7 稚児ヶ淵の惨事②


 ――傷ついている人を否定してはだめ。追いつめてはいけない。


 突然、脳裏に言葉が去来した。虚無の荒れ野に泉が湧いたかのような心地であった。深く考える余裕もなく、何かに突き動かされるようにして、珠子たまこは滑る岩場を駆ける。


「待って、大江間おおえま君!」


 さとしと少年が同時に珠子の方を向く。少年の、この世の全てを信じられないとでも言いたげな暗い瞳がこちらを射る。珠子は声を張った。


「ねえ、私は土蔵つちくら珠子というんだけど、あなたの名前は?」

「名前……」

「おい、何を呑気に」


 少年が虚を衝かれたように復唱し、諭が盛大に顔をしかめる。珠子は走りながら頷き、もう一度言った。


「そう、名前。きっと辛いことがあったんだよね。よかったら私に聞かせて」

「辛いこと」


 少年は、濡れた岩場に這いつくばったまま顔を上げて、駆け寄る珠子の顔を呆然と見上げる。やがて、小さく声を落とした。


瑛人えいと

「そう、瑛人君」


 やっとのことで側までたどり着き、珠子は微笑んだ。


「ねえ、本当はこんなの、よくないってわかっているんだよね? でも辛くて悲しくて、もう後戻りできなくなってしまったんでしょう。大丈夫、あなたは一人じゃない。だから一度その箱を手放して、ゆっくりお話ししよう?」


 近くで見れば、瑛人の姿は印象よりもずっと愛嬌があった。小さな唇、ふっくらとした頬。つぶらな瞳にはどこか怯えの色が浮かんでいる。


 彼の所業は悪だ。裁かれなければならないこと。けれど償いの機会さえあれば瑛人はきっと、己の過ちに向き合うことができる。


 珠子は他人と比べ、特別慈悲深い性格ではない。むしろ、見ず知らずの少年に心を寄り添わせられるほど、精神的にも金銭的にも余裕などない。それなのに、まるで愛情深い誰かに導かれるように、口が、身体が、動いてしまう。


「さあ、瑛人君。その箱を置いて。そんな端っこにいたら危ないから、こっちへ来て」


 柔らかく手を伸ばす。瑛人は、警戒した小動物のように珠子の手をじっと見つめる。それからおもむろにショルダーバッグを下ろして足元に置く。転倒した体勢のままの四つ這いで、ゆらりと珠子の方に向かって来る。指先と指先がもう少しで触れ合う。その寸前。


「だめじゃないか」


 第三者の声が割り込んだ。


 岩の陰から飛び出した黒い影が、瑛人の背中を容赦なく踏んでから、脇腹を蹴り上げた。


「そろそろ君も箱に入りなよ。これでやっと、新しくできたお友達と永遠に一緒・・・・・だよ」


 瑛人のくぐもった呻きと同時、指先一つ動かす間もなく、珠子の眼前の空中を、少年の驚愕の表情が通り抜ける。突然現れた第三者に蹴り飛ばされた瑛人は、闇を煮詰めたかのような海に着水。全てを呑み込む黒い波の触手に絡め取られ、そして消えた。


「瑛人君!」

「土蔵さん、箱を!」


 諭に鋭く指摘され、すぐ近くにあったショルダーバッグをひったくるようにして掴むがやや遅い。黒い影の人物に強く引かれ、バッグは珠子の手を離れた。


「土蔵、珠子さんって言ってたね。驚いたな、もしかして、結子さんの娘?」


 男の声。けれど少し甲高い。耳にしたことなどない声なのに、彼の言葉が鼓膜を震わせた途端、汚物を練り合わせた泥で体中を撫でられたかのように強烈な不快感に襲われた。


 反射的に嘔吐が込み上げて、身体を折り曲げすんでのところで呑み込んだ。


 男は、そんな珠子の様子を見ても、下卑た笑みを浮かべるだけだ。


「おやおや。どうしたんだい」


 ぞわり、と肌が粟立つ。諭が果敢に男に挑むが、蝶のようにひらりと身を躱されてしまう。


「くそっ、武器になる呪具があれば」


 憎々しげに呟かれた諭の声に被せるようにして、魂食たまくい鴉が鋭く鳴いた。羽音が舞い降り、男の頭頂を突く。不意を衝かれた男は腕を振り回して鴉を追い払おうとした。その拍子にバッグが吹き飛んで、珠子のやや先に落下する。


「土蔵さん!」


 諭に促され、珠子はバッグに飛びついた。腹の下で抱き締める。その背中を、再度諭の声が打った。


「蓋を開けろ!」

「え?」

死霊しりょうの箱を使ってこいつを止めろ」


 そうだ、死霊の箱は怨霊を使役する呪具。ならばこの力を使い、男の動きを阻止することができるかもしれない。


 珠子は慌てて長方形の箱を取り出すと、蓋に手をかける。触れた指先から、渦巻く怨嗟のような重苦しい思念の圧が伝わり珠子を襲う。束の間、躊躇で手が鈍る。


「ひどいじゃないか、結子さん」


 男が、聞く者の嫌悪を煽るような猫なで声で言った。


「あの落雷で箱が開いて君が逃げ出してしまってから、僕は寂しくて悲しくて心細くて慕わしくて、もうどうしようもなくて。たまたま箱を開けてくれた孤独な瑛人君と一緒に君を探しに来たんだよ。優しい結子さんなら、瑛人君が死霊の箱に友達をたくさん集める様子を見て、黙ってはいられないと思ったから。あの時みたいに」

「つまり」


 喉の奥が張りついているのを辛うじてこじ開けて、声を絞り出す。


「瑛人君を利用したの?」

「利用だなんて人聞きが悪い。利害の一致だよ。ああ、そうかわかったぞ」


 男の目が、うっとりと細められる。けれど彼が見ているのは珠子ではない。珠子の身体の奥、遺伝子の中、あるいは魂の底。


「素直じゃないな、結子さん。怒っているんだね。でも僕にはわかるよ。君は必ず、僕の歪んだ心も治してくれる。謝るから、その箱に戻っておいで。そして永遠に僕を癒して欲しい」


 ――これからも永遠に、僕を癒してください。


 どくり、と心臓が跳ねた。


 母の遺品。数々のメッセージカード。純粋な感謝と思慕の文字の中、一つだけ、珠子の胸を騒がせた、達筆の一文。


「あなた」


 あのメッセージの送り主か?


 珠子の全身から力が抜けた。恐怖、嫌悪、その他名前も知らない負の感情たちが、珠子から自由を奪う。


 箱に戻るとはどういうことか。この男は母の知り合いだったのか。母が最期に会ったのは、正体不明の男であったはず。それでは目の前の彼は。


 ゆらりと男が近づいてくる。辺りには夜の漆黒が立ち込めているはずなのに、珠子には彼の顔に浮かぶ恍惚とした笑みが見えた。


「結子さん、お帰りなさい。娘さんも一緒に、僕とおいで」


 男の手がねっとりとした歪な愛情を纏い珠子の頬に触れる直前。魂食い鴉が珠子の身体を突き飛ばした。ごつごつとした岩場に全身をしたたかに打ちつけて、頭がぐらぐらとする。けれどその不調は一瞬のことだった。


 まるで、何かのスイッチが切り替わったように全身が軽くなる。脱力していた膝が伸び、使霊の箱を抱いて陸地側に向かい走っている。……けれど、この身体を動かしているのは、珠子ではない。


 意思が、何かに組み伏せられているようだ。未だかつて経験したことのない感覚に、本能的な恐怖が過る。珠子は己の肉体の中でなりふり構わず暴れた。


「ちょっと、珠子、静かにして!」


 珠子の口が勝手に動く。ふわりと、時を重ねた古い家屋のような匂いを感じた気がした。そして理解する。この身体を動かしているのはみぎわだ。


 使霊の箱から解放されて成仏するまでの居場所ということで、近頃は魂食い鴉の中に宿っている汀。彼女は今、珠子に憑いて助けてくれている。


 珠子は抵抗をやめ、汀に身体を明け渡した。


「そう、それでいいのよ……あっ!」


 安堵したのも束の間。爪先を岩の窪みに取られてしまう。箱を前方に放り投げて両手を突いたので、腹を打つのは免れた。


 けれど肝心の使霊の箱は、颯爽と駆け寄った男に奪われてしまった。


「あいつ」

「ああ、あんた、使霊の箱に昔から住んでいた貧相な怨霊か。結子さんの側に近寄るな」


 怨霊、というのは汀のことだろう。やはり汀は、鎌倉幕府滅亡の折に使霊の箱に囚われて、先日の落雷の衝撃で開いた箱から逃げ出した霊のうちの一体なのだ。


「諭、捕まえて」


 汀が叫ぶ。言われるまでもなく後を追っていた諭だが、男の逃げ足は異様に速い。


 諭が珠子の側まで駆けつけた時にはもうすでに、男は死霊の箱を手に入れて急な階段を駆け上り稚児ヶ淵から去って行くところであった。到底追いつけやしない。


「くそっ、魂食い鴉、追ってくれ……」

「カアッ」


 激しい羽音を残し、魂食い鴉が男を追い島の闇に溶ける。


 それを見送って、諭が強く舌打ちをした。


「また逃した。六年前と同じだ。俺のせいで……」


 六年前。


 そうだ、なぜ気づかなかったのだろう。


 珠子の意識は、何度も岩に打ち付けられたかのようにがんがんと揺れる。やがて、深夜の江ノ島の海よりも暗く深い水底へと沈んでいった。



第二話 終

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