割烹ながれのお客様

芹沢紅葉

第1話

 トントントン、と包丁が木製のまな板の上で音を立てる。

 仕込みの最中さいちゅうである厨房には、かつおだしの匂いが引き立っていた。たった今切ったばかりの、ほうれん草を別に沸かしていたお湯に入れ、灰汁あくを取るために下茹でしている。

 私はカウンターの前でそれを見ながら、また手間をかけてと思った。料理人の正芳まさよしが調理をしている姿も見慣れてきたものだが、彼の料理は全て手が込みすぎている気がしてならなかった。

「あーあ、暇だなぁ」

 カールをかけている横髪を指先でくるりと弄っていると、正芳が卵を手に取った。コン、と一度だけ叩きつけ、片手で器に卵を入れる。

 さすがは料理人、とただの給仕である私はひがむように目を細めて、彼の流れるような調理を見ているだけだった。

 二人きりの店内で、仕込みをしている間は会話なんて一切ない。全て、私の独り言で終わってしまう。

 お手拭きや湯呑みを丁寧に並べて、ときおり厨房内に入るが、正芳とは距離をとっている。邪魔をしないように気を使っているのは、誰の目から見ても明らかだろう。

 予約制の割烹かっぽう『ながれ』は、かつてこそ客の出入りが多かったのだが、今や予約は日に一、二件しか受けられない。そもそも予約が入らないのもあるが、たった二人では以前のような客入りでは回しきれない、と言うのも実状じつじょうだ。

 今日の予約を何度も確認するが、一名しか入っていない。私にはマズイ、という危機感があるが、正芳は相変わらず寡黙かもくで、どう考えているか分からない。

「このままじゃお店、やばいよ」

 私が先代から店を受け継いで、二ヶ月になろうとしていた。正芳は一ヶ月半。深い仲とはまだ言えないが、いい加減会話くらいまともにできるようにならないの、と横目に正芳を見た。

 その時、入口の引き戸が開く。

「あの、すみません……」

「あ、いらっしゃいませ! ご予約のお客様ですか?」

 やってきたのは、一人の若い女性だ。まだ二十代くらいで、私とそう歳が変わらないように見える。少しオドオドとした様子で店内を覗き見ていたが、小さく頷くとそのまま店内に入ってきた。

「暑かったでしょう、すぐにお水をお出ししますね」

 入ってきた女性の短い前髪の下、額に汗が僅かに滲んでいるのを見て、グラスに冷水を準備する。女性は店内を見渡した後、カウンター席に着くと、チラッと正芳の方を伺うも、すぐにこちらへ視線をやると恐る恐ると言った様子で尋ねた。

「あの、メニュー……ありますか」

「はい、こちら本日のお品書きとなります」

 冷水を差し出してから、達筆な字で書かれたお品書きを手渡す。

 お通し、オクラと湯葉ゆばのお浸し。碗盛わんもり茄子なすとサイマキ海老。刺身、旬の鮮魚盛り合わせ。焼き物、はもの照り焼き。煮物、冬瓜とうがんと鶏ひき肉。強肴しいざかな、松茸の茶碗蒸し。食事、鯛めしと香の物。甘味、豆乳プリン。

 女性は余程暑かったのか、冷水を先に口にしてから厨房の正芳の方を見たが、正芳は真剣な表情で調理に集中している。

 こっそりと厨房の中にある予約票を見て、三竹みたけ様と書いてあるのを確認した。時間も十八時。ぴったりだ。

「あの」

 お品書きに視線を落としながら彼女は私に呼びかけた。

「なんでしょう?」

「茶碗蒸しからいただけは、しますか?」

 彼女の申し訳なさそうな口ぶりに、思わずきょとんとなりながらも、一度正芳のいる厨房の方へと視線を向ける。まだ先ほど卵を溶いたばかりだった。今から十分以上蒸すことを考えると、先に出せる料理を食べてもらえる方がいいのでは、と考える。

「えっと、少々お待ちいただくことになるかと思いますので、茶碗蒸しが出来上がるまでに何かお食べになられませんか?」

「いえ、あの、待ちます。お願いします」

 不思議なお客様だなぁ、と内心では思いつつも、笑顔でかしこまりました、と口にする。会話は正芳にも聞こえていただろうから、調理の工程を変えるはずだ。

 やがて、沸騰ふっとうしている蒸し器の中から器が取り出される。

 正芳が盆の上に乗せたそれを運ぶ。給仕慣れしているから、盆の上をちっとも揺らすことなく、丁寧に運んでお客様の前に差し出した。

「大変お待たせ致しました。お先に、松茸の茶碗蒸しでございます」

 彼女が蓋を開けると、そこには綺麗なつやのある表面の茶碗蒸しが出来上がっていた。中身は、松茸とほうれん草、蒲鉾かまぼこと小さな鶏肉が入っている。優しげに香る鰹だしの匂いが食欲をそそる。

 それを見た後に、彼女は耳に髪を引っかけてから、小さいお匙を手に取って熱い茶碗蒸しに差し込んだ。ふぅ、と息を吹きかけて軽く冷まし、そのまま口にゆっくりと運ぶ。何度か咀嚼そしゃくした後、彼女はポロッと涙を零した。

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