第五章 巫女の一手
第二十一話 本戦二日目
夜明け前の雨が庭の草花を濡らし、とりわけ庭園の紫陽花を一層美しく見せる朝だった。
「ごちそうさまでした」
他の地域代表にあてがわれた大部屋から離れた、八意の部屋。手を合わせ、八意と重治は唱和した。
本戦一日目は危なげなく勝ち進み、八意と重治、勝彦は八強に名を連ねることができた。交流会で八意と重治に絡んできた酔っぱらい二人は、早々に敗退したらしい。嫌な思いをさせられた八意としては胸がすっとせずにいられなかった。
まあ、そこはいいのだが。
三人揃って二日目を迎えることができるのだと喜びながら、部屋に運ばれた膳を八意が食べようとしたとき。あてがわれた部屋で勝彦たち他の地域代表と一緒に食事をするはずの重治が、膳を持って八意の部屋にやってきた。
『賢木さんは一人だから、さみしいと思って』
もちろん、八意は面食らった。普通、そう簡単に異性の部屋へ入ろうとしないものだ。
だが八意は重治が同い年の異性というより、頼りない弟のように思えてならないのだ。心遣いを断ることなどできるわけがなかった。
そして本戦二日目の今日も朝から重治はやってきて、八意は二人で朝食を食べることになった。
『なんで今日もお前が八意ちゃんと一緒に食べてるんだよ。そりゃ一人で食べるのはさみしいけどさ! 俺も一緒に八意ちゃんと食べたかった!』
そんな文句を言う圭太に膳を下げてもらったあと。重治は【晴宗】と【晴邦】に視線を向けた。一目見てすぐ特別な品々だとわかったようで、昨夜もずっと気にしていたのだ。
【千仙堂】で働いてるんだもんね……【晴宗】と【晴邦】がどれだけすごいものか、知ってるよね……。
それに【晴宗】の盤上には、八意が昨夜研究していた局面が並べられているのだ。気に留めずにいられるはずもないだろう。
八意が着物の帯にお守りを入れた翡翠色の巾着の紐を差し入れて身支度を整えても、まだ重治は熱心にじっと盤面を見つめている。八意はつい苦笑した。
「神部君、そろそろ行かないと遅刻しちゃうよ」
「……だね」
八意を見上げ、重治は照れ臭そうな顔をすると立ち上がった。
「行こう、賢木さん」
「うん」
頷くと八意は翡翠色の巾着にお守りをしまい、着物の帯に巾着の紐を差し入れて身支度を整えた。
廊下へ出ると、大部屋から他の地域代表たちも出てきたところだった。勝彦が八意と重治に気づく。
「おう賢木、神部。お前らも食べ終わったか」
「はい。おはようございます、三岸さん」
「おはようございます。あと、他の皆さんも」
「おお坊主、ちゃんと挨拶できて偉いぞ」
八意に続いて重治が挨拶すると、高齢の地域代表は相好を崩してがしがしと重治の頭を撫でた。痩身の割には力が強いのか重治は目を白黒させているが、どこか嬉しそうだ。もはや祖父と孫である。
勝彦は苦笑した。
「悪いな、今日もそいつを止められなかった」
「いえ、昨夜も今日も楽しくご飯を食べられました」
「だったらいいが……圭太が悔しがりそうだな」
勝彦はにやりと口の端を上げた。周りの地域代表たちもへえほうと同じ表情だ。
八意は彼らの思考がなんとなくわかった。なんとか話を逸らそうと考えをめぐらせる。
しかしそんな八意の隣で目をまたたかせた重治は、こくりと頷いたのだ。
「うん、さっきお膳を下げに来てくれたときに言ってた。賢木さんと一緒に食べたかったのにって」
「!」
重治の暴露に八意はぎょっとした。彼は状況がわかっていないのだろうか。
……わかってないんだろうなあ。神部君だし。
純粋無垢という言葉がぴたりと当てはまる少年なのである。大人たちがおかしな勘繰りをしているなんて、これっぽちも考えていないに違いない。
ともかくそんな呑気と言っていいやりとりを経て、八意は勝彦たちと共に階段を下りた。その途端、廊下の向こうからざわめきが聞こえてきて八意は眉をひそめる。
なんか、昨日より人が多いんじゃ……。
その推測は正しかった。さらに進むと、中庭を囲む廊下や部屋に多くの観客がたむろしているのが見えてきたのだ。昨日はここまでではなかったのに。
「なあ、人多くねえ?」
「まあ暇な地元の棋考指しもいるし、誰が勝ち抜くか、優勝するかで賭けになってるからな。賭けてない奴でも、暇だから決勝くらいは見てやろうってのがいるんだろ」
他の地域代表にそう答え、勝彦は同情やら何やらが混じった目で八意を見下ろした。
勝彦が聞いた話によると八意に賭ける者への配当は、昨日の朝の時点ではどの地域代表よりも高かったのだという。重治はその次だったとか。
そりゃそうだよね。ここにいる人たちは私が晴季君の弟子だってこと、知らないもん。神部君が会長さんの弟子なのも、ほとんどの人は知らないだろうし。
それにこの外見と、十六歳という若さである。よほどの物好きか博打好きしか賭けないのは、当然の結果と言っていい。
そんなものだから昨日の夕方には、八意と重治に向けられる目が朝とはまったく違うものに変わっていた。賭けの予想が外れて肩を落としている者の姿が多く見られたのは、言うまでもない。
「ほれ、お前らはこっちに隠れとけ。少しはましだろ」
「はい。ありがとうございます」
勝彦に言われるまま、八意と重治は勝彦や他の地域代表たちの後ろに隠れた。地区予選のとき以上の好奇の視線から守られながら、廊下を進む。
大広間に着いてみると、棋考盤の列は昨日の半分以下に減っていた。職員は場の準備に追われ、出場者や観客が広間の半分や廊下で談笑している。
きっとそのうち、神部君か三岸さんと当たるよね……もしかしたら最初かも。できれば準決勝か決勝だったらいいんだけど……。
大幅に減った棋考盤を見つめながら、八意は心の中で呟いた。せっかく知り合ったばかりの人たちなのだ。どうせこの大会で対局するなら、準決勝か決勝のほうがいい。
「あ、強いおねーちゃんだ!」
場に合っているような、合っていないような幼く明るい声がした。振り返ると、ここの棋考道場に通う二人の少年がこちらへ駆け寄ってくる。
「貴方たち、このあいだの……お父さんにお弁当でも届けに来たの?」
「うん。そっちの人誰?」
兄弟の兄のほうが、重治を見上げる。勝彦ではないほうの帝都代表のことは知らないらしい。
「彼は棋考横町の【千仙堂】っていうお店の人だよ。三岸さんと同じ、帝都代表なの」
「えー? すっごくぼーっとしてそうなのに!」
「だよね、兄ちゃん」
兄弟は驚いた顔で頷きあった。確かにこの外見では、強そうとは到底言えない。
「僕、そんなに弱そうかなあ……」
「うん、弱そう」
眉を下げて口をとがらせる重治に、弟のほうが容赦なくとどめを刺す。周りにいる地域代表たちは大笑いだ。
おそらく十歳にはならないだろう子供にまで言われ、重治はむうと顔をしかめるばかりだ。それがまた可愛らしい。
見るからに強そうな勝彦は口元に手を当て、くつくつと笑っていた。
「諦めろ。その顔は顔で、使い勝手がいいんだしな。つーか、お前らはっきり言いすぎだろ」
「だってこのおにいちゃん、三岸のおっちゃんと全然違うし」
「誰がおっさんだっての!」
先日同様、勝彦は吠える。見慣れつつある八意は苦笑するしかない。
やがて、棋考連盟会長の挨拶があるから静かにするようにと、事務員たちが声を張りあげて回った。
「やっとか……そろそろお前らも、親父さんとこへ行けよ」
「はーい。じゃあ、おねーちゃんたちも頑張ってね」
勝彦が促すと、弟のほうがにっこりと満面の笑顔を浮かべてくれる。八意はそれに頷いてみせ、二人を見送った。
そう長くない棋考連盟の会長の挨拶が終わり、晴季と共に退出すると、二日目最初の対局の組み合わせが発表されることになる。場の緊張感はここにきて一層高まった。
「第二組。山浪代表、賢木八意対、西都代表、大八木宏通」
職員が組み合わせを読み上げ、場所を示す。相手が重治や勝彦でなかったことに八意はほっとしながら、示された席に着いた。出場者の中では比較的若い、二十代だろう青年がどこか困ったような顔で八意の前に腰を下ろす。
重治と勝彦が、別々の対局相手と当たってくれればいいのに。八意は強く願いながら、二人の名が読み上げられるのを待つ。
しかし、八意のそんなささやかな願いは叶わなかった。
「第四組。帝都代表、神部重治対、帝都代表、三岸勝彦」
「……」
当たっちゃった……。
避けてほしかった組み合わせとなり、八意は内心でため息をついた。後ろを見ると二人が顔を見合わせ、席へ向かっていくのが見える。
組み合わせの発表が終わると、職員の指示に従って出場者は対局の準備にとりかかった。静寂の中、駒を並べ、専用時計を持ち時間に合わせる音だけが聞こえる。
近づく対局への期待が膨らんでいく。煽られるように、八意の思考も棋考指しとしてのものに切り替わっていった。
余計な感覚と感情が意識から外され、他の対局があることや観客がいるという認識が失せる。相手の表情や仕草、駒の動きを分析し、次の一手や最善手を選び抜くことに特化する。
もう他の人のことを考えている場合ではない。目の前の対局に集中するだけだ。
やがて駒の音が止み、出場者たちは唱和した。次々と幻影の盤上と軍勢が浮かびあがっていく。
職員たちが全員の準備が終わったことを確認して回り、長机の前に座る職員にこくりと頷いてみせた。
「それでは、対局を開始してください」
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