第十三話 伸ばされる手・二

 彬は八意に詰め寄った。

「ねえ、重治はどこ? どこに隠したの?」

「……」

「なんで黙ってるんだよ! 答えろよっ!」

 彬は怒鳴るや、八意に手を伸ばしてきた。背後は塀だ。八意は逃げられない。

 ――――だが。

「――――っ」

 雷鳴のような光が八意の前に走るや、彬の手を阻んだ。弾かれた彬は火傷でもしたかのように手を庇い、顔をゆがませて憎々しげに八意を睨みつける。

「お前……何変なもの持ってるんだよ!」

 神様の加護が守ってくださったんだ……!

 加護の庭石を持っているだけでなく、八意自身にも神の加護があるのだ。それが反応したに違いない。

 人間のものではない力を感知してか、男は身を乗りだした。楽しそうに唇をゆがめる。

「なるほど……貴女は神力に守られているんですね。しかも、とても強力だ。今の時代でここまで強い神力に守られている人は珍しいですねえ」

「……!」

 男はさらに一歩、八意に迫ってきた。爛々と輝く目が八意の全身をじろじろ眺めまわす。

 そして、にたりと笑った。

「神具はその巾着の中ですか……帯に挟んであるほうも何かありそうですねえ」

「っ」

 見抜かれた……っ。

 八意は喉をひきつらせた。帯の巾着に手が伸びそうになる。

「ねえ師匠様、こいつ、隠れ家へ連れていこうよ。重治の居場所、訊きたいし」

「そうですねえ……」

 振り仰ぐ彬にそう答え、男は首を捻る。

 八意も必死に思考をめぐらせた。しかし巫覡の才を持っていると言っても、術が使えるわけではないのだ。この二人から逃れられるとは思えない。

 どうしよう。どうしたら――――。

 八意の混乱が最高潮に達し、半ば思考停止状態に陥った、そのときだった。

「――――何をしている」

 怒りをにじませた声が、張りつめた空気に溶けた。

 晴季君……っ!

 聞き馴染んだその声にはっと息を飲み、八意は声がしたほうへ顔を向けた。玄関から現れた幼馴染の姿に、泣きそうになるほどの安堵を覚える。

 彬の顔が怒りと憎悪に燃えた。感情の波が不可視の障壁を通り抜けて八意の肌を打つ。

「お前……!」

「待ちなさい、彬君」

 たぎる感情のまま晴季に襲いかかろうとした彬の手首を男は掴み、制止した。

「師匠様、なんで」

 彬は反発するが、男が手首を掴む力を強くしたのか口を噤む。八意には、痛い、と彬が言いかけたように見えた。

 男は晴季に向き直ると、上辺だけの笑みを浮かべた。

「お久しぶりですねえ。また貴方に会うとは思いませんでしたよ」

「そいつから離れろ」

「そう言われましてもねえ。どうやらこのお嬢さんは、重治君について何か知っていそうですからね。貴方が話してくれるのなら、解放してあげてもいいのですが……」

「……」

 わざとらしく横を向いて嘆息した男は、ちらり、と横目で晴季を見る。晴季の目元の皺が深まった。

 もとより晴季が話すとは思っていなかったのだろう。男はくすくすと笑った。

「とりあえず、今日のところはここまでにしませんか。ここでは周りに迷惑がかかりますし、そちらも一人では都合が悪いでしょう」

「ふざけたことを」

 勝手な言い分を一蹴するや、晴季は短い呪文を唱えた。すると晴季の影から首周りに黒い文様を浮かべた四頭の異形の猿が姿を現し、男と彬に襲いかかる。

 式神。術式に従って動くだけの意思なき存在である式と違い、契約を交わして術者に従う人ならざるものだ。この異形の猿ではないが式神に晴季からの手紙を届けてもらっていたので、どのようなものかくらいは八意も知っている。

 男は慌てた様子もなく詠唱し、風の刃で晴季の式神を退けた。散開した異形の猿たちのうち一頭がまともにくらい、倒れ伏す。

 ――――血溜まりが広がっていく。

 逃れた異形の猿たちは彬に襲いかかった。その俊敏な攻撃から彬は逃げるのがせいいっぱいで、反撃もできない。彬を追い払った異形の猿たちは八意を背に庇い、近づくなとばかり威嚇する。

 そのあいだに晴季は別の呪文を唱え、男と彬の周囲を自分の霊力で取り囲んだ。しかし男が腕をひと振りするや、晴季の霊力は霧散してしまう。たくらみが失敗し、晴季は目元に皺を刻んだ。

 晴季は術で、男と彬を拘束しようとしていたのだ。八意は冷たい痺れに支配されかけた思考でかろうじて理解した。

「姑息な手を使いますねえ。まあ、棋士ならこのくらいは当然なのでしょうけれど」

「……」

「では、こちらからいきましょうか」

 柔和に見せかけた顔で、呪が紡がれる。晴季はとっさに不可視の壁を築いて防ぐが、一足遅かった。

「っ……!」

 疾風の速さで晴季に向かってきた地走りは不可視の壁を砕き、晴季に直撃した。間一髪で胴を両断されるのは避けられたものの、肩にまともにくらってしまう。血は流れないものの晴季が顔をゆがめるのを見て、八意は絶句した。

「相変わらず、棋士としては一流でも術者としては大したことはないようですね」

「……」

「これでわかったでしょう。……この場は退いてくれませんか?」

 男は慇懃無礼な態度で退却を再度要望する。彬も動向を注視して動かない。

 恐怖で声が喉に張りついている八意が、どうかと強く祈っていたのは数拍だった。

 男としばし睨みあった晴季は構えを解き、戦う意志が失せたことを示した。しかし警戒はまだ解かない。式神を退かせず男と彬に鋭い眼差しを向け、いつでも反撃できるようにしている。

 そんな晴季の様子を気にしたふうもなく男は満足そうな顔をすると、大仰に頭を下げてみせた。

「ありがとうございます」

「どうして師匠様? 今ならあいつを殺せるのに! それにあの女、重治のこと知ってるって!」

 袖に縋りつき、彬は師に噛みつくように不満を言う。晴季を殺し、重治を取り戻すことしか頭にないらしい。

 男はこのとき、初めて彬を見下ろした。

「何度も言っているはずですよ、彬君。今は、警察や天野の術者に目をつけられないようにしないといけません。確かに重治君の異能は貴重ですし、そのお嬢さんがまとう神力にも興味はありますが……ここで彼を叩きのめしても、天野一門を本気にさせるだけです」

「……っ」

「私はあの人に恩義があるから、君を庇護しているだけです。従わないのならもう好きにしてください。私は手伝いませんよ。……君の力だけでは、簡単ではないと思いますけどね」

「……っ」

 男が向ける視線や声音に気圧され、彬は顔を引きつらせる。それほど冷たく凍えていたのだ。簡単に死なれては困る、といった程度の情しか表情からは窺えない。師弟だというのに、なんと薄情なことだろうか。

 男が呪文を唱えると、男のそばに人一人が入れる大きさの真っ暗な穴がぽかりと開いた。そこから冷たくも生暖かくもないのに背筋を凍りつかせる、異様な風が吹き出す。

 あやかし道……!

 故郷で晴季に教えられた言葉が、八意の頭の中に響いた。

 人ならざるものたちが闊歩する、この世ならざる場所――あやかし道。この世と隣りあう異界であるそこは、優れた術者であるなら道を開き、自由に出入りすることができるのだ。

「それでは失礼します。できればもう会いたくないものですね」

 そう薄く笑むと男は踵を返した。八意と晴季を悔しそうに睨みつけていた彬もあとに続く。

 その無防備な二人の背後に、身体の割に耳が大きな鼠がそっと忍び寄った。

 また式神……?

 二人と晴季の小さな式神を飲みこみ、穴は閉じた。甘い花の香りがする負の気配に満ちた風が失せ、静寂が辺りに満ちる。

 脅威は去ったのだ。

 五感で認めた途端、八意の全身から力が抜けた。壁に背を押しつけその場に座りこんでしまいそうになり、その寸前で駆け寄ってきた晴季が支え、引き上げる。役目を終えた異形の猿たちは晴季の影へと戻っていく。

 晴季の腕に縋りつく八意の視界に、路上の光景――――血溜まりに沈む異形の猿が映った。

 どくん、と心臓が大きく脈打った。八意の身体は震えだし、止まらなくなる。

 真っ赤に染まった意識が遠のく――――。

「おい――――八意」

 八意の精神が現実から逃げようとするのを許さないとばかり、叱咤に似た声が八意を呼び、触覚が無理やり八意の意識を現実に引き戻した。

「はる、すえくん……」

 何も考えられず、視界に映るものの名前を口にした。八意の片方の頬を手で包む彼の漆黒の瞳に映る、呆けた表情の自分を見つめる。

「八意、怪我はないか」

「う、うん、平気……晴季君こそ、肩……」

「このくらい、なんともない」

 震えながら肩に目を向ける八意に晴季は断言する。けれど八意は強がりなのか判断できず、不安を消せない。晴季の肩から血が出ないか気が気でなかった。

 晴季は袂から一枚の術札を取りだすと、呪文を唱えた。術札は鳥になって晴季の指に止まる。

「天野直家に、天野晴季の屋敷周辺で式神の処理を要請する」

 端的に告げると、式の身体は淡く光る緑の文字が刻まれた。すぐ式は空へはばたいて見えなくなる。

「行くぞ」

「え……一門の人を待たなくていいの? それに」

「俺がいなくても勝手に処理をして、事情を訊きにくる。今はお前を落ち着かせるのが先だ」

 ぴくりとも動かない式神について八意が口にしようとするのを遮り、晴季は八意の手をとった。有無を言わせず屋敷へ向かって歩きだす。

 自分が普通の状態ではないことは理解しているので、八意は晴季に甘えることにした。彼の手のぬくもりに意識を集中させ、何も考えないようにする。

 追いすがるように脳裏に再生される、あの赤く濡れたものから逃げたかった。

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