十一

 その夜は雨が降っていた。


 私は駅前のベンチの、その横の地面に座り込んでいた。

 そこは人間の席だから、私には座れなかった。


 何人もが通り過ぎる。

 チラチラと私を見る。

 酔っ払いか、狂人か、それとも傷心や体調不良の人間か。


 全部間違いですよ、と私は薄笑いを浮かべている。


 誰一人、私に声をかける人間はいなかった。


 そう、それが正しい。


 そのままヒトが、人間が流れていく。

 ずっと、ずっと、流れていく。

 川のように正しく。

 誰も渦巻いてなどいなかった。


 そうしてどれだけ、正しさが流れただろうか。

 ぴたりと、私の前で止まった靴があった。


「……清水さん?」


 綺麗な、焦茶色の革靴。

 私は顔を上げて微笑んだ。


「お久しぶりです、一色さん」


 一色は戸惑ったような顔を、一瞬だけ見せた。

 それに満足する。

 すぐに私に応じるような微笑みになってしまったのは残念だが、そういう男だからこそ、この私の前で足を止めたのだ。


 もしかしたらこれは、賭けだったのかもしれない。

 誰が私に声をかけてくれるのか。

 職場の最寄りで、店長やバイトの子、いつか会った客や、あるいは全く知らない親切な他人が通るかもしれない。


 だがそんな人たちは誰も通らなかった。

 通って、無視をしたのかもしれないが。


 ともあれ私は、人間としての賭けに負けて、私としての賭けに勝ったのだ。

 一色が、目線を合わせるためか、隣にしゃがみ込む。


「誰か待っていましたか?」

「僕を待っていたのかって、聞かないんですね」

「自意識過剰に思われたくはないので」

「正常ですよ」


 一色が傘を開く。


「光栄です」


 立ち上がって、私に手を差し出す。

 私はごく自然にその手を取った。


「どこかで話しますか?」

「一色さんの家で」


 無遠慮。

 そして自暴自棄。

 しかし一色は驚くでもなく、ただ苦笑を浮かべただけだった。


「構いませんけど、貴方はつくづく面白いですね」

「人間のふりするの、やめたんです」

「……面白い話は大歓迎です」


 一色はにこりと笑った。

 近くで見て、確信する。

 この目は笑っている。

 灰色の瞳に、私は映っている。

 

──────────────────────── 

 

 一色の部屋は、予想通り本で埋め尽くされていた。

 四面全て本棚に覆われ、「散らかっていてすみません」と示された先にも、積まれた本があるだけだった。


 人のための部屋ではなく、本を読むための空間。


「いつか床が抜けるって、苦情言われそうでしてね」


 反省のない口ぶりで一色は言う。


「何か飲んだり、食べたりされますか? と言っても文化的なものはあまりありませんけど」

「いえ、お構いなく」


 喉の渇きも空腹も感じない。

 むしろ摂取という行為をしたくなかった。


 一色は少し首を傾けてから、インスタントのコーヒーを沸かし始める。

 私は「ごゆっくり」という言葉にそのまま従って、ソファに身を埋めた。濡れているかもなんてことも気にせず、麻のエコバッグもどさっと隣に置く。


 ふっと嗅ぎなれない、苦い匂いを感じた。


「……煙草、吸うんですか?」

「あぁ、すみません。臭いましたか?」

「意外です。本に匂いが移るのに」


 一色は「だからですよ」と笑った。


「世界に同じ本がいくつもあるなんて、耐え難くないですか?」

「出版業界の人とは思えない言葉ですね」

「まぁ世に出ないのは困りますから」


 一色は本当に悔しそうな口調で言う。


「本当は一冊で良いのに」

「エゴイストですね」

「……ただの欲ですよ」


 ローテーブルに一色がコーヒーを二つ並べる。

 来客が想定されているのか、揃った柄のカップがあることに少し驚いた。


「本来ならコーヒーも同じです。本当に本を大事にするなら、匂いがつくから避けるでしょう」

「……確かに、そうですね」

「でも自分だけのものにしたいから。これは所有欲でしょうか、それとも独占欲でしょうか」


 一色は私の隣に腰をおろす。

 ぼんやりと呟きながらコーヒーを啜って、熱かったのか、ぎゅっと顔を顰めた。


「……自分のためのコーヒーじゃないから、同じものばかり飲んで、こだわらないんですね」


 彼の淹れたインスタントコーヒーは薄くて浅くて、尾倉カフェに慣れた私にははっきりわかる、不味いものだった。

 ただ彼にそれを気にする様子はない。


「本は味とかわかりませんからね。僕自身も鈍いですけど」


 一色は何かを思うように遠くを見る。

 ローテーブルの上には、まだブームが続いているのか、フランス小説がいくつも重ねられていた。


『マノン・レスコー』『クレーヴの奥方』『人間嫌い』『椿姫』『悪徳の栄え』『赤と黒』『トロイ戦争は起こらない』『ナジャ』『居酒屋』『人間の土地』『嘔吐』『ゴドーを待ちながら』『彼方』『カルメン』『地獄の季節』


 半分くらいは私も、読んだことがあるだろうか。

 その他、タイトルも作者も覚えがないものが沢山。


「失われた時を求めて」


 ぽつりと、思い出して呟く。

 一色は顔を動かすこともなく、本棚の一角を指差した。


「あっちにありますよ」

「……あれ、私読み切ってないんです」

「でもみんなマドレーヌの話は知ってる」


 一色は悪戯っぽく笑って立ち上がると、その長い長い小説の一巻目を手に取った。


「私、尾倉カフェでその話をしました」

「僕もです」

「何故ですか? あなた、尾倉さんを元気づけようなんて、思わないでしょう?」

「……必要だったからでしょうか、その時」


 一色は少し考え込んでから、本をぱらぱらと適当に捲る。


「僕があのカフェに通うようになったとき、有紗嬢はいつも席に座って本を読んでいました。だから本の話をして、気を引こうと思ったんだと思います」

「他人事な言い方ですね」

「深い思慮はありませんでした」

「母親のことと、つまり、彼女の切実な部分と本を結びつけて、彼女に小説を書かせようと思ったんですか」


 問い詰めるような口調になるのが、どうにも滑稽だった。

 私が何を責められる立場だろうか。

 一色は本から目をあげて、私をまっすぐに見た。


「はい、そうです」

「私に書評を書かせるときから、本を書かせようと思っていましたか?」

「それに足る人物か、測ろうとはしていました。そこもそれほど深い思慮はありませんね」

「それに足らない人物になったから、有紗ちゃんにはもう会わないんですか?」


 一色がふっと顔を逸らす。

 私はカンと音を立ててコーヒーカップを机に置いた。


「目を逸らさないでください」

「……どうして貴方が怒っているのか、僕にはわからないな」


 一色は冷ややかに言った。


「有紗嬢と貴方、何の関係が?」

「初めの質問に答えてください」

「だって貴方、聞かなくてもわかっているでしょう」


 億劫そうにどさりと本棚にもたれて、しかし命令通り、一色は私から目を逸らさなかった。

 自分の言葉を後悔しかける。

 お互い、逃げられる方が良かった。

 思いかけて、いいやと首を振る。

 逃げ切って、生き延びて、これ以上先に何があるというのだ。


 今この瞬間がどん詰まり。

 この先には何もない。


「貴方は人間をよく観察して、よく知っている。何が人にとって重要で、打撃を与えるのかも、よく理解している」

「……あなたほどじゃないです」

「僕は貴方ほど他人に興味がありませんよ。都合よく動かせるなら動かしますが、不本意な反感を買うことの方が多いくらいです」

「有紗ちゃんのも、不本意ですか?」


 一色が、はぁと息を吐く。


「清水唯さん。貴方、自分で有紗嬢を人間にしたんですよ。その上有紗嬢が傷つくこともわかってて、私と交友を持ちましたよね」

「……全部私の間違いだって言いたいなら、そんなの痛いほどわかってますよ」


 傷まみれの指先をぎゅっと握り込む。

 こんなものは表面的な痛みだが、己の罪深さを思い出すのには有効だった。


「彼女はもっと本が書けたのに」


 一色が残念そうに呟く。

 私は彼を睨みつけた。


「今だってあの子は書けますよ。むしろこれから世界が広がって、色んなことを知って、もっと良いものを書けるように……」

「そんなことが言いたくて僕を待ってたんですか?」


 私の言葉を遮ったそれは、至極単純で、当然の疑問のように投げかけられた。

 ひゅっと言葉が喉に張り付く。


「違いますよね?」


 一色はいつかの、あの何かが抜け落ちたような顔をしていた。

 抜け落ちた何か、それは人間性だった。


 人は皆、生きる時には何かを貼り付けて生きている。

 熊谷の人を遮断しようとする無愛想も、木村の陽気さも、かつての有紗の無表情も今の笑顔も、彼女に責められた私の一般化も。

 貼り付け続けて、それが自分だと思い込む。


 だが一色は、完全にその仮面を己と分離させているようだった。

 人間らしく微笑んだり、困ってみせたり、風変わりさをわざと自己演出したり。

 普段小器用にこなしているそれを、一色は一瞬で失くしてしまえる。


 その、人間らしくない彼の姿に、私は深い親近感を覚えた。


「貴方は本質的には自分のことしか興味がない、究極のエゴイストです。他者を想うのは自分の正義、そして自分の欲で動きます」

「…………」

「尾倉有紗を元気な普通の女の子にするのは、貴方の正義ですね。私が彼女から離れることは、あの日私を責めようとした貴方が、ご自身で口にしたことですよ」

「……はい」

「さて、僕の自意識は正常ですかね」


 一色は冗談のように言って、もう私を見る必要がないと思ったのだろう、本棚の方へと愛おしむように顔を向けた。


「貴方が聞きたかったのは、僕の関心がどのように貴方に向いているかではないですか?」


 乾いた沈黙。

 認めるしか、なかった。


「……ええ、そうです。本を書く限りの関心だと思っていましたが、有紗ちゃんのことを見るに、そうじゃありませんね」


 一色が手を伸ばして、一冊の本を手に取る。

 それは出版されたばかりの、有紗の本だった。

 表紙には、『タイトルなし』とはっきりと書かれている。


「……僕の読みたい本以外なら、別に僕以外の手からも生み出されますから」


 一色が本を見つめる目は、本当に愛しいものを見つめるときの目で、木村が有紗を見る時のような、尾倉が店を見るときのような、何より尊い慈愛がそこにこもっているように見えた。


「……自分の読みたい本を書かせてるんですか」

「はは、職権濫用ですね。でもこの子の場合はやりすぎたな」


 それを聞いて、一色の言う『この子』が有紗ではなく本自体に向けられていたことに気づいた。

 いや、気づくのが遅すぎた。

 呆然とする私をよそに、一色は少し顔を顰めて反省したように喋り出す。


「……やり方が悪かったとは思っていますよ。僕にも良識はあります。有紗嬢の孤独が短期的なものだと思っていたから、僕も少し焦りました。実際、貴方の功績もあって短期的でしたし」

「……あなた、作家はどうでも良いんですね」

「え?」


 心外だと言いたげに一色は眉を顰める。


「大切ですよ。本を書くのは作家ですから」


 本を書かない人間は、本を書く人間の養分だ。


 そして本を書く人間は、本の養分なのだ。


 そりゃそうだ、と内心で呟く。

 死神は人間に関心なんてない。

 人間の魂に関心があるのだ。


 静寂を切り裂くように一色のスマートフォンに着信が入って、画面をチラと見た彼はそのまま電源を落とす。


「有紗ちゃんですか?」

「……ええ」


 一色は惜しむように、寂しがるように頷いた。


「そんな顔をするなら、もっと書かせればいいじゃないですか」


 思わず言ってしまう。

 そんな人間のような真似をするのであれば。 

 一色は本棚から身を離し、困ったように笑った。


「だって、それは彼女の幸せじゃないよ」


 頭がぐらぐらしそうだった。

 目の前にいる、この男のことが何もわからない。


「わかりません、あなたのこと、全然わかりません」


 初めて正直に吐き出す。

 しかし一色は、それをはっきりと否定した。


「ううん。きっと貴方はわかってくれてますよ、清水さん」


 彼は床に座る形で、俯く私とローテーブル越しに向き合った。


「だって貴方と僕は同じですから」


 一色は鮮やかに微笑む。


「僕は多分、どこか少しおかしいんです。人の心がありません。人よりも本を大事に思ってしまいます」

「…………」

「僕はもしかしたら、人間じゃないのかもしれません。……流石に人間の中のエラーだとは思いますが、それでも、ちゃんと見る目がある人は、僕が異常者だとすぐに気付くんです。貴方や、貴方のところの店長さんのように」


 一色は、自身の異常に早い段階で気が付いていたのだ。その自覚にずっと晒されて生きてきた。

 店長が一色に向けたあからさまで強い嫌悪を思い出す。


「僕は熊谷様にも本を書いて欲しいと言いました。まぁ、振られましたけど。貴方は、僕が異常だとわかっているのに、僕を拒まないでくれましたね」


 ずっと伏せていた顔を少しだけ上げれば、一色が安堵したように表情を緩める。

 私は震える声で、伝えるのではなく、呟くように言った。


「……だって、私も人間じゃないですから」


 コーヒーの入ったマグカップを、きつく握りしめる。


「私、空っぽなんです。中身に何もなくって、他人への愛情も薄いんです。他人のこと見下して、傲慢に生きています。目立つほどでもないけれど、普通にはできないくらいにひどいんです。でも、だからと言ってあなたみたいに、本や他の何かにしっかり愛情を向けられているわけじゃない。本当に空っぽ」


 一度口を開いてしまえば、言葉は滔々と溢れていった。

 一色はただ穏やかな笑みでそれを受容する。


「はい」

「だからずっと、孤独なんです。私自身のせいで」

「僕もです」


 一色は私の最悪な吐露を、あっさりと肯定した。


「僕も、ずっとひとりです」


 伸ばされた手が、カップを握る私の手の上に重ねられる。


「この茫漠な世界には八十億もの人間がいるのに、僕らずっと、どうしようもなく孤独ですね」

「はい」

「どうしようもなく、寂しいですね」

「はい」

「僕は、真面に生きるのに疲れてしまいました」

「……はい」


 ぽたぽたと私の両目から涙が落ちる。


 ずっと、ずっと孤独だったのだ。

 家族といても、友人といても、誰の恋人にもなれず、どこを歩いてもどこにいてもたったひとりきりで、どうしようもない孤独。


 どうして私は誰にも混じれないのだろう。

 孤独を溶かし合えないのだろう。

 苦しい。

 辛い。

 寂しい。

 幼い感情が、私の中でまた白い波を立てる。


 でもきっと、私が孤独なのは、私が誰も愛せないからだった。

 愛せないから、愛されない。

 愛されないから、孤独で、ずっと一人きり。

 それで構わないと前を向いて歩いていけるほどの才能も、強さも、何も持っていないのに。


 私は、一人きりではこんな世界を歩いて行けないのだ。

 まっすぐ進むことさえ叶わない。


 生き疲れたと、ずっと自分のことを思っていた。

 だがそうじゃなかった。

 もう、生きるのに疲れたのだ。


 この二つには絶対的な違いがある。

 役目があって疲れていて、これからもずっと続くと思っている『生き疲れた』という言葉と、ずっと当てもなく彷徨い続けた先の、ふっと糸が切れてしまいそうな『生きるのに疲れた』という言葉。


 死んでしまいたいのだ。

 もう全部やめにしてしまいたい。

 だがそれは、そんな快楽は、私に許されたものではなかった。


 パッと一色の手が私の手を離れる。


「僕はね、本を書かなくなった人間には、二度と会わないことにしているんです」

「あなたの気にいるような本を、でしょう?」

「ええ、まぁ」


 苦笑を浮かべて、一色は言葉に浸るように目を瞑る。


「昔、好きな人がいたんです」

「……人のこと、好きになれてるじゃないですか」


 一色はゆるく首を横に振った。


「彼女は作家志望で、書きかけの小説をいつも僕に、一番に見せてくれていた」


 きっとそれは、一色にとって何より大事な記憶なのだろう。

 唯一の、人を愛せていると思っていた頃の記憶。


「でも高校生になった頃かな、彼女、次第に小説を書かなくなって。恋人ができて、結婚して、出産して、もう普通の大人なんだから本なんて書いてないよって、僕に笑って言いました」


 歳上の女性だったのだろうなと、少ない物語から想像する。

 一色が作家を目指すのをやめたのは、きっと愛した彼女の作品を越えられなかったからなのだろう。

 そうして今も、その幻影を追っている。


「変ですよね。彼女が恋人を作っても結婚しても。子供を産んでも、なんとも思わなかったのに、その瞬間に彼女への関心が全く失くなっちゃったんです。あんなに好きだったのに」

「……本を書く彼女が好きだった?」

「いえ。その後も、手元に残った彼女の作品たちは愛せました。だから僕は、彼女の書く本が、それだけが好きだったんです。そう気が付いたときには、僕はこんなにも人でなしだったのかと、かなり絶望しましたね」


 そう言いながら、一色は軽やかな笑い声をあげる。


「いっそ夫や子供を殺せば彼女はまた本を書くのかと、本気で考えたことさえもあります」

「やらなかったんですか?」

「言ったでしょ。そんなことしたら、その本は出版できません。僕が彼女の本の価値を損なってはいけない」

「やれば良かったんですよ。そうしたら、あなただけの本が読めたかも」

「あはは、そうだね。そうすれば良かったのかも」


 話に不釣り合いな笑い声を、私たちは交わす。

 言葉も笑い声も、四方を覆う本たちが吸い込んでくれる。

 この瞬間、この部屋で、私たちは不道徳な子供だった。

 人間として、大人として必要なものを何一つ身につけていない、獣性のままの子供達。

 ここではそう在ることが許されていた。


 しかし一色はふっと両腕に顔を伏せて、自分に言い聞かすように、掠れた声で言った。


「でも、嫌われたくも、嫌いになりたくもないんです。だから、本を書かなくなった人間には二度と会わない。その方がきっと、僕も、彼女らも幸せだから……」


 最後は諦めのようで、半分、涙声のようであった。


 この人は弱い。

 人並みに生まれられなかったのに、生きられなかったのに、人並みに弱い。


 本当はもっと普通に、生きたかったのだろう。


 それができないから特別を目指して、何にも頓着しない風変わりな人間を演じて、もがいている。


 彼は私だった。

 少し迷って、机に突っ伏している一色の頭に手を伸ばす。

 触れた瞬間、彼は驚いたように身を起こして、それからまた困ったように笑った。

 それは何かの決心のように、私の目には見えた。


「……僕も貴方も孤独だけれど、きっと僕と貴方は、全くの同じではないね」

「一色さんには本があって、私には何もないから」

「それが根本だけれど……僕は例の彼女のせいでずいぶん早くに僕を知ってしまったから、生きようとしたこともないんです」


 そう言った彼は、ずいぶん幼い笑みを浮かべていた。

 手を伸ばして、自分の分のコーヒーを啜る。

 冷め切ったそれは香りも薄ければ、味もほとんどしない有様だっただろう。

 ただ苦味が喉を降りていく。


「あはは、やっぱ不味いな、これ。尾倉さんのところに行きすぎました」

「有紗ちゃんに嫌われちゃったから、私もうあのカフェ行けません」

「バレちゃったんですか」


 半分は自分のせいなのに、一色は全く反省の色もなくからからと笑った。

 私は彼を横目で睨む。


「あなたのせいでもありますからね」

「どうですかね」

「どうですかねって」

「いや、貴方は……」


 言いかけて、口を噤んだ。


「貴方は、何です?」


 問い詰める私に、一色は首を横に振った。


「……いえ、これは僕の話すことじゃないなと思って」


 一色はまた立ち上がって、キッチンの方へと行ったかと思うと戻ってきて、インスタントコーヒーの瓶を軽く振る。


「これ後から入れても濃くなりますかね?」

「冷めてますから、やめたほうが賢明かと」

「やっぱり駄目か」

「良いですよ、薄くて不味いのでも。どうせ私たち、人間じゃないんですから」

「……それもそうですね」


 一色は微笑んで、瓶をテーブルの上に雑に置く。

 そうしてようやくまた、私の隣へと腰を下ろした。

 また煙草の匂いがかすかに香る。

 この匂いを感じる度に、私はこの部屋を思い出すのだろうと思えた。


「さて、と。僕と貴方がすべき話は、こんなくだらない理不尽な世界の話じゃなくて、本の話だと思いませんか?」

「……そうですね」


 私はくすりと苦笑して、それから麻袋からPCを取り出した。

 電源を入れればすぐに、書きかけの原稿が表示される。


「ずいぶん書きましたね」


 ページ数を見て、一色が驚いたように言う。

 私は肩をすくめて見せた。


「一色さんが私小説っていうから、私をそっくり全部書いてるんです」

「全部?」

「こうやって私の人生を全部、小説に切り売りしているんです」

「自分を削る作業、ですね」

「はい。そうしていくと、少しずつ、自分が死んでいくのがわかるんです」


 書き進めるほど、私は『私』という作品になっていく。

 私という人間は消えていく。

 それが心地良かった。


「執筆って、遠回しな自殺なんじゃないかと思うんです」


 私は遠くを見て呟く。

 一色も、私の見るものを見ようとするように、遠くへと目を向けた。


「……自殺、ですか」

「もし作家としてお金も視野に入れて書くなら、売春と行っても良いかもしれません。まぁ、どちらも経験がないので想像に過ぎませんし、春なんて青いものを書いているわけではありませんが」

「それじゃあ貴方にとってはずいぶんと……苦しいことなんでしょうか」


 労りではなく、好奇心だっただろう。一色の声には面白がるような響きがあった。

 私は声をあげて笑った。


「私は知らないけれど、死もセックスも快楽でしょう」

「……なるほど、そうとも言えますか」

「書いているだけで実際は何も変わっていないのに、何故だかすごく気持ち良いんですよ」


 後ろめたさを振り切って、私は言い切る。


「自分の愚かさ、醜さ、恥ずかしさ、浅ましさ。人を愛せない心と、孤独を言い訳に色々なものを求める罪深さ。ただそれを書いているだけで、私自身は何も変わっていないのに、なんでかな、嫌な私が私から離れていくような気がするんです」


 単なる客観視とは違う。

 上手く言い表せない感覚だった。

 一色が何かを見ようとするように首を傾げる。


「……形代、なんでしょうか」

「形代?」

「貴方を宿す、身代わりの人形として、貴方の本は機能しているのかと思って」


 一色は「願望ですが」と付け加えて、さらに言葉を継いだ。


「貴方の代わりに、貴方のものを負っているのならば。書き終えたときに、貴方は自分の業から解放されるのかもしれません」

「……もし本当に形代なら、完成した本は壊すか、御焚き上げしなきゃじゃないですか?」

「あ、そうか。それは惜しいな……」


 そう言って一色は、また困ったように遠くを見る。

 同じ場所を見ながら、本当にそうであってくれれば良いと、私は強く思っていた。


 本当は、そうなってはいけないのかもしれない。

 私は私として、この身で、全部を負わなければいけないのかもしれない。


 だが私が生き直すためには、これまでの私を殺す必要があると、直感していた。

 四十年弱で完成してしまった私という球体を、跡形もなく、粉々に殺し尽くす。


 それは快楽かもしれない。

 自分に優しい逃避かもしれない。


 だがその先で、死の先の生で負うために、私に必要なことだった。


 生きるのに疲れたのなら死ねば良い。

 今度はちゃんと、生き疲れることができるように。


「私、本当に全部書きますからね。あなたのことも、全部。あなたのせいで人生変わっちゃったんですから、書かないわけにはいきません」

「ははは、それは楽しみです」


 嬉しそうに笑う一色に、私はずっと気になっていたことを尋ねてみる。


「……有紗ちゃんの本でも思いましたけど、自分が作品のモデルに入っているって、恥ずかしくなったりしないんですか?」

「むしろ養分として何より光栄なことでは?」

「……確かに」


 納得させられてしまった。

 それが彼の、一色千里の生き方なのだろう。

 そして彼はこの先もそうして生きていく。

 それだけが、彼がこの世界で生き続けていく手段だ。


 ならば私はどうやって、清水唯を生き、そして終わらせるべきだろうか。

 自分も知らなかった自分の醜さを知り、幼さを知り、罪を犯してしまった私は、この身をどう裁くべきだろうか。


 ローテーブルの本の山に目をやって、私はぽつりと呟く。


「……ファム・ファタール」


 運命の女。

 どこまでも魅力的に、ただ在るだけで男を破滅させる魔性の女。

 人を魅了する、強い運命の星。


「フランス文学の特徴ですよねぇ」


 小さな呟きも聞き取って、一色は『マノン・レスコー』に手を伸ばした。

 パラパラと本を繰る一色の横顔は、決して美男子のそれではないが、私を魅了するに十分過ぎるものだった。


 きっと、有紗もこの横顔を見ていたのだろう。

 あの不思議な色の瞳が、こちらに向けられることを祈って。


 私は小さく笑った。


「男の人だから、オム・ファタールか」

「はい?」

「あなたの話」


 ピンときていないのだろう、きょとんとするその目が私に向けられているのを見て、私はどうしようもない満足を覚えた。


 私は彼を見ている。

 彼も私を見ている。


 きっと今この時間だけは、私たちは孤独ではなかった。

 互いの孤独を分け合っていた。


 破滅の前の、幸福な一瞬。


「あなたのせいで、私も有紗ちゃんも人生めちゃくちゃ。きっと他にもそういう女の人がいるんでしょう、と思って」

「……人聞きが悪いな」


 一色は苦笑いで目を細めた。


「別に、破滅させようなんて思ってませんよ。男性作家の担当だってやりますし」

「あはは、多様性の世の中じゃないですか。それに、ファム・ファタールってそういうものでしょう。魔性なだけで、悪意なく男を惑わせて破滅させる。そういう運命の女」

「……そうですけどね」


 読んでいるが故に、否定できないのだろう、

 一色は『マノン・レスコー』に目線を落とし、それから不満げに首を振ってテーブル置いた。


「でしょう?」


 私はにこりと笑って、子供じみた動きで、寝そべるようにソファからずり落ちる。


「私、あなたのせいで化け物としての自分に目覚めちゃいました。ずっと良い人に、真面な普通の人になりたかったのに、あなたの瞳に映る特別な存在でいたいと思うようになっちゃいました」

「……それは、」

「つまり、あなたのことが好きなんだと思います」


 一色にしゃべる間を与えず、私は自分の想いをはっきりと、言葉にする。

 言葉にして、形を与える。

 まるで若い少女の青い独白のようだった。


「あなたは人生で唯一本を好きになったし、最愛の本を探している。私は人生で唯一、あなたのことを好きになりました」

「…………」


 言葉に迷っているのだろうか。

 一色は口を開いたまま、何も言えずに私を見つめていた。

 勝ったと、今までの私だったら思っていただろう。

 だが今はただ、心からの言葉を紡ぐその一つ一つが楽しかった。


「私が小説を書くなら、あなたは私の養分になってくれるんですよね」

「……ええ」

「私が望んだら、あなたのこともくれる?」


 一色は目を瞬かせて、しかし、すぐに微笑んだ。


「そう望まれるなら」

「火のないところの煙じゃなくなっちゃいますね」

「別にそんなことどうでも良いですよ」

「本だけが大事?」

「……ええ」


 そこには永遠があったかもしれない。

 無限もあったかもしれない。

 私はこの地点から何にでもなれたし、一色もまた、何にでもなれただろう。


 しかし私は、それら全てを切り裂くことを選んだ。


「……ふふ、残念。冗談ですよ」


 私は勢いよく立ち上がって、冷めたコーヒーをぐっと飲み干す。

 軽やかな苦味が全身に広がる。

 一色はふっと笑って、力が抜けたように深くソファに身を沈めた。


「……全く、他人に魔性だなんだって言えた立場ですか」

「あなたのことが好きなのは本当ですよ。多分、世界で唯一、この先も唯一の、私の最愛です」

「……どうすれば良いんですか、僕は」


 一色が何かを求めるように、立っている私に右手を伸ばす。

 私はその手を取るのではなく、正面に向き直って、握手をした。


「名前をつけたから、これで終わり。永遠にはしない」


 これは恋だった。

 私の最初で最後の、歪み切って、間違った、最低最悪の恋だった。

 そうして名前をつけたのだ。

 私の心は、永遠にはならない。


「……わかりました、残念ですが」


 一色は目を瞑って、全てを受け入れるというように、そう答えた。


「あなたは私の運命だった」


 そして今、終わった。

 一色は私を見ることはしなかった。

 目を閉じ、天を仰ぐように上を向いたまま、ただ右手に力を込めた。


「きっと僕は今のことを、何年先でも後悔するんだろうな」


 そうして手は離された。


 もう二度と、繋がれることのない手と手だった。



 秋の夜雨は冷たかった。

 きっともう、冬が来る。

 雨に打たれながら、泣きながら、私は笑い声を上げる。


 冬は慰安の季節だろうか。

 どうあれ私は、私の罪を雪ぎに行くのだ。


 そのために生きるのだ。


 私を救う手はもうどこにもない。

 どこにも求めてはいけない。


 私の足で地面を歩く。

 水たまりを踏み抜き、飛沫の冷たさを正面から感じる。

 私のこの両手で、私自身をぎゅっと、強く、抱きしめる。


 生き直そう。

 生まれなおそう。

 私はただの人間になりたい。


 ただの人間として、愛を持って生きられるように、まずは自分を粉々になるほど抱きしめて、それから世界を抱きしめなおそう。


 生み出してしまった私という化け物は、私自身の手で死に送ろう。


 そう、だから。

 私の書く小説は、これまでの私を終わらせるもの。

 タイトルは『遺書』。

 作者は『清水唯』。

 はっきり記して、終わらせるのだ。

 

 これは私、清水唯の遺書である。

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