この恋は、海に溶ける

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第一話「海音と燈」

 私がこの町に引っ越してきたのは、本格的な夏がやってくる前。流れてくる風には、海の香りが混ざっていて、まるで別の世界にいるような気がした。


「夜は星が綺麗だし、とても魚が美味しいのよ」


 なんて両親は言っていたけれど、私は正直なところ、不安で頭がいっぱいだった。


 二学期の夏休み前という中途半端な時期に転校するのは、どう考えてもハンデが大きい。クラスにはすでに仲のいいグループができているだろうし、その中に飛び込む勇気なんて……私にはない。


 転校初日、ホームルームで先生に名前を呼ばれ、クラスの前に立った。


「えっと……白石海音(みおん)です。東京から来ました……。よろしくお願いします」


 静まりかえった教室に、ぱらぱらと小さく拍手が鳴る。教室の空気がよそよそしくて、私だけ透明人間みたいだ。


 けっきょく数日が過ぎても、ぎこちない日々が続いて、想像以上に疲れた。休み時間に一人で机に座っていると、どうしても前の学校の楽しかった頃ばかりを思い出す。


 家に帰っても、ぜんぜん気分は晴れない。父は仕事に追われていて、部屋にこもって出てこない。ときどき顔を合わせると、「学校はどうだ?」と聞いてくるけど、何を言っても同じ返事しか来ないから、私には興味がないと思う。母はいつもリビングでノートパソコンを打ちながら、「今日は早く仕上げなきゃ」と忙しそうだ。


 私も気を使うから、いつもは部屋で過ごすようにしている。制服を脱いでベッドに転がり、スマホを手にする。SNSを開けば、前の学校のグループラインから、楽しそうな写真が次々に流れてくる。


 プールへ行った投稿、遊園地での集合写真、旅行先の風景。みんな生き生きとした笑顔をしていて、私だけが時間が止まってしまったようだ。


「私なんて、いなくなっても、誰も気にしないんだろうな……」


 連絡を取りたい気持ちはあるのに、いざ画面を見ると指が動かない。


 夜になると、なおさら孤独を感じてしまうから嫌だ。暗い部屋でベッドに横になり、青白く光ったスマホを一生眺めている気分。


「私、どうしたらいいんだろう……」


 ある晩、じっとしていられなくなって、思わず外へ出た。こんな遅い時間に家を出るなんて初めてで、ちょっと罪悪感があった。だけどそれ以上に、胸のモヤモヤを振り払いたかった。街灯がポツポツと続く道を歩いていくと、遠くから波の音が聞こえてくる。塩の香りが風に乗って漂ってくる。


 不思議だけど、なにか懐かしいような気持ちになった。


 砂浜につくと、誰もいなくて安心した。耳を澄ませば、ざざあっという波音が響いてくる。静かだけど、静かじゃない。だけど、うるさいわけでもない。私はサンダルを脱いで、そっと砂に足を埋めてみた。じんわりと冷たさが伝わってくる。


 視線を上げると、月の光が海面に細く伸びていた。さざ波が光を揺らしていて、まるで銀色の道が、海のはるか彼方へと続いているみたい。


 スマホのカメラで撮ってみるけど、うまく写らない。この目で直接見る景色が、いちばん美しいと思った。


 海から吹く風が髪を揺らし、目に入るから耳にかける。誰もいない夜の海辺は、不思議なほど安心感があって、ずっとここで海の音を聞いていたいと感じた。


 そのとき波の上に、ぼんやりした光が浮かんだ。最初は月の反射かと思ったけれど、少し違う。あれは……何だろう。


 波に透けるような青い光。どうしても気になったから、近づこうと歩いて行く。まるで何かに導かれているような感覚。なぜか胸がドキドキしていた。


 その光は、まるで生き物のように揺らめいて、次第にこちらへ近づいてくる。私は足を止め、息を飲んだ。


 すると波打ちぎわで、大きな水しぶきが上がった。その泡の中から、すっと何かが姿を現す。月明かりに照らされて、青みがかった髪が、ほんの少し揺れている。私を見ると、静かな声でこう言った。


「こんな夜に一人でここにいるなんて……。きみ、変わった子だね」


 私は一瞬、言葉を無くしてしまった。人間と違う姿をした、誰かがいた。上半身は人のように見えるけれど、腰から下は水色の鱗で覆われていて、長い尾びれのようなものが波の中でゆらゆらと動いている。


 普通なら悲鳴を上げるかもしれない。でも、その透き通る瞳に見つめられると、なぜか心が落ち着いてくる。深いブルーとグリーンが混ざったような、海の底を思わせる神秘的な色。


「もしかして……人魚、なの?」


 そう問いかけると、相手は首をかしげ、少し笑って答えた。


「ぼくは、燈(ともり)。きみは?」


「私は、海音(みおん)……です」


「海音っていう名前、いいね。海の音って書くの?」


「そう……だけど、あまり好きじゃないの。自分に合ってない気がして」


「でも、ぼくはその名前、すごく綺麗だと思うよ」


 燈は透明な声で、囁くように話す。それが心地よく、耳の奥にスッと入ってくる。


 気づけば私は、膝まで海水に浸かっていた。冷たいはずなのに、なぜか気にならない。燈は尾びれをゆっくり動かしながら、こちらを見つめている。波打ちぎわの境目にいる私は、どっちの世界にも入れない状態だ。


「あなたは……海の中に住んでるの?」


 燈は軽くうなずいて答えた。


「うん。ぼくは海底の街で暮らしてる。そこでいろんな本を読んだ。地上には雲とか太陽とか虹とか、人間の暮らしがあるんだって。ずっと憧れてたんだよ、海の向こうの世界に」


夢を見るように話す燈の目が、さらに透き通って見える。


「ねえ。海底の街って、どんなところなの?」


 気づけば、私は次々に質問を投げかけていた。物語の中でしか知らない世界に住んでいる人が、目の前にいる。燈はゆっくりと目を伏せて、波間を見つめながら静かに口を開いた。


「昔は人間との交流もあったらしい。でも、あるときから人魚の世界は深い海の底で閉ざされてしまった。夜しか海面に出られない。そして月の光がないと、人間と話すことができない」


 限られた時間にしか会えない、美しい人魚の少年。私は「もっと話したい」と思った。


 気がつくと、夜風が冷たくなっていて鳥肌が立った。こんな時間まで外にいるなんて、両親は何て言うだろう。だけど、ここから離れられない。燈も私を見つめたまま動かない。


 そうして、私がもう一歩海に入りかけたとき、燈が優しい声で言った。


「無理しないで。夜の海は冷えるから」


 私の心配をしてくれる人魚に、人間よりよほど暖さを感じた。


「また、来てもいい……かな?」


 恐る恐る私が言うと、燈の瞳が月明かりにかすかに輝いた。


「もちろん。ぼくもきみと話すのが楽しいから。……だけど、月が出ている夜しか会えないからね」


 そうして、私たちは不思議な「秘密の時間」を共有する。こんな夜がこれからも続くと思うだけで、新しい世界に踏み入れたようで楽しくなってくる。


――だけど私は、まだこのとき、燈の秘密を知らなかった。

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