『千里さん来なくなっちゃった』


 二階から勢いよく駆け降りてきた有紗が、店に来たばかりの私にばっと開いたノートを見せてくる。

 パジャマ姿のままで、真っ白な顔で。


「……え?」


 突然のことだったからなのか、そんなこと全く予想もしていなかったからなのか、私の脳がその文字列を受け入れるまで、しばらく時間がかかってしまった。


「あ……お仕事、忙しいんじゃないかな?」


 言いながら、そんなはずはないと思っていた。

 まだ年末でもなく、小説賞やら何かの企画を彼の出版社がやっているわけでもない。


 一色が忙しいとすれば、彼の担当している他の作家に何かあったのだろうか。だとしても、作家である有紗のことを疎かにする彼ではないだろう。

 有紗はぐしゃぐしゃと涙痕の残ったノートに乱雑に書きつける。


『連絡取っても、繋がらないし、返事もないの』


 明らかに何かが、起きているのだと思えた。

 そして有紗の様子も尋常ではない。

 ただ好きな人に長いこと会えていないというだけではない、何かに絶望しきったような表情で、今にも倒れそうだ。


「こら、有紗、部屋で休んでなさいって!」


 焦ったように尾倉が現れて、有紗の手を引いて二階へと押しやる。


「すみません、清水さん。あいつちょっと……」

「あ、いえ、全然構わないですが……大丈夫なんですか?」

「調子悪いんだと思います、上で寝かせておきますから、ごゆっくり……」


 そう言って尾倉は、注文を取ることも忘れてキッチンへと戻って行ってしまう。

 店内をくるりと見渡した私は、呆然として動きを止めている木村と、彼女の友人たちの姿を見つけた。

 申し訳ないと思いつつ、声をかける。


「木村ちゃん」

「……あ、副店長。今有紗ちゃんって」

「私も詳しくはわからないんだけれど、ほら、あの例の好きな人って言っちゃ悪いのかな、その人と連絡がつかなくなったって……」


 木村の位置からではノートは見えなかっただろうと説明をする。


「逃げられたってことですか?」


 木村の声にパッと怒りが灯って、思わず怯む。


「そんなことでは、ないと思うけど……だって、別になんの事実もなかったわけだから……」

「当人たちにしかわかんないですよ、そんなの」


 バッサリと木村は言い捨てた。

 彼女の言葉は正しかった。

 当人たちにしかわからない。二人が何を話していたのかも、どのような関わりだったのかも。


 じわりと手のひらに汗が滲む。

 スマートフォンを取り出し、一色にメッセージを送ろうとして、いやと思いとどまる。

 木村が有紗に会う前に言ったように、賢い人間には準備時間を与えてはいけない。

 焦りが伝わったのだろう、木村が制するように私の手に触れる。


「その男の人に連絡取ろうとしてますか? 有紗ちゃんに声かけようとしてますか?」


 パシャリと、水を浴びせられたようだった。


『あなたは何にどう心を動かしているんですか?』


 言葉にされない問いかけとして、木村の、カラーコンタクトが入った鮮やかな目が私を見つめる。

 スマートフォンを握っていた手からだらりと力が抜けた。

 それをしっかり確認して、木村がぽつりと言う。


「有紗ちゃんは、落ち着いたらもう一度降りてくると思いますよ。清水さんと、話したいんだと思うから……」

「……そうね、少し待ってみる」


 私は奥のいつもの席に腰掛けて、集中できるはずもないのに、習慣のようにPCを開いた。

 オーダーの取り忘れに気づいて後からやって来た尾倉に、いつも通り今月のブレンドと『おぐらトースト』を頼んで、ただじっと画面を睨みつける。


 私は私の醜さを、もっと直視しなければならない。


 書きかけの、この小説とも言えないような独白の書き連ねの中には、私がそっくりそのまま生きている。


 有紗の蒼白な顔とノートを見た時に、私のなかの何パーセントに有紗がいて、何パーセントに一色がいただろうか。

 私は私を直視しなければならない。

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