第五話 ここまで来たよ

 夜。浴場から戻った八意は窓辺で涼んでいた。

 女将が用意してくれたのは、二階の端のほうにある部屋だった。

 布団を広げたまま棋考盤と向きあえる程度の広さがあり、階段や大部屋から離れているので比較的静か。部屋で一人考えに耽るのにぴったりである。

 それに、この部屋は窓から見える景色がいい。月明りに照らされた街灯が灯る橋や通り、川は一枚の絵画のようだ。

 遠くまで見えるから、専門書とか棋考盤とかずっと見てて目が疲れたときによさそう……。

 外は夜の静寂に包まれている一方、【赤城荘】の中は賑やかだ。大きな笑い声や手を叩く音が聞こえてくる。酒でも入っているのかもしれない。

 そう考えてしまったからか、久しぶりに過去を語ったからか。八意は意識せず記憶を引きずり出してしまった。

 開け放たれた扉についていた、赤い指先の痕跡。

 転がった椅子や棋考盤、散らばった棋考駒。

 血の海の中に沈んだ家族と常連。

 そして辺りに漂う――――。

「……」

 廊下から聞こえてくるざわめき――――記憶から逃れるように、八意は棋考盤の前に座った。

 立方体の四隅に脚がついた、傷一つなくとも色と艶が歳月を感じさせる品だ。その上に並べた駒も同じような色をしていて、豪快な書体は力強い印象を見る者に与える。

 八意は棋考駒を指に挟むと、とある対局の序盤の展開を思いだしながら駒を並べていった。

 この棋考盤と棋考駒はそれぞれ、【晴宗】【晴邦】という立派な号がついている。それも当然で、天野晴明の弟で優れた職人だった晴宗と晴邦の作品なのだ。

 天野晴明の弟たちは兄と違って術の才能に恵まれず、早々と自分たちの才能に見切りをつけて家を出た。そして兄が愛してやまない棋考の道具を作る職人に弟子入りし、あっというまに独立したのだという。

 彼らが製作した道具は天野晴明の弟たちの作品という来歴に加え、数が少なく出来も素晴らしい。そのため目が飛び出る価格になる。棋士にとっては垂涎の品々だ。

 そんな逸品を子孫でも資産家の娘でもない八意が何故持っているのかといえば、故郷で師から贈られたのである。

 もちろんもらったあと、裏に刻まれた号を見たときは絶句したが。ただでさえこの立派な棋考盤と駒はさぞ高価に違いないと思っていたのに、棋考盤と棋考駒でもっとも由緒ある品だというのだ。八意が震えあがったのは仕方ないことだろう。

 一体どうやって入手したのか師に尋ねても、『家で使われていないから持ってきた。問題ない』と返ってきただけ。それ以上追及するのは精神衛生上よろしいとは思えず、ありがたく受け取るしかなかったのだった。

 そんな入手の経緯であるものだから、もらったばかりの頃は触れるのもおっかなびっくりだったものだ。今もこの棋考盤と棋考駒で指すときは、自然と気持ちが引き締まる。

 この盤の上から棋考駒に宿る人ならざるものに見守られているような、見定められているような心地になるのだ。

 お前は我らにふさわしい棋考指しであるのか――――と。

 だからこんな一人きりの暇潰しのようなときでも、使うからには手を抜くことはできない。

 八意にとってこの道具たちは、彼らにふさわしくあらねばという形ある目標なのだ。

 八意の手はよどみなく、記憶の中の対局を辿っていく。次第にはっきりしてくる師との圧倒的な差が悔しくて、それでも食らいつきたいと必死だった気持ちをも思いだす。

 思い出の対局を辿る手を止め、八意は終盤にさしかかろうとする盤面を見下ろした。

『考試の地区予選に勝って――――』

 四年前の、膨らみだした桜の蕾を眺める縁側。八意はこみ上げてきた思いのまま師を見つめた。

 棋考で強く結びついた二人にとって、帝都は時代の最先端を行こうとする憧れの都ではない。つわものたちが集う戦場だ。

 穏やかに時が流れる田舎からそんな激流の中へ身を投じたいと、八意はあの日、大それた望みを口にしたのだ。

『やってみろ』

 弟子を見下ろし、師はそう言った。お前に無理だとはわずかも言外ににじませず、八意の挑戦を認めた。

 そして後日、この【晴宗】と【晴邦】を八意に贈ってくれたのだ。

「……ここまで来たよ」

 顔を上げ、頬を緩めて八意は呟いた。思い出の中でいつもそこにいた人に報告するように。

 そしてまた、思い出の対局をなぞっていった。

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