第3話 水の導

 俺は手元の紙を広げて、対戦相手と試合会場を確認する。指先が少し震えているのは、緊張のせいだろうか。広大な運動場の喧噪が、遠くから耳に届いていた。


「えーっと……場所はFコート、対戦相手は……同じクラスのなぎか」


 その名前を目にした瞬間、胸の奥がひやりとした。清水凪なぎ――剣術の道場で共に汗を流し、腕を磨いてきた仲間であり、俺にとっては良きライバルでもある。彼は冷静沈着で実力も申し分ない。しるべの扱いにも長けていて、いつも俺の届かない高みにいるように感じる。


(相手がなぎか……妙な因縁を感じるな。でも、やるしかない)


 時間にはまだ余裕があったので、紙の裏に記載されている試合ルールに再度目を通す。文字が少しぼやけて見えるのは、集中力が散漫になっている証拠だ。


【実技試験・ルール概要】


 ・試合形式は1対1


 ・試合の終了条件は、時間切れ、もしくはどちらかの降参、気絶、失神


 ・対戦相手は完全ランダム。


 ・しるべの使用は認められているが、殺傷能力が過度な技は禁止


 (分かってはいたけど……しるべの使用、許されてるんだな)


 自分には使えない力が、相手にはある。その現実が再び心に重くのしかかる。それでも逃げるつもりはなかった。俺は、俺なりの戦い方で挑む。剣を握る手が、汗で少し滑るのを感じながら、心の中で自分を叱咤しったした。


(勝てるかどうかじゃない。俺は、俺の全てをぶつけるだけだ)


 紙をそっと折りたたみ、胸ポケットにしまう。そしてFコートへと足を運ぶ。足音が土を踏むたび、地面の感触が俺の決意を試すように響く。


「……ここが、Fコートか」


 指定された試合場に着くと、すでに数名の教師や審判、それに見慣れぬスーツ姿の大人たちが立ち会っていた。恐らく、審神者さにわ学園の関係者――誰もが夢見る、あの学園の。空気は張り詰め、周囲の木々が風に揺れる音さえ、緊張を増幅させるようだった。


 そして、その人だかりの中に、ひときわ目立つ人物がいた。黒髪に青のメッシュが映える、鋭い目つきの少年――なぎ


(やっぱり、もう来てたか)


 俺と同じくらいの背丈。鋭い目元と端整な顔立ち。立っているだけで空気がピンと張るような緊張感を放っていた。それでも彼は、俺の姿を見るとふっと表情を和らげた。いつもの道場での穏やかな笑みが、そこにあった。


「来たか、よい。お互い、悔いのない戦いにしような!」


 その言葉に、胸が熱くなる。なぎは本気だ。俺に対しても手加減など一切する気はない。それが何より嬉しかった。ライバルとして、認められている気がした。


「……ああ。全力でいくよ。俺も、もう守られるだけの存在じゃないからな」


 俺はそう答えながら、少しだけ拳を握りしめた。不安もある。でも、それ以上に――戦いたいという気持ちが、今は確かにあった。心臓の鼓動が速くなるのを感じ、深呼吸で落ち着かせた。


 俺は対戦相手であるなぎと共に、整備された土がほんのわずかに盛り上がったFコートへと足を踏み入れる。


 足元の土が、かすかに音を立てる。その小さな感触すら、今の俺には妙に重く感じられた。太陽の光がコートを照らし、影が長く伸びている。


「――お願いします」


 静かに、だがはっきりと口にして頭を下げる。礼儀の中にも、俺なりの決意を込めて。汗が額を伝うが、拭う余裕はない。


 なぎも同じように深く頭を下げる。互いの気持ちは言葉にしなくても伝わっていた。目が合った瞬間、互いの闘志が火花のように散った。


「両者、準備はいいですか? それでは――実技試験、開始!」


 審判の声が鋭く響いたその瞬間、空気が一変する。周囲のざわめきが遠ざかり、俺たちの世界だけが濃密になる。


 俺となぎはほぼ同時に構えを取った。へその前に木剣を据えた正眼せいがんの構え――いつも道場で繰り返してきた、あの基本中の基本。しかし今は、それが妙に引き締まって感じる。風が頰を撫で、集中力を高めてくれる。


(……落ち着け。焦るな。自分の剣を信じろ)


 俺は、剣の柄を握る手に力を込めた。しるべを使えない分、俺には剣しかない。だからこそ、この剣で前に出るしかない。息を整え、相手の動きを鋭く観察する。


「はあっ!」


 勢いよく踏み込み、俺は先手を取った。相手に飲まれる前に、自分の剣術で試合の主導権を握るために。土を蹴る足音が響き、木剣が空を切る。


 なぎは俺の踏み込みをなんとか受け止め、木剣同士が打ち合わさった瞬間、つば迫り合いへと突入した。木の衝突音が鋭く響き、互いの力がぶつかり合う。


「っ……!」


 なぎは歯を食いしばりながら、力任せに俺を押し切ろうとする。だが、俺の脚は一歩も退かなかった。体重をしっかりと乗せ、俺は自分の軸をぶらさないよう踏ん張る。筋肉が張り、息が荒くなる。


(ここで引いたら負ける。俺には退く理由なんてない……!)


 一瞬の隙を見つけ、俺はなぎの剣をぐっと弾いた。その衝撃で彼の体勢が大きく崩れる。チャンスだと思った。


「――隙ありッ!!」


 反射的に踏み込んで、俺は木剣を振り下ろした。勝利を確信したその瞬間――


「甘いな、よい


 なぎが口元に笑みを浮かべながら、俺の剣を巧みに受け流した。流れるような動きに、俺の目は驚きで見開かれる。


(なっ……!? いつの間に体勢を……!?)


「本当は最後まで、お前と純粋な剣術勝負をしたかった。だけど――これは試験だ。だから、使わせてもらうよ。俺のしるべを!」


 その声と同時に、なぎの周囲の空気ががらりと変わった。さっきまでの静かな気配が一転、まるで大気そのものが震えているようだった。湿った空気が肌にまとわりつく。


 肌が粟立ち、背筋に冷たいものが走る。俺の全身が、無意識に警戒を始める。心臓の鼓動がさらに速くなり、喉が乾く。


(……これが凪のしるべ……!?)


 彼が力を発現したその瞬間、俺の心は熱く、そして同時に強く締めつけられていた。なぎの木剣が、水のような輝きを帯び始める。青く透き通った水の膜が剣身を覆い、まるで生き物のようにうねり始めた。空気中に湿気が増し、周囲の土がわずかに湿るのを感じる。


「いくぞ、よい!」


 なぎの声が低く響き、瞬時に距離を詰めてくる。その動きは、剣術だけではありえない速さ。水のしるべが彼の体を滑らかに加速させているようだ。俺は慌てて木剣を構え直すが、遅かった。


「はっ!」


 なぎの剣が横薙ぎに振るわれ、水の奔流のような衝撃が俺の体を襲う。木剣で受け止めたはずなのに、水の力が剣を通じて伝わり、俺の腕を震わせる。まるで波に飲まれるような感覚。防御が崩れ、足元がよろめく。


(くっ……こんな力……!)


 さらになぎは追撃を加え、水をまとった剣先が俺の肩を掠める。冷たい水しぶきが飛び散り、痛みが電流のように走る。体が後ろに吹き飛ばされ、地面に転がる。土の粒子が口に入り、息が苦しい。


「ぐっ……!」


 全身が痛む。腕も、膝も、鈍く痺れている。それでも――立ち上がらなきゃ。地面の土が手に食い込み、痛みが俺を現実に戻す。


(ここで終わるわけにはいかないんだ……!)


 歯を食いしばって立ち上がる。視線を上げた先には、すでになぎが再び木刀を構えていた。その気配は、俺に息をつく暇すら与えない。青いメッシュの髪が、風に揺れる。


「これが……水のしるべか。攻守に対応できるなんて、反則だろ……っ」


 俺は息を切らしながら呟いた。なぎの木刀が、水を纏って再び振るわれる。その一撃一撃が重く、鋭い。俺は何とか木刀で受け止めるが、彼の攻撃の手は止まらない。水の流れのような柔軟さが、俺の防御を崩していく。


「まだだ!」


 なぎは叫び、さらに速度と重さを増した連撃を繰り出してくる。まるで押し寄せる激流のように、息もつかせぬ攻勢。汗が目に入り、視界がぼやける。


(クソッ、防ぎきれない……!)


 俺も必死に剣を動かし、持ち前の技術で食らいつく。それでも、次第に圧されていくのが分かった。身体が悲鳴を上げる中、防御のリズムが一瞬崩れる――。


「貰ったッ!!」


 なぎの渾身の一撃が俺の胴を正確に捉えた。避ける暇などない。重く鋭い衝撃が腹に食い込み、次の瞬間、俺の身体は宙を舞っていた。世界が一瞬、ゆっくり回る。


「かはっ……!」


 全身の力が抜け、そのままコートの外へ吹き飛ばされる。地面に背中から叩きつけられ、視界がぐらぐらと揺れた。息が詰まり、痛みが全身を駆け巡る。


(……動けない……っ)


 すぐに医療班が駆けつけ、手際よく傷の手当てをしてくれる。その間に、審判の声が響いた。声が遠く聞こえる。


「そこまで! 勝者、清水凪なぎ!」


 その言葉が、胸の奥に重くのしかかる。敗北の味が、苦く広がる。


(これが……才能の差か)


 痛みよりも悔しさの方が大きかった。俺は歯を食いしばり、唇を噛み締める。地面の冷たさが、俺の熱い感情を冷まそうとする。


 すると――


「立てるか?」


 手を差し伸べてきたのは、なぎだった。試合では容赦なかったその瞳に、今は真っ直ぐな誠意が宿っている。息が少し荒いが、笑みが優しい。


「いい試合だった、やっぱり純粋な剣術ではよいには敵わないな。まだまだ、試験はこれからだしここで終わる奴じゃないって、俺は知ってる。後の試合も頑張ろうぜ」


 その言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなる。悔しさが、少しずつ前向きな力に変わる。


(……まだ終わりじゃない)


 俺たちはしっかりと握手を交わし、互いの健闘を讃え合った。その手のぬくもりに、勝敗を超えた確かな絆を感じる。道場での日々が、フラッシュバックのように蘇る。


「また勝負しような」


「……ああ、絶対に」


 そう言葉を交わして、俺たちはゆっくりとコートを背に歩き出す。試合の熱気がまだ肌に残っていた。太陽が少し傾き、長い影が俺たちの未来を象徴するように伸びる。

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