6 憑かれた女②

 眼球が飛び出さんばかりに女の目が見開かれる。驚愕、憤怒、絶望、その他この世の全ての負の感情を集めてこねくり回したかのような邪気が、彼女の全身から発せられた。


 さとしはすかさず声を上げた。


たまい鴉!」


 諭の合図に応え、魂食い鴉が部屋に沈殿した暗闇の中から飛び出して、女の身体に飛びついた。乱れた黒髪に向けられた鴉の嘴が、異様なことに、諭の片腕ほどの大きさに肥大する。下嘴にぶるりと揺れる禿げた皮膚がぶら下がる。ちょうど、ペリカンの喉袋のようだ。


 ぱっくりと割れた黒い嘴が、女の身体に食らいつく。


「ギャアアアアア!」


 耳をつんざくような悲鳴と同時に、女の全身の輪郭がぶれた。二重、いいや、三重に見える。諭は瞬きをして、各層を構成するものの容貌を凝視した。


 中心部から見て一層目は生身の人間である小綺麗な女、二層目は白い襟付きシャツを着た四十代ほどの女。そして三層目は、焼けただれた皮膚と時代がかった小袖の残骸を引きずる女。怨霊と思しき穢れを垂れ流しているのは三層目の焼けた女だが、二層目の白いシャツの女も霊体だ。


 想定以上に複雑な事態に、諭は盛大に舌打ちをした。


「霊が二体? それにあれは」


 魂食い鴉が女の身体を啄む度に、焼けた女ではなく、四十代ほどの女の顔が苦痛に歪む。それと合わせ、生身の女性の身体から生者自身の魂が引きずり出されかけ、女はその場に頽れた。


 諭は咄嗟に叫ぶ。


「魂食い、やめろ!」


 食欲の渦に呑み込まれかけていた魂食い鴉が、醜悪な形に歪んだ大きな口をぱかりと開き、女を解放する。これ幸いと、三層目の焼けた女が肉体から離れ、弾丸のような影となり諭に飛びかかって来た。


 怨霊の全身は黒い靄に包まれて陽炎かげろうのように揺らいで見える。


 凍りつくような霊気が迫り、諭の全身が硬直する。怯えている場合ではないし、呪具師の末裔として、怨霊と対峙するのは当然のこと。けれど、久しぶりに禍々しい霊気を浴びた諭の脳は、意思に反して六年前に触れた怨霊の感触と姿を繰り返し再生し、全身の自由を奪う。


 ――ねえ、ずっと一緒にいよう?


 挙句の果てに、頭蓋骨の中で、かつて聞いた少年の声が反響している。その声が生み出した恐怖の緞帳どんちょうを、焼けただれた女の悲鳴じみた声が引き裂いた。


「ワタシイガイノオンナヲ、ソバニオイテイル、ドウシテ、ドウシテドウシテドウシテ」


 ――私以外の女を側に置いている。


 引き攣れた、抑揚のない言葉の羅列が脳内で意味を結ぶ。諭は我に返り、上体を捩って怨霊の腕から逃れた。


「その女の人を、恋敵か何かと勘違いしているのか?」

「シロウ、サマ。アイタカッタ、アイタカッタ、ドウシテニゲル?」


 怨霊は諭を視線で絡め取り逃がさない。事情は不明だが、どうやら怨霊は諭を『シロウ』と勘違いしているようだ。


「シロウサマ、シロウサマシロウサマシロウサマ」


 踵が、アパートの薄い壁を蹴る。意識が散漫になっていて、位置を測り誤ったらしい。これ以上後ろには下がれない。


「シロウサマ」


 怨霊が、黒い陽炎のように揺らめく両腕を伸ばし、諭の身体に抱きつこうとする。


「勘違いだ。ちょっ……やめ」

「カア!」


 見かねたのか、魂食い鴉が再び女に飛び掛かる。けれど今度は全身に食らいつくのではない。彼女の身体から今にも剥がれ落ちようとする、肉片のように赤黒い塊を啄んだ。あれは穢れ。魂食い鴉の食事である。


「ギャアア!?」


 剥がれかけとはいえ、身体の一部であるものを無理やり引きちぎられれば苦痛だろう。怨霊は魂食い鴉を叩き落とそうと己の身体中を手で払う。


 それを魂食い鴉は軽やかに躱す。執拗に追い回す嘴の内側には、人間のような臼歯が並んでいる。


「ヤメテ、ヤメテ、シロウサマ、タスケテ」


 怨霊の身体から立ち上っていた瘴気が薄れ始め、人間であった頃の痛々しい火傷の引きつれが露になる。彼女は悲鳴を上げて、身体を翻す。そして、畳に突っ伏すようにして倒れていた女の肉体に再び憑依した。


「あ、逃げタ!」


 魂食い鴉が忌々しげに吐き捨てて、女の横に舞い降りる。


 怨霊が肉体という器に姿を隠してしまうと、室内は途端に静寂に包まれた。己の荒い息遣いと、魂食い鴉の爪が藺草いぐさをひっかく音、それから意識を喪失したままの女の微かな呼吸音だけが、古びた室内の空気を揺らしていた。


 いったん状況は落ち着いた。魂食い鴉が穢れを食ったことで、怨霊は霊気を削がれ、姿を形どる力を失ったらしい。力の弱い霊は物や土地、生き物に憑かねば現世に留まってはいられないのだ。


 諭は大きく息を吐き、女の隣に膝を突いて抱き起す。


「おい、大丈夫か」


 何度か身体を揺らせば、女の眉間に皺が寄り、やがて細く瞼が開く。曇りのない瞳であった。どうやら正気に戻ったらしい。


 彼女は何度か瞬きをして目の前にある知らない顔を見つめた後、小さな悲鳴を上げた。諭の胸を押しのけて、転がるようにして距離を置いた。


「だ、だだだだ誰! ここはどこ!」


 自身の腕を抱き、恐怖を顔に張りつかせている。この様子では怨霊に身体を操られていたことにすら気づいていないだろう。面倒なことだ。諭は溜め息と共に言葉を吐き出した。


「勘違いしないでくれ。ここは俺の部屋で」

「あなたの、部屋……?」


 女の顔が引きつる。魂食い鴉が、呆れたようにカアと鳴く。


「諭、それじゃ誘拐犯のようだゾ」

「か、鴉!? 喋った?」


 女が裏返った声を上げる。再度失神するかと思いきや、案外心が強いらしく、くらりと額を押さえただけで意識を保っている。


「勘違いするな」


 諭は頭痛を覚えながら再度言った。


「被害者は俺の方だ。ベランダを見てみろ。泥水にあんたの足跡がついている。不法侵入だよ」


 顎先で示せば、女は畳に座り込んだまま肩越しに振り返り、ベランダから点々と続く己の足跡を当惑した目で眺めた。その痕跡から推測するに、彼女は隣のベランダから柵を乗り越えてやって来た隣人なのだろう。続いて女は、自分の裸足の足裏が汚れていることを確認すると、おずおずと顔を上げ、諭と魂食い鴉を交互に見た。


「私、いったいどうして」

「それは俺が聞きたい。意識を失う前、最後に何を見たんだ」


 隣人は記憶を手繰り寄せるように斜め上方へと視線を彷徨わせ、口を開きかけてからまた閉じた。諭を見る目に、警戒が宿っている。


 怨霊に憑かれたという重大な事件に遭遇した直後にもかかわらず、生身の人間である諭を恐れるなど、呑気なことだ。しかも、彼女には怨霊以外にも霊が憑いていた。ぱっと見た印象では、悪いモノではなさそうだが、最初は善良に見えても突如豹変して宿主を呪い殺す霊を、諭は何体も目にしたことがある。


「カア、お嬢さン、こいつ、怪しくなイ。大江間諭だヨ、大学三年生。二十一歳」


 先ほどの異形など見る影もなく、つぶらな目をした鴉が、気さくな声で言う。隣人は、ひっと息を呑んで喋る鴉に視線を向けてから、おずおずと諭に目を戻した。


「おおえま……同い年だ」


 名乗った程度で印象が変わるわけでもないと思ったが、意外にも女は少し姿勢を正し、名乗った。


「私、土蔵つちくら珠子たまこ。あの、この鴉は」

「魂食い鴉だ。怨霊が垂れ流す穢れを食う」

「怨霊?」

「土蔵さん、あんた怨霊に憑かれていたんだよ。覚えてない?」


 珠子の表情が凍りつく。やがて、警戒の狭間からぽつりと声を落とした。


「まさかあれって」

「あれ?」


 珠子は軽く唇を噛んでから、細い声で言う。


「雷が鳴って、窓の様子を見に行ったの。そうしたら」


 あの怨霊がいたということか。


 珠子は顔を青くして黙り込む。皆までは語らなかったが、概ねの状況はわかった。珠子はまだ魂食い鴉が気になるようで、ちらちらと視線を向けている。


「カア」


 あたかも、ただの鳥です、といった様子で鳴く魂食い鴉。珠子の眉尻が、今にも泣きそうなほど下がっている。


「そ、その子、本当に鴉なの?」

「普通の鴉ではないけどね。大江間家が所有する呪具の一つだ」

「呪……。ファンタジー……オカルト?」

「混乱するのはわかるけど、現実だよ」

「穢れを食う鴉。……もしかして、穢れを浄化して成仏させるとか?」

「いや、ただ美味しく食うだけダ」

「……」

「カア! 何ダ、その顔ハ! オレのお陰で穢れた霊の場所を見つけられるんだゾ! 感謝しロ。それに、穢れを食われた怨霊は、ちょっと綺麗になるんダ」

「つまり、少しくらいは成仏に近づくってことだよ」


 諭は腰を上げ、未だ目を白黒させている珠子を脳天から観察した。


 二体の霊の気配は、すっかり肉体に溶け込んで目立たなくなっている。けれど無論、人間に他者の霊が宿るのおk自然なことである。歪められたことわりは正さねばならない。そして何よりも、『シロウ』に執着するあの怨霊はおそらく、大江間家が回収すべき呪具、使霊の箱と関連があるはずなのだ。


 今この瞬間、魂食い鴉のお陰で怨霊の力は抑えられているが、早いところ完全に珠子から引きはがしてしまおう。結局のところ、霊自身を尋問をしなければ、使霊の箱回収において進展は見込めないのだし。


 諭は、瞳の奥に疑わしげな色を宿している珠子に向けて、短く言った。


「とにかく明日、俺の実家に来い。怨霊を祓ってやる」

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