あの歌声は遠吠え
ニシマ アキト
1
嫌な予感はあった。俺たちはここ最近、うまくいきすぎていた。四人でバンドを結成してから二年間、ずっと日の目を見ない日々が続いていたが、数ヶ月前からやっと実力を認められるようになってきた。ユーチューブに上げた動画はどれも五千回以上再生されているし、登録者はそろそろ三万人に届きそうだ。今日のライブだって大盛況だった。俺たちのバンドを目当てにライブハウスまで足を運んだ人も大勢いただろう。俺たちは、もう、いつレーベルから声がかかってもおかしくないような状況だった。プロ一歩手前まで上り詰めていた。
だから油断していた。
人は絶好調になると、極端に視野が狭まってしまう。失敗する可能性を思考から排除して、都合の良い情報だけを取り入れるようになる。
自分にとって都合の悪い過去の後悔も、忘れてしまう。
「カンパーイ!」
ライブ終わり。俺たちはいつもの居酒屋で打ち上げをしていた。ドラムの後藤、ベースの直井、ボーカルの小雪、そしてギターの俺。この四人でテーブルを囲み、特に馬鹿騒ぎするわけでもなく適当に駄弁りながらひたすら酒を飲む。
俺が五杯目のハイボールを飲み終わる頃、後藤と直井はほとんど出来上がってしまっていた。後藤は机の上に突っ伏したまま顔を上げようとしないし、直井は真っ赤な顔でひたすら枝豆の皮を分解していた。
俺たちは暢気に油断しきっていた。俺たちの突き進む道を邪魔する奴なんか一人だっていやしないと信じきっていた。
だからそいつの声を聞いたとき、すぐには誰だかわからなかった。
「あの、小雪さん? 少し、いいですか?」
髪の長い女にそう声をかけられたとき、俺の隣に座る小雪は、俺の肩に頭を預けて眠りかかっていた。小雪は頬にかかった自分の髪をかきあげて、女の顔を見る。
「小雪さん、ですよね? さっき、あの地下のライブハウスで歌ってた」
「そう、ですけど……」
小雪は眠そうな声で答える。髪の長い女は帽子を目深に被っていて、屋内なのにサングラスをかけていて、人相がよくわからなかった。
「先ほどのライブ、全て聞かせていただきました。もちろん演奏技術も素晴らしかったんですけど、やはり小雪さんの透き通るような歌声が特に印象深かったです」
「え、あ、はあ。ありがとうございます……」
「あなたは天性の才をお持ちです。その圧倒的な才能を世間に知らしめないままなのは非常にもったいない。このバンドで歌い続けるのもいいですけど、私ならあなたにもっと相応しい舞台を用意して差し上げることができます」
「な、何なんですか、いきなり」
「つまりですね、あなたをスカウトしたい、と言っているんです」
そのとき、髪の長い女が帽子とサングラスを外した。真正面から、力強い瞳で小雪を見つめている。
その顔を一目見た瞬間、俺は戦慄した。
——こいつ、水瀬か。
高校二年のときにクラスに転校してきた、元同級生。高校時代に出会った人の中で、俺が最も憎み嫌った人物。
「私、ユーチューブで音楽制作をしているものでして、現在登録者が五万人ほどいるんです。今はボカロに歌わせているんですけど、そろそろ誰かとユニットを組みたいと考えていて。今日、あなたの歌声に一目惚れ、いや一聞きぼれしました。私と二人で日本の天下をとりましょう」
「え〜? いや、そんな、急に言われても、ねぇ」
「……お前」
自分の喉から、驚くほど低い声が出る。
俺は、小雪の手首をぐっと強く引いた。
「お前、そんなことができると本気で思ってるのか」
「真島くんには何も言っていません。私は小雪さんをスカウトしているんです」
「このバンドのリーダーは俺だ。だから小雪が俺の許可なくお前のスカウトを受けることは許されない」
「真島くん、自分が始めたバンドだからって王様気取りなわけ? そういうこと続けてると、すぐにメンバーが離れていっちゃうよ」
「え、なに、二人は知り合いなの?」
俺と水瀬に挟まれる形になった小雪が困惑する。
「お前、もう帰れよ」
「相変わらず冷たいなぁ真島くんは。昔は私と血を分け合ったこともあったのに」
分け合ってはいない。水瀬が一方的に俺の血を吸い取っただけだ。小雪の前で誤解を招く発言はやめてほしい。
「小雪さん、これ、私の連絡先です。あとユーチューブチャンネルも。もし興味があったらいつでも連絡してください。私は本気ですから。真島くんよりも私のほうがあなたを高みへと連れていけると信じていますから。ぜひご検討のほど、よろしくお願いしますね。それでは!」
水瀬はこちらに有無を言わさぬ早口でそう言って、小雪に無理やりメモを握らせ、早足で居酒屋から出て行った。小雪の手の中にあるメモを今すぐ破り捨てたくなったけど、それはそれでまた小雪からあらぬ誤解を招きそうなのでやめておいた。
「今の、真島の知り合い?」
「昔のな」
「な〜んか怪しい感じだなぁ」
「元カノか」
後藤が言うと、小雪が瞼をがん開いたものすごい形相でこちらを振り向いた。俺は今にも噛み付いてきそうな小雪の頭を撫でながら「そういうのじゃないよ」とやんわり否定する。
俺と水瀬が恋人関係だった時期はない。
だけど、俺が水瀬を好きだったことは、もしかすればあったのかもしれない。
俺たちは最初、男三人のスリーピースバンドだった。高校時代から通っていたライブハウスで後藤と直井に出会って、大学一年生の秋、その場のノリだけでバンドを結成した。半年後、それまで所属していたバンドが解散してフリーになっていた小雪を俺が勧誘した。そしてしばらく経った後、俺と小雪は付き合い始めた。一応、後藤と直井には今でも秘密にしているけれど、流石にもうバレていると思う。
俺たちは四人の力でここまで上り詰めてきた。俺が作詞作曲をして、小雪がそれを歌って、俺と後藤と直井の演奏で支える。今に至る過程の中で、互いに何回も衝突してきたし、その度に解散してやろうかと本気で考えた。それでも結局最後には諦めずに踏ん張って、今までやってきた。
俺はそれなりに苦労してこのバンドで実力を積み上げてきた。
それを今、水瀬が壊そうとしている。
「ねぇ、リョウくんも一回聴いてみなよ」
小雪が俺にイヤホンを片方差し出してくる。小雪の両目は無垢に彩られていた。純粋な好奇心しか感じられない、無邪気な瞳。その手の中のイヤホンから流れているのは、水瀬が作ったボーカロイドの楽曲。
水瀬の作った曲なんて、俺はもう二度と聞きたくない。
「俺は聴かないよ」
「どうして? 良い曲だよ」
「俺が作った曲よりも?」
「そ、そうは言ってないけど。でも、良い曲だよ」
「……俺、もう寝るから」
言って、俺はベッドに入った。小雪は少し残念そうな顔をして、手の中のイヤホンを自分の耳に挿した。
あの日、水瀬が俺たちの前に現れてから、小雪はずっと水瀬の作った曲を聴いている。
だから俺はここ最近、よく眠れていなかった。
小雪は、バンドを脱退するつもりなのだろうか。
水瀬と二人で活動していくつもりなのだろうか。
もしそうなったら、俺たちのバンドは終わるだろう。
小雪が脱退したせいで離れていくファンは大勢いるだろうし、小雪の代わりになれそうな人なんて全国探してもどこにもいない。俺たちのバンドは、誰か一人でも欠けたら成立しない。
あいつは——水瀬はどうして、今更になって俺の目の前に現れたんだろう。
この期に及んで、どうして俺の邪魔をしようとするのだろう。
いや、違う。水瀬に俺の邪魔をするつもりなどないのだろう。ただ純粋に小雪の歌声が気に入って、自分の音楽に利用したいだけなのだ。俺が小雪と付き合っているとか、俺のバンドにとって小雪がどれだけ大事な存在なのかとか、そんなことは全く考慮していない。ただ自分の目的を遂行するために、強引な手段をとっているだけだ。
あの頃からずっと、彼女はそういう奴だった。
合理性の塊で、人情や気遣いなんかとは無縁な人だった。
だから俺は水瀬が大嫌いだった。
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