はない。どうしよう、と項垂うなだれる。こうなったら、いっそ聞いてみるしかない。僕はカウンターにいる女子生徒に声をかけた。

「すみません。ノートの忘れ物とか、知りませんか?」

 彼女の胸元についている名札には、青羽あおばと書いてあった。ショートヘアの、真面目そうで大人びて見える雰囲気からして、三年生の先輩だろう。彼女は暇そうに読んでいた本から顔を上げて、僕を見る。その眼光の鋭さに、ドキリとした。物静かな空間を更に冷たいものにさせるような、厳しさを感じ取れる目だ。僕自身を観察しているようにも見える。彼女は喋らなかった。

「あの、」

 僕がおずおずともう一度問いかけようとすると、彼女はそっとカウンターの中をごそごそと探る。そして、一冊のシンプルな大学ノートを出してくれた。僕のノートだ。そのノートを持つ彼女の細長い指は、滑らかに曲線を描いている。

「よかった……! ありがとうございます」

 それを受け取ろうと手に取るけれど、彼女はノートから手を離さなかった。この柔らかそうな手が力強くノートを掴んでいた。僕が戸惑っていると、彼女がゆっくりと口を開く。

白亜はくあの城に閉じ込められた姫を助ける話」

 その瞬間は、心臓が止まったかと思うくらい長く感じた。僕は彼女の冷ややかな視線に、背筋が凍る心地を覚えながらも恐る恐る問う。

「え……、なんで、それを」

 彼女はそこで手を放す。にこりともしてくれないことが、余計に僕を強張こわばらせる。彼女も、僕の名札を見てから告げた。

「そのノート、ネタ帳よね。黒木君」

 終わった。僕の妄想という弱みを握った彼女は、淡々と告げる。僕はというと、泣きそうだった。そう、このノートは僕の大事な、物語を練ったネタ帳なのだ。他の人には見せられないけれど止められないことから、現在進行形の黒歴史となっている。

 あの汚い字を読めたのか? 恐ろしい人だ。僕は立ち去ろうと決めて、図書室の扉へと向かう。

「面白い話ね」

 ピタリ、と足が縫い付けられたかのように止まった。振り返れば、彼女はじっと僕を見ていた。そして、静かに呟く。

「文章力はあやしい。単語の羅列が多くて、まとまりがない。でも、話としては出来ていると思う」

 僕は、そんなことを言ってくれる人に初めて出会った。思わず、尋ね返す。

「面白い、ですか?」

 彼女は少しの間、黙っていた。そして、おもむろに一枚の紙をカウンターの上に乗せる。僕はそれがなんなのか気になって、カウンターの前に戻っていくと覗き込む。

 そこには、ブルーブラックのインクで書かれている綺麗な字が並んでいて。読んでいくと、小説になっていた。しかも、僕のイメージしていた物語が、そこにはあった。息を吞む。理想そのものの文章だった。僕はその紙から目を離せずにいる。その物語は途中までだったけれど、とても美しい描写で世界が描かれている。

「これを書いたのは」

「私」

 クールビューティーとは、彼女のような人のことを言うのだろう。彼女はそれ以上何も言わなかった。でも僕は、この時すでに決めていた。見つけたと思った。溢れるインスピレーションを形にしてくれる、そんな存在を。

 誰にも言えない、秘密を共有してくれる人であるようにと願いながら、僕は彼女に聞く。

「あの、青羽……先輩」

 彼女は何も言わない。僕の言葉を待っている。それに、少し期待してしまうのは僕が悪いのだろうか。

「この話を、書き上げてくれませんか」

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