◆ 喪失① ~利野視点~ 後半


『ねぇ"ヤリマン"、ちょっと用があるんだけど』


 ヤリマン──それが前の世界での、私のあだ名だった。トイレ、上靴、写真、落書き、中傷、破れた教科書、差出人不明の手紙、血だらけのハンカチ、濡れたバッグ、ひっくり返された机、捨てられた学校のバッジ、ほこりまみれの制服、塗りつぶされたクラス写真、暗い夜道、制服の中を這った男の手──


 忘れたかった記憶が走馬灯のように蘇る。


 どくどくどく、と心音のペースが上がり、息が苦しくなり始める。

 逃げ出したいのに身体はぴくりとも動かない。



「あのさー」


 やがてその子は私たちの机のすぐそばまで来ると、拍子抜けするほど明るい声で言った。


「今日ウチら駅前の『チムジルバー』行くんだけど、誰か行かない? 行くっしょ?」



「え! 行く行く! さっきちょうど私らもそこの話しててんで! なぁ?」

「やばー、またインスタが映えてしまうん!?」


 けらけらと笑いが起こる。


 それが、私とはまったく関係のない話であると理解するまでに、かなりの時間を要した。私の心臓は今なお、破裂寸前にまで鼓動を早めている。


「コっちゃんも行くやろ? って、そっか。こいつは彼氏と夕飯行くんだっけ」


 まるでお決まりのジョークでも言ったかのように、弾けるような笑いが起きた。

 そんな中で、私だけが笑いを引き攣らせていた。





「ファンなんていらんわ」


 夕練後、校門前で待ち合わせた。

 小柿くんの知っているお店に向かう途中で、彼は興味なさそうにいった。

 すこし制汗剤の匂いがする。


「おれは瑚都ことだけでええし」

「でも私よりいい子もいるかもしれないよ」


「なんや自分、ヤキモチやいてんのか?」

「そ、……そんなんじゃないよ」


「心配いらんて。瑚都ことより魅力的な女子がおったとしたら、それは天使や。天使なんておらん。ほんなら瑚都ことが世界一や。わかるか、この理屈」


 私なりに、彼と別れる方法を考えてみたのだけれど、それは彼の『瑚都こと』に対する愛情を確かめるだけの結果になってしまった。


 私は仕方なく話の方向性を変えた。


「お店は遠いの?」


 言ってから、良くない質問だったなと思った。

 ノリ気でないことが丸わかりだ。

 行きたいなら普通、『どんなお店』とか『何が食べられるの』とか尋くだろう。


「ちょっと歩くけど、そんなに掛からん。疲れてんのやったらおぶってくで?」

「いいって」


 苦笑する。彼なら本気で私をおんぶしかねない。


 空はすっかり暗い。12月は一年のうちでもっとも日が短い。

 時間を確認しようとしてスマートフォンを取り出した。そこへやっと心待ちにしていた音が鳴ったのだった。



 ──ピンコーン



 私は思わず「あっ」と声を上げた。

 急いでラインを開くと、『お兄ちゃん』からだった。


 今朝、私が彼に宛てたメッセージと続けて読むと、このようになる。


『今日って帰ってくるの何時くらい?』

『悪い。スマホの電池切れてた。仕事はもうじき終わるけど、現場が遠い&渋滞が酷いらしいのであと2、3時間はかかる』


 目を通して、ひとまずほっとした。


 素直に受け止めれば、紗奈さんとの食事は取りやめになったことが分かる。2~3時間というのが怪しい所だけれど、変に疑うのは止めておこう。


 それよりも、経緯はどうあれ私も彼と同じ状況になってしまっている。

 つまり、小柿くんとの食事のことだ。


 報告すべきなんだろうか。


 今は17時半。

 ということは、北折さんの帰りは大体20時前後になる。


 小柿くんに誘われたことは、言わないでもいいかもしれない。

 変に心配を掛けたくないのだ。でも……


 私は以前彼から言われたある言葉を思い出した。


『気を遣うのは悪くないことだが、やり過ぎは逆に傷つく』


 最近になって彼の言いたかったことが少しずつ理解できるようになった。


 一昨日のことだ。

 私のスマホを覗きみた彼は、自分も辛かっただろうに『しょうがない』の一言で済ませた。本当はもっと責めて欲しかった。それに、私を見てタバコを隠したこともショックだった。そんなことで嫌いになったりはしないのに。


 ──やっぱり報告しておこう。


 スマホを両手で持ち直した。ら、


「誰? お兄さん?」


 小柿くんが私のスマホを覗くようにして尋いてきた。


「う、うん……」


 私は静かに両手を下ろし、画面をオフにした。


「なんて?」

「私、19時前には帰らないとなんだけど……それでも良い?」


 少し早めの時刻を言った。

 小柿くんは前を向き、黙って歩きつづけた。


 なにか考えごとをしているのは明らかで、私はハラハラした。


 同じ男の人でも、一緒にいるときの安心感が北折さんとは全然ちがう。

 私の中で小柿くんは、爆弾のようなものだった。さっき校門で合流してから緊張が続いている。


「……せやけど、瑚都ことほんまに大人しなったよな」

「そうかな……」


 車通りの多い大通り。

 交差点が見えた。

 そのすこし先に商店街も見えたけど、小柿くんが細い脇道を曲がったので、私も彼のあとに続いた。


「うん。前はもっとガンガン来てくれたのに……」


 小柿くんはそこで言葉を止めた。


 なおも歩みは止まらない。

 道はどんどん細くなっていく。


 すでに車がすれ違うことも出来ないほどで、道のわきに一方通行の看板が立っていた。


 私はすこし息苦しくなった。

 道の両脇に背の高いコンクリート塀が立ち、見通しが悪いのだ。


「……小柿くん、道あってる? なんか真っ暗だよ……」


 空が暗いのはもちろんだが、それにしても異様に暗い。

 今気づいたのだが、ひとつも街灯が立っていなかった。


「言葉遣いにしても、その東京弁みたいなんは、テレビか何かの影響なんか?」

「え……?」


 小柿くんが足を止めた。


 恐ろしいほど静かだった。

 ずっと後方で車の走行音が断続して聞こえるだけで、辺りはしんと静まり返っている。


「……ねぇ、なんか怖いよ?」


 心音が聴こえはじめる。

 昼休みに収まったはずの動悸が、まるであの時の続きを始めたかのように鳴り出した。


「先週、レストラン行くって言ってたのに急に帰ったやろ。やっぱり自分、あの時からおかしいで」

「いた……っ! や、やめてよ」


 手首を掴まれた。ものすごい力だった。

 うすうす感じていた感情が、はっきりと『恐怖』に変わった。


瑚都こと、キスしてくれ。頼む」

「なんで……? なんで……」


 逃げた方がいい──経験から来る直感が働いた。

 腕を引っぱってみたけれど無理だった。

 とても私の力ではこの手を外せそうにない。


「悪いけど、さっきラインが見えたんや。せっかくお兄さんおらんのに、なんでそんな早く帰りたがるん? 第一、おかしいやろお兄ちゃんお兄ちゃんて、そんな急に……昨日やってそうやん。お兄ちゃんにご飯作らなあかんのはええとして、それが何でキスできへん理由になるん?」


「…………」


 彼の声は耳に入ってくるのだが、返事ができなかった。


 ……はぁ、……はぁ、


 私は息を整えるので必死だった。


 吸うこと、吐くこと。

 一度でも順番を間違えれば取り返しのつかないことになりそうで。


「お前がおかしくなったんは、兄キが帰ってきてからや。仲直りしたって言うとったけど、ホンマは違うんとちゃうか? 家で何かされとんちゃうか?」

「……いや……」


「はっきりせえっ!」


 そのとき、掴まれていた手首と反対の手が引っ張られ、肩に掛けていたバッグが肘までずり落ちた。私は彼の正面に立たされた。


 恐怖に涙が込み上げ、ぼろぼろと頬を流れ落ちた。



「……いや」



『何がイヤなんだ。自分から襲って欲しいって言っておいて』



「……言ってない……はぁ、はぁ、……あたし、……しらない……」



『知らなくないだろ、ぜーんぶ書いてあったんだぞ。東京都立水元高等学校、三年D組の、二見利野ちゃん』



「いや……たすけてきたおりさん……」



「キタオリ……? 誰やそれ。そいつがお前の新しい男か?」



『声出したら、分かってるな? いや、出すワケないよな。これがお前の望みなんだろう』



「────っ」



 記憶が、次々と意識に流れ込んでくる。



 私は崩れるようにその場に座り込み、どうしようもなく泣き続けた。

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