5-3



 後宮に戻ると、ジャフィーは何やら呻きながら、ほとんど机に突っ伏すような姿勢で、必死に魔術式を組み立てていた。


「くそ……なんでこんな……だめだわからん……」


 ぶつぶつ呟く言葉の八割が愚痴、という、彼にしてはなかなか珍しい状況である。ルグレアの訪いにも、どうやら気がついていないらしい。なにか魔術を開発しているのなら邪魔をしないほうがいいか、と、ルグレアはそっと椅子を引いて座った。机の上の水差しから勝手に飲み物を拝借して飲みながら、なにかジャフィーに頼んだ覚えもないし、一体何をそんなに必死になっているのだろう、と内心で首を傾げる。そんなルグレアの視線にまるで気づかなないまま、ジャフィーは時折口元を抑えながら必死に鉛筆を動かし──ふと顔を上げて、「うわ!?」と大きな声を上げた。


「き、来てたの!?」

「ちょっと前にな」

「いや声掛け……なくていいや、邪魔されたらキレてたもん普通に」


 だろうと思った。ルグレアは軽く肩を竦め──眼の前で突然ジャフィーが「うえ」と口元を覆ったのを見て目を見開く。

 慌てて駆け寄って、何故か机の上に置いてあったちょうどいい袋をジャフィーの口元に当てる。


「っ、は、……いや、出ない、大丈夫……」

「大丈夫そうには見えねえが」

「でもまあ、もう出るもんないから……」


 ジャフィーはすっかり嫌になったような声で言って、そんなに具合が悪いのか、と、ルグレアは眉をしかめた。……まさか。


「……毒見係は何してた?」

「いや、ちゃんと魔術で確認してるから食事は。盛られてないよ」

「じゃあなんだ? ……ここに掛かってる魔術を解き終わってからは体調もいい、って、言ってたはずじゃなかったか?」


 ジャフィーが全てを知った今、後宮に掛かっている呪いに近しい魔術を維持しておく必要性はどこにもなかった。というか、中にいる人物の認識を阻害して閉じ込めておくための魔術など、有り体に言って帝国の『負の遺産』だ。いっそ後宮ごと破棄してしまっても良かったのだが、ジャフィーが八つ当たりのような顔で『俺が解除するからこれ』と言っていたので好きに解かせて、つい先日『やっっっっっと解き終わった……!!』と快哉を上げていたはずだ。ルグレアの厳しい目に、「あー……」とジャフィーは困ったように視線を泳がせた。


「それも、うん、なにか残ってたとかじゃないよ。大丈夫」

「……なら、なんだ? 悪い病でも拾ったか?」

「そういうのでもない」


 どれでもなく、けれども確実に何かはあるのだろう言い方に、だんだんと苛立ちが募っていく。ルグレアはますます眉を寄せ、「話せ」とジャフィーに詰め寄った。


「じゃあ何だ? 心当たりがあるんだろ」

「……あると言えばある……」

「ジャフィー」

「いやでも、確定じゃないからさ、まだ」

「いいから話せ」


 顔全面に「嫌」と書いて身体を引くジャフィーに同じだけ詰めよる──と、ミトが「失礼します、果実を頂いてきました」と言いながら部屋に入ってきて、ルグレアはそちらを振り向いた。

 ふわ、と、鼻先を、爽やかな柑橘の匂いが掠める。

 ミトが両手に抱えている色とりどりの柑橘類と絞り器とを見た瞬間に、ルグレアの中で、ぱちんとすべてがはまる音がした。


「……まさか」


 避妊魔術をやめたのは、つい二ヶ月前、条約の締結が行われた後からだった。ルグレアの視線を受けて、ジャフィーは慌てたように「まだ確定じゃないから!」を繰り返す。


「俺の魔法薬でも、そうじゃなくても、流れる可能性も高い時期だし!」

「……だとしても、とりあえず、出来てはいるってことだろ?」

「それは……まあ……」


 ジャフィーはごにょごにょと言葉を濁し、ルグレアは盛大にため息を吐いた。この様子では、少し前には着床そのものには気づいていたのだろう。


「言えよ、それは」


 ぽつり、と、口から溢れた言葉は、もしかしたら、必要以上に重く響いたかもしれない。ジャフィーが軽く目を瞬き、それから、「だって」と言い訳のように口にする。


「なんか……出来なければ出来ないでいいみたいな感じだったし……」

「欲しくないわけじゃねえって言ったろ」

「それに、さっきも言ったとおり、まだ全然安心できる時期じゃないから……糠喜びさせたくもなかったし……」

「それは」


 ルグレアはひたとジャフィーの瞳を見据えた。


「……駄目だったら、何も言わねえつもりだったってことか?」


 ジャフィーは息を呑み、それから、大人しく「ごめん」と頭を下げた。ルグレアは「謝らせたいわけじゃねえよ」と軽く頭を掻く。それから、椅子から立ち上がり、ジャフィーの方に歩み寄った。

 ジャフィーの赤い瞳が、困ったようにルグレアを見上げる。ルグレアはジャフィーの隣に跪き、それから、椅子に座ったままのジャフィーを抱きしめた。


「言えよ。……お前一人不安なのは、おかしいだろ。俺の子どもなんだから」

「……うん」


 ジャフィーが小さく頷いて、身体から力を抜いてルグレアに寄り添う。細い体だ。身長こそ高いが、どこもかしこも細い。ましてや腰や腹など、よくルグレアのものが収まるな、と思うほどに──あるいは、本当に内臓が入っているのかを疑うほどにぺたんとしている。触れてみれば確かにジャフィーの下腹部に掛かっている魔術は少し形を変えていて、ここに『子宮』と呼ぶに相応しいものが存在していることがわかるのだが──この薄い腹でほんとうに人一人が育つのか、と思うと、なんだか目眩がするようだった。


「……ジャフィー」

「うん?」


 この日を夢見ていた──わけではなかった。

 ジャフィーの言うとおり、ルグレアは、実子を持つことへの拘りはまるで無かった。自身は十分に母の愛を受けて育ち、親子というものへの忌避感があるわけではなかったが、あるいはだからこそ執着のようなものもなかったのかもしれない。いれば嬉しい。いなくても問題はない。ルグレアにとっての『実子』とは、そういうフラットな存在だった。

 そのはずだった。

 けれども──けれども、この胸を突き上げるような、痛みとも苦しみともつかない、叫び出したいような気持ちはなんだろう。その気持ちに突き動かされるままに、ルグレアの口が勝手に動いた。


「結婚してくれ」

「………………うん?」


 ジャフィーが、拍子抜けたようにかくんと首を傾げた。それから、気を取り直して「いやいや」と言う。


「いやもう聞いたよそれ。てか、来月、パレードの予定も立ってるじゃん、俺のお披露目と言う名の結婚パレードがさ」

「うん」

「うんじゃなくて……いや、うん、まあ、わかるよ」


 わかるよ、と、繰り返してからジャフィーは微笑んだ。

 そうしてジャフィーは、片手を己の薄い腹に乗せ、視線を同じく下腹部へと下ろした。まだ膨らみのない、けれども確かに何かが育っている腹だ。


「……俺はさ、子どもとかほんとに興味がなくて、ルグレアが欲しいなら作るかって、それだけの気持ちだったんだけど」


 でも、というジャフィーは、自分で自分に驚き、戸惑っているような声をしていた。


「よくわかったね、俺が、『不安』だったって。……そう、もうずっと、ここに子どもがいるってわかってからずっと不安なんだ。この子はちゃんと産まれてくるのかな。俺は……俺はさ、まともに誰かに育ててもらったこともなくってさ。……人だって、いっぱい殺してさあ」


 ──まさか。

 早すぎる、と、ルグレアは思った。ジャフィーはいつか己の罪に気付く、人を殺してきたその意味に、その重さを知るときが来る──ルグレアはほんの数刻前にアリにそう語ったけれど、それは、こんなに近い未来の話ではなかった。もっと遠いいつか、なんなら訪れないかもしれないぐらいに遠い先の話だったはずなのだ。

 けれども、今ほど相応しいときもまた、存在しないのかもしれないと思った。少なくとも、今、ルグレアにも、同じ痛みが宿っているのだ。喜びだけでは決してない、ルグレアを突き動かした何かが。息を飲むルグレアの前で、ジャフィーはほんの少し、自嘲するように笑った。


「だからさ、資格がない、っていうか……そもそも、子どもなんてまともに育てられるはずがないって思うんだけどさ……」


 ジャフィーの生育環境については、本人の口から、大まかにだけ聞いていた。そのあまりの才能ゆえに母に恐れられ、特例で魔術学院への入学を認められ、以降ほとんど学院で育ったようなものである、と。それを聞いたルグレアは、なるほどだからか、と思ったものだ。

 ジャフィーはだから、子どもの部分を多く残したままで、そうであることを、才能によって許されてきたのだ。


「でも、……でも、嬉しいんだ。たぶん、嬉しいんだと思う。そして、」


 ひとつの命の重さ。


「だから怖いんだ。どうしようもなく怖い。だからルグレア」


 誰だって、はじめは、小さな命──母の腕に抱かれ泣いていただけの命だったことが、今より強く感じられるときがあるだろうか。魔術や魔法薬による避妊と堕胎が容易いこの世界において、産まれてきた子どもは皆、少なくとも一度は誰かに望まれていたのだと──愛されていたのだと、感じられるときがあるだろうか。

 新しい命を眼の前にして──それが失われることへの怯えを知って──今まで屠ったすべての命も、同じものであったということに、気づかないでいられるわけがないのだ。

 そして同時に、ルグレアは気づいた。自分も同じだ。

 そんなこと、とうにわかっていたみたいな顔をして。ジャフィーを守ると嘯いて。

 罪の重さを、本当に、本心から思い知ったのは、今このとき。ジャフィーに向ける利己的とも言える愛とは違うもの、もっと本能的であまりにも理由のない、それこそ『無償の愛』としか言いようのないものが身の内に込み上げた、今、この瞬間だったのだ。


 ジャフィーの白い手に力がこもる。そうして、ジャフィーはふたたびルグレアの目を見た。


「結婚しよう。ずっと一緒にいて。……じゃないと、怖くてどうにかなりそうだ」

 

 『不安』。失われることを恐れる心。──それは、愛の最も根本的な部分。愛というものの原初の形だ。

 ジャフィーもまた、それに気づいた。……己がもう、まだ小さな胚に毛が生えたような状態に過ぎないものを『愛して』しまっているということに気づいたのだ。

 誰かを愛することを知らなかったジャフィーにとって(そしてはじめて愛した存在が殺しても死なないようなルグレアであるジャフィーにとって)、その恐怖は、きっとはじめて感じる類のものだ。


 失いたくない。絶対に失えない。失ったなら、自分自身もまた同時に失われてしまう──どころか、自分自身もいっそ同時に失われて欲しい、と。


 それぐらいの喪失への恐怖が、それぐらいの愛が、今、ジャフィーの中に芽生えはじめているのだ。心底からの怯えに揺れる真紅の瞳を真っ直ぐに見返し、ルグレアは短く頷いた。


「ああ」


 ジャフィーの腹の上、白く長い手指を持つ手のひらに、手のひらを重ねる。

 そこに命がある──ここに愛がある。山のような屍の上に立っていてなお、この手の中のただひとつの命を、絶対に失いたくないと思う。自分があまりに身勝手であることを知っていて、だから何に祈ることもなく、ルグレアはただひっそりと、この腕の中のものを守ることを、改めて心に決めたのだった。



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