4 六年前、怨霊の友②

 隠し事が許される空気はない。諭は父に洗いざらい話した。


 父の全身から滲み出る、ひりつくような気配に気圧されて、つっかえながら経緯を説明する。


 唇引き結びながら耳を傾けていたあつしは全てを聞き終えるとやがて、平坦な表情で、しかし断固とした口調で命じた。


「その霊には二度と会うな」

「どうして」

「どうしてもだ」


 取りつく島もない。


 わけもわからないまま、父の命令により自室に閉じ込められた。けれど諭は抜け道を知っている。


 さすがにその日は監視が強く家を出ることは叶わなかったが、ほとぼりも冷め始めた数日後。諭は窓を開け、そこから身体をねじ込むようにして夜気の中へと出た。


 窓の側まで伸びている庭木の太枝に乗り、滑るようにして地に下りる。足音を忍ばせ敷地を出て、いつもの堤防へと駆けた。


 霊の友人は、今宵もそこにいた。


「ヨシちゃん!」


 ヨシちゃんは、初めて会った時と同じように、ゆらりと振り向いた。その姿に、諭は絶句する。


 街灯の薄ぼんやりとした黄色い明かりの中、破裂したザクロのような顔が浮かんでいる。光のない虚ろな瞳が恨めしげに諭を射る。


「どうして最近来てくれなかったの。僕のことがいらなくなったの」

「違う、違うよ。父さんが」

「やっぱり僕のことなんて誰も必要としていないんだ。誰も一緒にいてはくれないんだ」


 諭は堤防に腰かけてヨシちゃんと視線を合わせる。


「ヨシちゃん、違う。俺はあんたの友達だ」


 ヨシちゃんはまるで頸椎が外れたように、こてりと首を傾けた。


「本当?」

「本当だよ」

「ずっとお友達?」

「もちろんだ」

「そっか、じゃあ」


 海から生ぬるい潮風が吹き、二人をねっとりとした熱で包み込んだ。


「ずっと一緒にいよう」


 いけない、と身の危険を感じた時には、すでに手遅れだった。


 諭の全身は金縛りにあい、指先一本たりとも動かない。その足首を、触手のような何かが掴み、コンクリートの上から引きずり下ろそうとした。


 眼下は黒々とした海。身体が動かないこの状況、いったん沈めば浮かび上がることは不可能だ。


 ――助けて。


 声を上げようにも、喉の奥が張りつき何も出ない。それどころか呼吸までもが封じられ、酸素を求めて全身から冷たい汗が噴き出した。


 ――誰か、誰か助けて……。


 不意に、心の中で上げた悲鳴が届いたかのようなタイミングで、道路の方から赤く温かな光が弾丸のように飛び込んだ。光に打たれたヨシちゃんは火傷でもしたかのように身を引いた。同時に全身の自由が戻り、諭は新鮮な空気を吸い込み喘ぐ。


 苦痛の涙に滲む視界に強烈な白光が差し込んだ。続いて、バタバタと扉を開け閉めする音と慌ただしい足音が接近する。


「馬鹿者が」


 冷淡な声が降ってくる。父だ。


 どうやら白い光は、大江間おおえま家の車のヘッドライトだったらしい。


 それでは、先ほどヨシちゃんとの間に飛び込んで諭の金縛りを解いてくれた赤い光は、車が放ったものだったのだろうか。いいや、その色も熱も、まるで庇護者のぬくもりのように温かかった。無機質なライトとは性質が異なっている。諭は不審に思ったがしかし、今はそれどころではない。


 辺りには、親類や雇われの呪具師の姿があり、ヨシちゃんに迫っていた。諭は思わず声を上げる。


「やめろ! ヨシちゃんに手を出すな!」

「阿呆か」


 学者には見えないほど体格のいい敦の屈強な腕が、暴れる諭を取り押さえる。諭は懸命に腕を伸ばすが、友の元へは届かない。耳元に、ほんの一欠片の情もない父の声が響く。


「おまえはあの怨霊に殺されかけたんだぞ」

「違……」


「違う!」


 諭の声に被せるように、怨嗟が幾重にも塗り込められたヨシちゃんの声が響き渡る。その圧が瞬時に実体を得て凝固して、父の身体を突き飛ばした。ほんの一瞬の出来事だった。気づけば諭は、背後から見知らぬ男に羽交い締めにされていた。


 見ればヨシちゃんは、呪具師に捕われている。ならば背後の男は何者か。


 アスファルトに尻もちをついた敦が瞠目して、息子を拘束する男を見上げる。


「おまえ、誰だ」

「誰だと思う?」


 男性にしては少し甲高い。まるで、冷えて湿ったものが肌を撫でるような不快な声音であった。男は舌なめずりでもしそうな調子で楽しげに言う。


「おっと、動くなよ呪具師。この子がどうなってもいいのかい」

「おまえ、手に持っているそれは」

「うん? ああ」


 背後から羽交い絞めになっているので男の顔は見えないが、諭の視線の先に、男が鷲掴みにしている長方形の箱がちらついた。父は、歯を軋ませて箱を睨んでいる。


 敦の悔しげな様子を見た背後の男が、嬉々として口元をほころばせているのが、続いた声音から察せられる。


使霊しりょうの箱。諸君がそう呼んで手に入れたがっている品だよ」


 諭が初めて、その呪具の名を耳にした瞬間だった。


「使霊の箱、使霊の箱。僕の愛しい人を住まわることのできる楽園の入り口。僕も死ねば、彼女と一緒に生活ができるのだろう? この箱の中で、永遠にね」


 敦の顔が嫌悪に歪む。


「まさかおまえ、懸想した相手の命を奪い監禁するために使霊の箱を?」

「監禁だなんて、人聞きの悪い」

「同じことだろう」

「まあ、言い方なんてどうでもいいさ」


 男は、諭を拘束する腕を強める。


「とにかく、この箱はキューピットからもらった物なんだ。今は僕のものなんだから、誰にもあげないよ。さて、無事に彼女をお迎えできたし、そろそろ失礼しようかな」

「ただで逃がすと思うか」

「おいおい、こっちには人質がいるんだよ。子どもの命と呪具。どっちが大事?」


 諭は背中を押され、前方にたたらを踏む。敦や他の呪具師らは、どうすることもできずに歯を食いしばる。敦が、喉の奥が捻じ切れそうな声を絞り出した。


「諭、おまえは本当に余計なことを」


 幼い諭の胸を、父の言葉が抉る。けれど言われても当然のこと。きっと呪具師らは、この日のために策を練り、使霊の箱回収に心血を注いできたのだろう。それを、たった一人の子どもに台無しにされたのだ。


 背後の男が、愉快そうに笑った。


「まあ、さすがに命の方が大切だよね。じゃあ、そういうことで」

「待て……」


 制止の声は、夜気に攫われる。


 男が箱の蓋を薄く開く。その瞬間。


 縋るように伸ばされた敦の右手を、風の刃が襲った。いいや、諭には見えていた。あれはただの風ではなく、刀を振りかざした武者の影。箱に囚われ使役されている霊だ。


 敦の人差し指と中指の先が、まるで羊羹でも切るようにすっぱりと直線に断たれて飛んだ。血潮がぴゅっと舞い、腹の奥から吐き気が込み上げるような金臭さが充満する。


「っ!」

「当主!」


 左手で右手を押さえて蹲る敦を愉快そうに見下ろして、不穏な男は諭を突き飛ばして解放すると、悠々とした足取りで大江間の車に近づいた。我が物顔で助手席の扉を開き、エンジンをかける。


「待て」


 当然、追おうと足を踏み出した者がいたのだが、諭を含め、突如全身の痺れに襲われて硬直する。


 霊を見る体質の者からすれば、その理由は明白だ。使霊の箱から飛び出した武者姿の怨霊が、おどろおどろしい姿で呪具師らを囲み、威圧している。その霊気に当てられて、誰一人として動けないのだ。


「じゃ、ばいばい」


 車の淡白いライトに照らされて、男の顔がぼんやり浮かぶ。丸い眼鏡をかけた、どこにでもいそうな四十がらみの男であった。


 彼はそのまま大江間の車を奪い逃走した。遠ざかるエンジン音を前に、呪具師たちはただ、のうのうと見送るしかできなかった。


 そして翌日。調査の結果、奪われた車は鎌倉駅近くの住宅街で乗り捨てられていたことが判明する。けれど、使霊の箱を悪用した男の姿はない。それどころか、箱自体が忽然と消えてしまったのだ。


 車が盗難された、ということで警察に届け出て、町の防犯カメラを調べてもらうと、男の素性が見えてきた。


 朝津木あさつき寿彦としひこ。数年前まで小学校教諭であったらしいが、人間関係で心を病んで退職し、その後は貯金を切り崩して暮らしているようだ。


 一両日の間にそこまで判明したのはさすが公的機関というべきだが、肝心の寿彦の足取りは掴めない。


 話の流れから推測するに、彼は使霊の箱を使い愛おしい人と永遠の時を過ごすことを望んでいたようだ。ならば彼はその目的を果たし……つまり己も死んで霊となり、今やどこかに隠された使霊の箱の中で、満足して暮らしているのかもしれない。


 相手の女性にその気がなかったならば、おぞましいことである。ただの憶測であったと思いたいところだが、その後もいっこうに使霊の箱は見つからず、寿彦の行方はわからない。


 そして、事件から六年近く経ったつい半月ほど前。使霊の箱が再び呪具師の捜索網にかかったのだ。

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